ボスニア・ヘルツェゴヴイナ 紀行

サラエボで見た日本の桜、平和の象徴として愛されている。名前がちょっと・・・おかめ桜というそう

 旅の目的・・・

 2010年11月、2012年4月、ヨーロッパ旅行のおり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪ねた。
ユーゴスラビアの1国であったが、独立解体後も最後まで紛争が続き、宗教の違う民族が戦った悲惨な歴史がある。その代表的な争いの場所、モスタルの地を見るため、そして復興なった石橋をぜひ見たい。

 2012年は、首都のサラエボを中心に計画した。 第一次世界大戦勃発の現場、サラエボのラテン橋も訪れてみたい。
 

        ☆ワンポイント情報

 ・国名    ボスニア・ヘルツェゴヴイナ    ・民族   ムスリム44%、セルビア人31%、クロアチア人17%
 ・面積    北海道の3/5              ・宗教   イスラム教、セルビア正教、カトリック
 ・人口    385万人                ・言語   ボスニア語、セルビア語、クロアチア語 
 ・首都    サラエボ                ・産業   
木材業、鉱業、繊維業、電力

      ☆ 元は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」の1国

 (旧)ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の当時の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアとなっている。

 第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビアの社会主義国家。ヨシップ・ブロズ・ティトーの指導の下、ユーゴスラビアは冷戦下において中立政策を維持し、第1回非同盟諸国首脳会議の開催国となるなど、非同盟諸国のなかで中核的な役割を果たした。

 その後には、ユーゴスラビア連邦は解体へと進み、ユーゴスラビアからの離脱や新しい国の枠組みをめぐって異民族に対する憎悪が噴出し、大規模な暴力を伴う一連のユーゴスラビア紛争へと発展し、1992年解体した。

       ☆ ネウム

クロアチアから国境を超えると小さな町:ネウム

ホテルやスーパーが多い

日本人が多いスーパー

店先には「おおきに」の文字が

チョコレートが評判とか

     

 アドリア海沿岸に位置する人口4300人ほどの町。
 この地域がボスニア・ヘルツェゴビナ唯一の海に面した部分である。殆どがクロアチア人。物価が安く周辺の国から買いに来る。

     ☆モスタル

         キリスト教カトリックの教会                                  橋をはさんで反対側がイスラム教の街     

        イスラム圏: 通りには石がひかれていて、女性は下を向いて歩かないと危ないらしく、何故このようにしたかと言うと、女性が歩行中よその男性を見ない
                様にしたらしい。だから通称この道を男性の嫉妬通りというようだ。ヤレヤレ。

       

                   復興なったスタリーモスト(古い橋)。左側がカトリック圏、右側がイスラム圏。この橋をはさんで同じ民族が争ったという。

☆ 動画 モスタルの石橋  http://www.youtube.com/watch?v=l1x69YtqKPs

   

            川の左側にはカトリックの教会、右にはイスラムのモスクが見える。      復興なった石橋だが、未だ両方の民族は完全に和解していない様だ。

☆ 動画 モスタルの石橋  http://www.youtube.com/watch?v=hTEAlKzWkXo

   

         橋の向こう側はイスラム圏、古いビルは銃撃の跡が生々しいが、そのまま残されている。   びっしりと埋め尽くされた石の歩道は何を意味する?

                            石橋の近くの博物館には写真が。 左が破壊中の石橋、中が破壊後、右が復興後。

   

                                  イスラム圏の街には破壊されたビルが未だ多数。 右はビルに銃弾の跡。

 未だ和解ならず!

 観光バスの運転手はクロアチア人。モスタルでは昼食場所が石橋の近くのイスラム圏のレストラン。
運転手はいつもガイドと食事をしていたが、この日はいない。ガイドに聞いてみた。私はイスラムの人や、ましてやイスラム人の経営しているレストランでは食事はしたくないと言って、橋の向こうのカトリック圏のレストランに行ったと言う。

 日本人には理解が難しい民族問題、宗教の対立は根が深そうだ。無理もない、民族間で争って未だ18年だ。親兄弟が犠牲になった恨みや怨念はなかなか消えないのも無理はない。平和の橋はいつ名前の通り平和になるのだろうか。

 ボスニア内戦

 1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言を行うと、モスタルはユーゴスラビア連邦軍の攻撃を受けた。ボスニア人(イスラム教)とクロアチア人(カトリック)は町の防衛を行い、ユーゴスラビア連邦軍やセルビア人勢力は町の周辺から砲撃を行った。
 後にボスニア人とクロアチア人との間で戦闘が始まると、状況はさらに悲惨なものとなった。モスタルの象徴であったネレトバ川にかかる橋であるスタリ・モスト(古い橋)もこの時期にクロアチア人により破壊された。

かっては農業国、羊も多い

ようやく農業復活

ブドウ畑が続く

モスタルでランチ・タイム

前菜

ポーク・カツレツ

イスラム街地区

トルコ系の土産物店がひしめく

トルコの宝石

イスラム寺院からのスタリー・モストの橋

トルコ国旗、かってオスマン朝が400年統治

イスラムのモスク「コスキ・メフメット・パシナ・ジャミーャ」看板

モスク

モスク内部

天井

床は当然トルコ絨毯

      ☆トルコ人の家

観光名所となったトルコ人の家

居間を紹介するガイド

寝室、現在も住んでいる

      ☆観光スポットブラガイのブナ川

城塞スタリー・グラッド

その下にはブナ川


    ☆ 歴史(いまだ国際的監視が続く二つの民族)

年  代

出来事

年  代

出来事

紀元前6世紀頃当初インドヨーロッパ語族イリリア人が住んでいた。 第二次世界大戦セルビア人はユダヤ人ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害された。
紀元前1世紀

ローマ帝国の支配下に入った.

 1946年ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。
6世紀後半スラヴ人が定住し始め、中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。 1984年サラエボオリンピックが開催された。
6世紀この地域は地理的環境から、カトリック正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。 1990年〜1994年ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して4月から3年半以上にわたり戦争となった。
15世紀

全域がオスマン帝国の支配下に入り、ムスリムの人口比率が高まった。

 1995年国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結した。
19世紀後半オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島オーストリア・ハンガリー帝国ロシア帝国の勢力争いの場となる。 1995年

ボシュニャク人ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。

第一次世界大戦後ユーゴスラビア王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。 2004年(治安)EUの部隊である欧州連合部隊 アルテアがボスニアの治安を維持する目的で展開。
第二次世界大戦ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。 2004年(政治)政治は国際的監視の下に置かれていて、3つの主要民族から1名ずつ選ばれた代表者によって構成される大統領評議会国家元首となる集団指導体制がとられている。大統領評議会の議長は8箇月ごとに輪番で交代し、議長は事実上のボスニア・ヘルツェゴビナの国家元首となる。

    ☆サラエボ

 現代のサラエヴォにつながる町ができたのは15世紀オスマン帝国の統治下でのことであった。

 サラエヴォは近代、何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。
 
1914年にはこの地はオーストリア帝位継承者の暗殺事件の現場となり、この事件によって第一次世界大戦が引き起こされた。

 1984年にはサラエヴォは1984年冬季オリンピックの会場となり、更に後のユーゴスラビア崩壊のときには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年〜1995年)において数年間にわたるセルビア人勢力による包囲を受けた。

 現在のサラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。

サラエボは標高550m、峠は800mを超えており一面雪サラエボでもひと際高い建物のホテルに今回宿泊

最上階はラウンジで街が見渡せる、☆は5つ

ホテルから見える大手ショッピング・センター

サラエボは周囲を山に囲まれた盆地

パトカー

1992年から3年半、セルビア人勢力に包囲され、1万人以上が犠牲となったセルビア。日本から贈られた桜が癒す

このバスで6カ国を巡る

アヴァズ・ツイスト・タワーは36階、142m

            ☆悲惨な過去

戦時中ホリデイ・インは世界のジャーナリストのたまり場ホリデイ・イン前の大通りは、スナイパー(狙撃兵)通りと言われた。
セルビア人狙撃兵が高層ビルから、ボスニア人を次々と狙い撃ち

1984年サラエボ冬季オリンピックの会場

戦争の犠牲者の墓地として補助グラウンドを使用

オリンピックタワー

日本が贈った桜

 桜・・・ 

 民族紛争に揺れ続けたボスニア・ヘルツェゴビナに平和のシンボル として桜の木を贈ろうと、
日本の非政府組織(NGO)が、サラエボを訪れ、内戦の死者が葬られている集団墓地などに苗木約500本を
植樹し、見事な花を咲かせている。

 世界のあちらこちらで見られる日本の桜、桜の花は平和のシンボル。愛される桜、桜の花を見ていると心がいやされますね〜。


          ☆第二次世界大戦はこの場所から・・・「サラエボの銃声」

 何故、事件は起きた?

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、1908年には植民地として、正式にオーストリア領に併合されていた。多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合を望んでいた。

 サラェボ近郊イリッツエに到着したオーストリア・ハンガリー帝国の大公夫妻はそこで自国の閲兵と演習視察を終え、翌日汽車でサラェボ入りした。6台のオープンカーが出迎えで待ち、大公夫妻とボスニア総督がその内一台に乗り込んだ。10時に市内のミリヤッカ川沿いを通過する予定であったが、その川沿いの道に六人の刺客が並んでいた。

 爆弾は大公の隣にいた大公妃の首に命中したが爆発せず道にころがり、次の車が通った時に爆発した。次のその車は大破し乗っていた人を含め10人以上が重軽傷を負った。

 大公は怒りにもえながら市庁舎に到着した。市長になんという町だ、と言いながらも気を取り直し歓迎の辞にこたえた。その後大公は午後の予定、博物館の改装の記念式典をとりやめ、怪我人の見舞いに行くことにした。しかしこの予定変更が彼に死をもたらすことになる。

 博物館は旧市街にあるが、病院は郊外にあるためまた川沿いの道に戻る必要があった。ところが運転手は変更を知らされていなかったため、川沿いの道にはいる交差点で停まりバックをはじめた。

 ところがここに犯人プリンチップが立ち寄った軽食屋(シラーの店)があった。驚いたことに大公が目の前に止まっているではないか。

 プリンチップは立ち上がり、ブローニング拳銃を手に持ち大公の車のタラップに乗りいきなり二発発射した。一発は大公に命中し、二発目は大公妃にあたり即死させた。大公の最後の言葉は「ゾフィー、子供たちのために生きてくれ」だったと伝えられる。

 犯人プリンツィプははじめ毒を仰いで、次にピストルで自殺を図ったが、生理的拒否により毒は吐き出し、ピストルは手からもぎ取られて失敗に終わった。

 犯人プリンチップは未成年であったため死刑にはならず、大戦中プラハ近郊テレジェンシュタットの監獄で獄死した。
 オーストリア政府は1918年4月28日プリンチップは肺結核により死亡したと発表した。プリンチップのいた房は窓のない暗闇の部屋で、拷問死または狂死という説がある。

 事件後、当局の尋問で武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた。

 1914年7月28日オーストリアは事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

事件の起きたラテン橋付近、橋の右側がその場所

右がラテン橋、左の博物館付近が事件場所。博物館のウィンドウには、事件の説明や写真、車、犯人の写真等が掲載

大公夫妻が乗っていたオープンカー

犯人ガヴリロ・プリンツィプ

 第一次世界大戦・・・

  第一次世界大戦の性格は、植民地と世界の覇権を競い合う帝国主義戦争にあった。

 イギリスフランスの植民地獲得は決定的となり、その後に新規参入したい勢力はドイツ・アメリカそして日本である。
この頃、力を付けてきたのがドイツ。イギリスは危機感を抱き、1902年の日英同盟を皮切りにフランス・ロシアと手を握った。ドイツは既にイタリア、オーストリアと同盟関係にはいっており、ここに大国による勢力均衡が成立した。

 このうち、ロシア帝国とオーストリア・ハンガリー帝国は、既に老年期に入った弱小帝国である。また、オーストリアとイタリアは領土紛争が絶えない。

 そして「サラエボの銃声」事件が起きる。
オーストリア・ハンガリー帝国はただちに報復のためセルビア併合を宣言、大量の軍隊をセルビアに進めて植民地にしようとした。
これに対して、スラブ民族の盟主を自他ともに任じるロシアが、セルビアの独立を支持してオーストリアに宣戦を布告した。

 三国同盟の中心・ドイツはオーストリアを支持、ロシアと、ロシアと同盟を結ぶフランスに戦争を仕掛けた。イタリアはイギリス側に。

 ドイツに味方して、イギリスとの戦争で後れをとっていたため失地を回復したいオスマン・トルコ

 それに対してイギリスは、トルコに支配されていたユダヤ人(バルフォア宣言、1917年)、アラブ人(フサイン=マクマホン協定、1915年)と密約を交わし、戦後にそれぞれの悲願である独立国建設を支持するとして、トルコへの反乱を促した。いわゆるフランスを含んだ三枚舌外交である。中東問題は未だにこれが原因で紛争が絶えない。

 中国大陸では、日英同盟を口実に大日本帝国がドイツ領地域を攻撃・占拠した。

 ここで戦争の形態に変化が起こる。当初、騎兵や歩兵が突撃、その後手榴弾や鉄砲、そしてロシアが機関銃を、機関銃の嵐から身を守るために、穴をほる。
そして大型化し大砲、最後は戦車、毒ガス、戦闘機、潜水艦と次々開発される。

 最後に参戦したアメリカで勝敗はついた。

そしてロシアはロシア革命で社会主義国へ、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国も崩壊。

 かくして、連合国(イギリス他)が中央同盟国(ドイツ・オーストリア他)に勝利して終えた。

   


     ☆今は平和なサラエボ

バルカン半島最大のセルビア正教会(キリスト教)

カトリック大聖堂キリスト教)

ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャーミヤ、イスラムのモスク

モスク

バシチャルシァ広場

平和の象徴ハト

イスラムのトルコ街民芸品

イスラムのトルコ街民芸品

イスラムのトルコ街民芸品

広場内のレストラン

広場内のレストラン

トルコの水タバコ

民芸品

サラエボにはイスラム、カトリック、東方正教会、ユダヤ教の4宗教が混在、広場には店が固まっている。

次はセルビアへ。ボスニアの郊外でランチ・タイム

赤ワインは最高の味

チェヴァチチという肉団子風

のどかなサラエボの郊外

林を馬車が行く


  ☆ ヴィシエグラード (世界遺産)

ボスニア出身のノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの傑作「ドリナの橋」の舞台

ドリアの橋は世界遺産に登録

橋の麓に建つ雰囲気のあるカフェ


     ☆セルビアとの国境へ

サラエボの郊外。綺麗な緑の農村地帯が続き、見飽きない。次は国境を越えてセルビアへ。


 旅を終えて・・・

 モスタルもサラエボも戦後20年を経ているが、いまだ戦争の傷跡はそこここに残っている。二度と起きないようにと、破壊されたビルは何箇所かは残されているが、無残だ。

 モスタルの世界遺産の石橋は破壊されたが、ユネスコが資金を出して再建したと言う。今は美しい姿を人々に見せている。

 サラエボのスナイパー通りという、大通りと話題になったホリデイ・インはそのままである。ビルの上から市民が動くと女・子供までが標的となり亡くなったと言う。だからこの辺は「狙撃兵通り」。ひどい名前だ。

 だが、一歩郊外に出ると緑の平原や、緑の農村地帯が続き、赤い屋根とベージュの壁が映える。メルヘンチックで、バスの長旅を感じさせない。まことに平和な国に感じた。

                                                     おわり


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