ベナン共和国
ベナンの最北部タタソンバ郷にある伝統住宅 |
旅の初めに・・・ 2012年11月、アフリカの文化に魅せられて、西アフリカのベナン共和国の旅をする。 何故、原始宗教が生まれ、独特の住まいが出来たのか興味は尽きない。 |
地域はギニア湾、黄金海岸、奴隷海岸とも揶揄される | 首都はボルトノボ |
ワンポイント情報 ・正式国名 ベナン共和国 ・言語 フランス語 |
アフリカ全土のデータ ・面積 世界の22.2% ・後発開発途上国(LDC) 34カ国 ・国数 56カ国 ・困窮度 1日1ドル未満で生活する人:全人口の41.1%(2004年) ・人口 9億2,500万人(世界の14.2%)(2006年) ・飢餓率 飢餓率が35%を超える国:18カ国 ・識字率 15才以上63.3%(2004年) ・平均寿命 男性48.8才、女性50.2才(2005年) ・エイズ(HIV)感染率 15-49歳人口の5.9%が感染(2006年) |
☆国境イミグレーション
トーゴからベナンへ ベナンは珍しい青空オフィス | トーゴのソコデからベナンへの国境は簡素手続き | 田舎町である |
☆ベナンへ入国
中国が作った舗装道路、「思惑道路」と名付けた |
☆ ベナンとは
北はニジェール川、南はベニン湾に挟まれており、南から北へ進むに連れて徐々に標高が高くなる。ほとんどの人口は南の海岸平野地帯に集中しており、特にポルトノボとコトヌーがベナン最大の都市である。北部はほとんどがサバンナと半乾燥の高地である。 ベナンの気候は高温多湿であり比較的雨量は少ないが、一年に二度雨期があり、4月から7月にかけてと9月から11月にかけては雨量が増加する。 ベナンの経済は低開発であり続け、国民オイルなどの輸出用農業生産のほか、自給用のトウモロコシなどが栽培されている。 世界屈指の原油埋蔵量を誇るギニア湾に面しているが、油層に恵まれないためか1980年代に小規模な海底油田が開発されて以降、開発は停滞している。石油製品の国内消費量の大部分は、隣国のナイジェリアに頼っている。 |
小さな街の学校 |
殆どが歩いており、交通手段は見られない | 街のシンボルか |
☆ナティティンゴ
ベナンで最も標高が高いアタコラ山脈付近にあり、標高は440m。人口7万人程度。 山の斜面にまで家や農地が広がっている、盆地の街である。隣国ブルキナファソへの通過地点でもあり、サファリが楽しめる北部国立公園への玄関口の役割も担っている。 |
ホテル 看板さえ見当たらない | 前菜、 ビールさえあれば・・・ | メインはチキン料理とそれなりの味のライス |
☆ナティティング芸術・伝統博物館
ここでは、ベナン北部の民族が使っていた楽器、割礼などの儀式に使われていた道具類、ソンバ族の伝統家屋の模型、奴隷貿易に関する資料が展示・公開されている。 |
看板、ここはフランス語圏 | 入口 |
大木に彫り物、昔の生活様式が | 意味不明なのがこれまた良い |
館内写真NG 民芸品はOK | リアル | アフリカは頭にのせて運ぶ文化 |
☆タタソンバ郷
ベナンの最北部の街タティティンゴ(人口7万人)から至近距離にあるタタソンバ郷。 黒人の部族間の争いが絶え間なく、負けると男も女も、子供さえ奴隷として売り飛ばされる。生き延びるためには同じ部族間でさえ犠牲となる。また周辺は野生動物が住み、襲われる事もある。 そのような環境の中から、泥で作った頑強な住まい、要塞化した住居を造る様になる。壁の暑さ1mもあろうか、天井もふさぎ何処からも侵入されない要塞である。敵や猛獣が攻めてくると閉じこもるのである。 |
街はずれの道路沿いに学校が、校庭は整然 | 今日は青空学校か | 学校の横を通り抜け、伝統住宅へ |
奴隷狩りや猛獣から守るための住まい。壁の暑さは1mほど |
土着信仰(アニミズム)の生贄の動物の骨が入口に飾れている | 屋根は茅葺 |
子供達は裸、裸足 | この子供達は学校にも行けないのだろうか |
1階部分 石のまな板類 | 1階部分には家畜と年長者の寝床 食器が散乱 |
2階は穀物(トウガラシ)や種などを干す | 2階:若い子供達の部屋 | 2階:若い子供達の部屋 敵が来ると扉を閉める |
住まいの周辺にはトウモロコシやバームオイルの樹 | 大きな木(バオバブの一種)が伝統宗教のシンボルであろう |
タタソンバ郷に暮らすソンバ族 |
少年 種族を表すために、生まれるとすぐに模様をつけると言う。まるで畳で昼寝をした後の様 |
物思いにふける娘さん | 長老の奥さんも裸足 |
作物 | トマト | ヤシ類か |
粟の様 | 仲間の人がポラロイド写真で撮りプレゼントすると興奮して後を追う |
☆ アフリカはかってヨーロッパの植民地
1912年のアフリカはヨーロッパ各国の植民地 |
何故、奴隷狩りが始まった? スペインの大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開された。 アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。 ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガル人が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まる。 大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)や王様、アラブ人商人である。 中南米やカリブ海の国々の熱帯地域において、サトウキビ・プランテーションで伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。 そこで、熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれているが、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。アメリカ合衆国では南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。 奴隷はアフリカだけで行われた事ではない。日本の戦国時代でも行われていた。勝った武将は負けた所から女子供を略奪するのは普通であった。 人間は罪深い動物なのである。 |
☆タンバルマ郷(ベタマリベ族)
トーゴ圏だがイミグレーション手続きは無い。ベタマリベ族の暮らす世界遺産のタンバルマ郷。 タキヤンタ と呼ばれる独特の泥の住居群などが織りなす文化的景観が評価され、ユネスコの世界遺産に登録された。2007年現在では、トーゴで唯一の世界遺産である。 キリスト教やイスラームとは一線を画した状態で、独自の文化的景観を保ち続けていたことが評価された。 |
タタソンバ郷から小一時間の所にベタマリベ族の長老の家があった | 花はどこでも平和のシンボル |
泥の住居で壁は厚く、要塞化した住まい | 入口には厄除けの動物の骨と作物、プードゥ教であろう |
入口に動物の骨、原始宗教は今でも健在 | 鶏とひよこ、沢山飼われている。唯一の御馳走 |
☆荒野の一軒宿
荒野の道路沿いにポツンと1件、体験型ホテルらしい | ユニークな作り |
学校帰りの子供達が説明してくれるが、言葉が通じない | 道路の片隅に看板がありました |
☆ナティティンゴのホテル
本日はフランスワインで乾杯、話題は尽きない | 本日のメインはピザ |
☆アフリカのホテルの必需品
マラリアにかからないためには蚊取線香は必需品。ノミや南京虫予防にはナフタリン必携 | 停電が多いので、ヘッドランプとロウソクも用意 |
☆沿道
裸足姿が多い | 中国道路 | 沿道にはミニ売店が多い |
連日30度〜35度、現地人でさえ動きたくない | 車は中世紀のものと思われるポンコツばかりが目立つ |
☆ドンガ村
ナティティンゴからアボメーへの道路沿いにドンガ村がある。ベナンの村の生活様式がみられる。 ここに暮らすデンディ族の人々の生活ぶりを見させてもらう。油ヤシの赤い実は噛めば噛むほどココナッツの味がする。殆どの人は裸足である。 |
ベナンの一般的生活 | 薪で煮炊 | 井戸端会議? |
かまどと鍋、炭が散乱 犬ものんびり昼寝 |
犬か羊か、立って寝ている | 米をふるいに掛けて籾殻を飛ばしている。鶏がとにかく多い |
アフリカ女性のファッション・ショー | すぐポーズをとってくれる。写真を見ると大喜び。カメラなどの文化は無い |
ナツメヤシとネギの作業 | ネギの栽培 |
ナツメヤシの樹 | 赤くなると食べ頃 | 完成品 |
アブラヤシ 古くから中部アフリカの熱帯雨林地帯で広く栽培されており、果肉と種子から油脂が取れ、単位面積当たり得られる油脂の量は植物中屈指である。 成木は単一の幹からなり、高さ20mに達する。葉は羽状で長さ3-5mほどのものが、年間に若木では約30枚、樹齢10年以上の木では約20枚が新しく生える。 |
☆ダンコリ(ブードゥ教最大規模の聖地)
ベナン全国、隣国のトーゴやナイジェリアからも御祈りに来る信者がいるほど有名地である。 お祈りの方法は、まず木の杭二本を男性用女性用と分かれた小山に祈りを込めながら打ち付け、そこへパームワイン、パームオイルを口に含み吹きかける。 600年前にダンゴリという人によって行われた。この周辺はひどい匂い(オイルの臭いか)と血の臭いで充満している。異様な雰囲気である。
そしてその祈りが通じた暁には、再びここを生贄のヤギや鶏と共に訪れ、その血をささげ、肉はダンゴリの人々にあげるそうである。
国道沿いに異様な感じ |
ダンコリの看板 | 砦のような |
一心不乱に祈る信者 | 杭二本を打ちつけ祈る |
生贄のヤギや鶏の肉を待ち続ける周辺の住民 | オイルの臭いと血の臭いで異様 |
☆ブードゥ教とは
沿道にはトウガラシを干して、即席栽培 | 田舎のガソリンスタンドは青空、シンプル・ザ・ベスト? |
珍しい山が、殆ど平地が多い | これも宗教のシンボルなのだろう |
☆ダッサ(小さな町)の地元住民が利用の食堂で昼食
ガイドが地元料理は如何? 恐る恐る頷く | ワイン、これで先ず呆気に取られる | 食堂の前では物売りが商売 |
ベナンのヤンキー姉ちゃん のよう | 物売りにそっぽを向くオジサン達、沈黙が続く |
食堂のテーブルにまで物売りが堂々と、ひさしを借りて何とやら | チキン、熱を通しているのでマッ良いか!ビールで消毒も |
男性用小用トイレは食堂横、炭の粉をひいてある。何となく・・・ | 住民の現金収入の一つは炭販売 |
食堂前の道路沿いに積まれた、米だろうか? | バイクのタイヤ、丁寧に包まれている |
食堂の横の家、昼寝か働きたくないのか | ツアーの専用車はまた故障、村のタクシーで移動 | ガソリンを大瓶に入れて売る店 |
☆アボメー
かつてのアボメー王国の都がおかれていた都市。この都市には、ベナンで唯一、ユネスコの世界文化遺産に登録されているアボメーの王宮があり、多くの観光客が足をはこんでいる場所である。街の入り口には、アボメー王国の王様だったベンハンゼンの銅像がある |
アボメー王宮郡、バンハンゼン王 銅像 | アボメー歴史博物館 |
☆アボメー王宮博物館
アボメーには、ベナンで唯一、ユネスコの世界文化遺産に登録された「アボメー王宮」がある。 ベナン共和国の前身であるダオメー王国の都だったところである。ベナンの伝統宗教であるブードゥー教色が濃く、歩くだけでたくさんの祠(ほこら)に出会う。 写真はNG。
多民族国家のベナンだが、その多数派であるフォン族の中心的町である。アボメー王宮は市内に点在していて、そのうちの一つが王宮(歴史)博物館になっている。
中には、奴隷貿易で奴隷と引き換えにされた品々や、王様の生活用品、キッチン用品、伝統工芸品などが展示されている。一番インパクトがあるのは、王様のイス。
戦いに勝った敵の大将の頭ガイコツを、椅子の足に備え付けてある。
アボメー王宮(歴史博物館)外観 | ベナンで唯一、ユネスコの世界文化遺産に登録 |
中庭 | 中庭で民芸品の作業 | 見取り図、館内は写真NG |
☆アボメーのホテル
今日も蚊の心配をしながらホテルへ | 民芸品 | 民芸品 |
☆沿道・・・一路首都ポルトノボへ
村の家 | 村の家 |
皮で砂利採掘 | 住民が現金を稼げるおいしい仕事 |
ヤシ畑 | 畑 |
☆ 首都 ポルトノボ
ポルトノボは、ベナン共和国の憲法上の首都。ベナン第2の都市であるが、同国の事実上の首都機能は最大都市コトヌーが果たしている。 ポルトガル人の建設したポルト=ノーヴォ(ポルトガル語で「新しい港」)が起源である。その後、フォン人の興したポルトノボ王国の首都となり、内陸部のダホメ王国と対立しながら奴隷貿易で繁栄したが、19世紀にフランスの支配下に入った。1960年にダホメー共和国が独立するとその首都となった。 2005年のポルトノボの推定人口は234,000人である。 |
雑多とした首都 | 青空コンビニ | 青い制服のタクシー・バイク |
バイクが公共の乗り物 | 中国道路だけが目立つ |
☆ポルトノボ民族博物館
2階建ての博物館で、マスク、楽器、占いの道具などが展示されている。展示物の数も比較的多い。 |
簡素な入口 | 歴史のある看板? |
立派な門があるではないか | 博物館写真NG アフリカは殆どが写真NG 、さほど珍しい物は・・・ |
建設中の国会議事堂 | 街中さがして今夜のビールを |
最後の王さま像 | 首都ポルトノボからナイジェリアの首都ラゴスへ、有名な国境へ |
☆ 略史
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旅を終えて・・・ 期待通りのベナンの国であった。ブードゥー教という民間信仰は、アフリカの社会構造を根底から崩した、奴隷狩りから起こったものであろうと思われる。悲しい歴史から生まれたと言えよう。 要塞のような住まい、未だ信じられている生贄、劣悪な生活・・・ テレビもディジカメも、携帯電話も無い。我々を見る目は宇宙人かと目に映るようなものであろう。日本からの観光客もよほど物好きなメンバーしか行かないこの地帯である。 この様な文化でも良い。知らなくても幸せそうだ。変な文化などない方が良いのかも。 終わり |