ガーナ紀行
奴隷海岸 |
旅の初めに・・・ 2012年11月、西アフリカのギニア湾に面するガーナの旅を計画した。 奴隷貿易で知られるギニア湾の国々を、是非訪ねてみたいと思い計画する。しかし、治安や途上国でもあり環境劣悪な事が多く躊躇したが、それも旅の醍醐味?と思い出発することにした。 |
|
ワンポイント情報 ・正式国名 ガーナ共和国 ・宗教 キリスト教 50%、イスラム教15% |
アフリカ全土のデータ
・面積 世界の22.2% ・後発開発途上国(LDC) 34カ国
・国数 56カ国 ・困窮度 1日1ドル未満で生活する人:全人口の41.1%(2004年)
・人口 9億2,500万人(世界の14.2%)(2006年) ・飢餓率 飢餓率が35%を超える国:18カ国
・識字率 15才以上63.3%(2004年) ・平均寿命 男性48.8才、女性50.2才(2005年)
・エイズ(HIV)感染率 15-49歳人口の5.9%が感染(2006年)
☆ 出発
今や世界で最もサービスが良く人気のある、アラブ首長国連邦のドバイを本拠地とするエミレーツ航空で、ドバイ経由、ガーナの首都アクラまで24時間の長旅 | いかにも中東らしい制服 | 過当競争で航空会社の食事は質素になったが、ここエミレーツ航空は例外。素晴らしい。飲み物もいくらでも機嫌よく出してくれるし、日本映画も17本もある。 |
二階席はフアースト、ビジネス専用 | ラウンジはファーストとビジネスの乗客専用 | シャワー・スパはファーストとビジネスの乗客専用。世界初、13,000メートル上空でシャワー |
世界初、13,000メートル上空でシャワー付きのエミレーツ航空。その内に、露天風呂まで不可能ではない? |
成田発、ドバイ行き22:00(下から3番目) | ドバイではイスラムの女性達の衣装が鮮やか | ドバイ発、ガーナのアクラ行き |
砂漠の国で、金持ちドバイは空港内も水と緑で夢のよう | ガーナの空港の飾りはアフリカらしい |
ようやくガーナに到着 | 飾り絵を見ると雰囲気が増す | ガーナはこんな感じなのか〜 |
☆ 到 着
ガーナの首都アクラの国際空港 | 外は31度の暑さ |
☆ 首都:アクラ市
アクラは、アフリカ西部ギニア湾に面したガーナの首都で、海岸から20 kmほど内陸まで都市が広がる。 主な産業は食品加工、木材加工、紡績、被服、化学などである。 |
アクラ遠望 | アクラのダウンタウン |
☆街並
街並は綺麗 | 車道に沿って物売りが | これも立派な商売? |
車道に出て命がけの物売り | 沿道に咲く花 | 国旗のミニチュア売り、ありとあらゆるものが |
☆ガーナ国立博物館
博物館中庭 | 博物館の壁の模様 | 博物館の壁の模様 |
古代から近代までのガーナの歴史をたどる資料が多数展示されている。 | |||
国立博物館内部 | 国立博物館 王のスツール(椅子) | 国立博物館内部 |
☆沿道
歩道はどこでも市場に早変わり | 歩道はどこでも市場に早変わり |
☆ ガーナとは
ガーナは、西アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。 脱植民地化時代のサハラ以南のアフリカにおいて、1957年に初めて現地人が中心となってヨーロッパの宗主国から独立を達成した国家である。イギリス領ゴールドコーストと呼ばれていたが、独立に際して国名をガーナに変更した。初代大統領エンクルマは、アフリカ統一運動を推進したことで有名。かつてゴールドコーストと呼ばれた海岸を保有しており、ダイヤモンドや金を産出する。カカオ豆の産地としても有名。2010年12月から沖合油田で原油生産が始まり、国際的に大きな注目を集めている。 15世紀にはポルトガル人が到来し、エルミナなどに城塞を築き、奴隷貿易の拠点とした。その後、金が産出することがわかると「黄金海岸」と呼ばれるようになった。 その後、ドイツ人やデンマーク人、イギリス人、オランダ人が来航し、金と奴隷の貿易を奴隷制が廃止される19世紀まで続けた。大西洋三角貿易により多くの人々がアメリカ大陸に連行され、1776年に独立したアメリカ合衆国においては、労働力として使われることとなった。 15歳以上の国民の識字率は57.9%。 |
黄金海岸はヨーロッパ人により命名されたアフリカ西岸ギニア湾の海岸部一帯の名称。象牙海岸、奴隷海岸と同様にこの地域における主要な貿易商品であった金に由来する。 写真は、黄金海岸と呼ばれ、金の積み出しが頻繁に行われていた場所だが、今では、ヤシの木が揺れる穏やかな場所となっている。 |
ガーナ・黄金海岸 |
☆アフリカ独立の父 エンクルマ記念公園
立派な公園の向こうにエンクルマの銅像 |
クワメ・エンクルマ(1909年9月21日 - 1972年4月27日)は、政治家。ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、アフリカの独立運動の父といわれる。マルクス主義者。 1966年、北京とハノイへ外遊中に、アメリカのCIAに支援された大佐と少佐による軍事クーデターが起こり、エンクルマは失脚し、政治的に近かったセク・トゥーレ率いるギニアへの亡命を余儀なくされた。 21世紀に入った現在、ガーナ国内におけるエンクルマの評価は2つに分かれている。ガーナ独立の英雄として、建国の父として若い世代中心に人気が高い一方、エンクルマ時代を経験した世代には経済の混乱や独裁政治によってあまりいいイメージをもっていないものも多いという。 |
墓碑 | エンクルマ像 | 軍事クーデターの時に落とされた銅像の首 |
☆野口英世記念展示室
ガーナ大学医学部付属病院内に、野口メモリアルガーデン&野口英世記念展示室がある。 野口英世はロックフェラー研究所に所属し、アクラで黄熱病の研究を行っていて、その黄熱病で1928年に亡くなった。51歳であった。 展示室には、写真,新聞記事,顕微鏡,母からの手紙等が展示してある。 |
大学の庭にある | 世界の各地で活動 |
当時の講義室 | 日本からのチンパンジーで実験 |
☆ランチ・タイム
アフリカは途上国が多いが、ビールは旨い | ホテルでチキン料理 | 街中選挙のビラが |
☆絵画三点
ホテルのロビーの絵画 | アフリカらしい | 特徴を良くとらえている |
☆アクラ(首都)→クマシ(地方都市)
街並 | 街並 |
沿道で売られるトウモロコシ、旨い | 羊、山羊、鶏、豚は放し飼い | 沿道のコンビニ! |
これも売り物 | 粟をもち米風に、主食の一つ | 果物だが・・・ |
☆国立文化センター
古き良き時代のガーナやアシャンティの文化に触れることができる。 (内部の写真撮影禁止) |
☆マンヒヤ王宮
マンヒヤ王国 | アシャンティの王族が現在も暮らすマンヒヤ王宮 |
☆ホテル
旅行中一番良かったホテル | アフリカの食事は更にもろもろ盛り付けが多い |
☆道中
どの街も沿道は商品を山積み | 青空市ばかり |
何を販売? | 無造作に積まれる商品、一輪車もある |
門扉販売店。ガーナは入口の門扉にこだわる。中は掘立小屋?門扉がステータスらしい | こういう感じ |
粟がたわわ | トウモロコシ畑 | ヤシやバナナの木も豊富 |
粟(あわ) 粟は雑穀類。五穀の一つに数えられる。東アジア原産で、高さは1 - 2メートル。エノコログサを原種とするといわれる。穂は黄色に熟し、たれさがる。温暖で乾燥した風土を好み、生育期間が3 - 5ヶ月と短いために、高地や高緯度地域でも栽培することができる。 日本では米より早く栽培が始まり、縄文時代の遺跡からも発掘されることがある。また、新嘗祭の供物としても米とともにアワが用いられ、養老律令にも義倉にアワを備蓄するように定められており、『清良記』などの農書にもアワについての解説が詳細に載せられているなど、古くから、ヒエとともに、庶民にとっての重要な食料作物だった。戦後は家畜、家禽、ペットの飼料としての用途の方が多い。 ガーナの畑にはこの粟がかなりの面積を占めていた。ガーナではこの粟とキャッサバが主食の一つなのであろう。 私見で偏見だが、世界中100カ国を旅しているが、どうも赤道以南の多くの国々は熱帯性気候で体がきついのか、作物を作るにも働くにも行動がスローで、何とか暮らしを楽にするために、努力をするという気迫があまり感じられないように見受けられる。あくまで私見である。特にアフリカが顕著である。 |
中学生 | 教会 | ガーナ版コンビニ |
☆ウバシの金鉱山
アクラより北へ200km、ウバシという町がある。 5500人の従業員のうち4000人が地下の坑道で8時間ごとの3勤交代制で作業にあたっている。一度に73人を運ぶことができる高速エレベーターで地下1500mまで降りることができる。発破して掘り出された土砂は地下トンネルでプロセス施設まで運ばれ、ここで1tあたり8gというわずかな量の金を分別する。 |
汗のしみついた上着を着れと言う | 酸素缶も重たいのに持てと言う | 3kgはありそう |
セキュリテイは厳重 | ヘッドランプも貸与 | アフリカ版ペットポトル水、ビニールの端を噛んで吸う |
地下1200mまでリフトに乗って | 金のかけらも見れなかった | つまんないから、早く帰ろう! |
☆ランチ・タイム
ウエイトレスのお姉ちゃん | 中華風五目御飯? 意外に美味しい。もちろんビールも |
☆クマシ
金鉱のあるウバシの町から50kmほど、クマシという都市がある。人口およそ150万人。首都のアクラに次ぐ大都市。 20世紀初めまで、ここクマシを中心とするガーナの森林地帯にはアシャンティという強大な王国が存在した。その王族が現在もくらす王宮がある。 |
クマシの街 |
☆クマシ軍事博物館(要塞跡)
イギリス軍が使用した要塞 | 規模が大きい | 戦車や大砲 |
博物館 | 当時の武器 |
隊員はアフリカ人が多い。マラリアの免疫があるため | ヨーロッパの各国は武器で制圧 | この地面の下には拷問で無くなった死体が無数とか |
☆クマシ中央市場(西アフリカ最大)
西アフリカ最大の市場は大混雑 | スリも多いらしい | 果物を売る女性 |
アフリカは頭に載せて運ぶ | これは靴屋、小屋などない |
トタン屋根の中は家賃が高いのだろう、後楽園ドームより広い |
歩くのにも大変 |
キャッサバ(芋)を持ちあげて、サア〜写真を撮れとポーズ、底抜けに明るい |
キャッサバ・・・ 多年生潅木で,高さ1.5 〜3 m に達し,茎は木質で太く,多数の枝を生じよく繁茂する.挿木で繁殖する.痩地,酸性土壌,乾燥に強く,栽培しやすいが,連作すると地力の減退がいちじるしい。 塊根を食用,飼料用(チップ等),でん粉原料用に使用する。途上国での栽培が多い。 |
☆ホテル
ホテル内の民芸品 | アフリカらしい仮面 | 夜にお目にかかると怖い |
ホテルのプール | レストラン | テーブルの花 |
☆アシャンティ王国の伝統的建築物(世界遺産)
かつてアシャンティ王国を築いて繁栄を誇ったアシャンティ人たちの伝統文化を伝える貴重な建造物群だが、そのほとんどが20世紀以降に再現されたものである。オリジナルは20世紀初頭までのイギリスとの戦争のなかで大半が失われている。 神殿群などが特徴的だが、その基本構造は中庭を取り囲むように建てられたもので、その建材には泥やヤシの葉が用いられていた。建材や建築法の工夫により、通風性にも優れた構造になっていた。また、アシャンティの建造物に特徴的なのは、人や動物を象った美しい木彫りの装飾があったことである。 アシャンティの伝統的建造物群」は、ガーナにあるユネスコの世界遺産登録物件のひとつ。ガーナ第二の都市クマシ近郊のアシャンティ州内に存在する。
世界遺産マーク | 伝統文化の家 |
壁の模様が美しい | 動物の骸骨、魔除けであろう | 水桶? |
世界遺産の前の道端で商売 | 通りかかりの中学生 | 鶏も親子で散歩 |
各家の屋根には長い木でアンテナ | バナナ、キャッサバ、トマト。屋根があるだけ立派な商店 |
☆ボンウィレ村
アシャンティ王国とケンテ織り アシャンティ王国は、1670年から1902年までの間ガーナ内陸部に興った王国で、ケンテはアシャンティ王国の王族のために織られていたとされ、特権階級にのみ着用が許されたとされる布である。 西アフリカ、特にガーナの伝統的な織物とされ、縦長に細く織った布を、横に繋いで一枚の布とするのが特徴的。 また、西アフリカではアジアとは違い男性が織物をするのも特徴。 女性が織物をしないのは、長時間座っていると子供が出来なくなると信じているという。 |
入口看板 | 男ばかり | 10数人が働く |
縦長に細く織った布を、横に繋いで | カラフル | 肩に掛けてくれたが・・・お金が無い〜 |
見惚れる・・・ | 芸術的 |
織物の手を休み販売に懸命、観光客の男は外に逃げる。女性は品定め、何処にでもある風景 |
☆アデンクラ村の織物
木の皮をお餅のように臼でついて、長時間煮詰め、抽出した汁からインクを作る。そのインクをスタンプにつけ布に刻印 |
スタンプの種類 | 木の皮を臼でつく |
スタンプで押して模様をつける | 布も染める | 芸術的 |
干している所 | 説明員 |
版画 | 版画 |
☆道中
街の出入り口には必ず現れる物売り | ガソリン・スタンドは屋根も無い |
☆ランチ・タイム
先ずはビール、そしてワインも | ガーナはこの大きな魚のから揚げが多い。オイシイ! |
女子高校生 | 専用車はオンボロ、始終パンク、故障 |
ツーリストの車は「オンボロ車」、そして怪しいガイドは? 中型の専用車は日本人ばかり13名、現地ガイドと運転手はマリ人、車もマリから。かなり古く車とガイドでのトラブルが絶えなかった。おまけに極暑(連日35度前後)のアフリカでエアコンが殆ど効かない、窓も開かない。 ・1回目(初日) マフラーから白煙が噴き出し走行不能。後で聞くと、安いガソリンを使用したので故障 ガイドはマリ人。現在マリはイスラム系の過激派で国内紛争中。商売にならないので出稼 |
☆奴隷海岸
アフリカ西部、ギニア湾沿岸のうち、ガーナとトーゴの国境付近からニジェール川に至る海岸の旧植民地時代の通称。15〜19世紀に奴隷貿易が最も盛んであったことに由来する名称。 今は奴隷海岸とは云え、信じられないほどの静けさである。聞こえるのは波の音とヤシの風に揺れるかすかな音のみである。 しかし、海岸のはるか彼方に、ぼんやりと建物らしきものが見える。そう、あの忌まわしきケープコースト要塞である。 |
昔の忌まわしい面影はない。静かな海岸である。 |
ホテルは奴隷海岸に面している | 黒人が1人、物思いにふけっている。気になるが・・・ |
はるか彼方にケープコースト要塞方面が見える | 黒人奴隷のケープコースト要塞がくっきりと |
☆奴隷海岸のホテル
本日のホテル名は「エルミナ・ビーチリゾート」と言うが・・・ | 仲間の若い元気な人が泳ぎだした |
☆アフリカの花
エルミナ・ビーチリゾートの正面 | 看板 | ロビーの絵 |
☆ エルミナ
エルミナとは、ガーナの都市で黄金海岸に位置する。。人口は約2万人。漁業が盛ん。 1482年、ポルトガルが設けたエルミナ城塞(エルミナ城)が街の起源となる。1637年、オランダ東インド会社に受け継がれ、奴隷貿易の拠点となった。1872年よりイギリスの統治下におかれた。1957年、ガーナ独立にともないガーナの都市となった。 |
活気に満ちたエルミナの漁村と魚市場。 手前右側が黄金海岸、手前左側にエルミナ要塞 |
頭にのせて運ぶ | 船から大量の魚 | 数えられないほどの漁船、小舟ばかり |
たまには大きな船 |
魚の仕分けは女性の仕事? | 船がひしめきあう |
大きな魚をさばくたくましい女 異様なにおいと熱気 |
エルミナ要塞が丘の上に | アフリカ式ペットポトルはビニール袋、端を噛んで飲む。冷たい |
☆セント・ジョージ要塞
ギニア湾に面したガーナ沿岸は、金の産地があることから「黄金海岸(ゴールドコースト)」と呼ばれていた。1470年頃にポルトガル人が進出して以来、18世紀までの300年間はヨーロッパ人の関心はまだ植民地化ではなく交易にあった。交易品は当時は金、香辛料、ヤシ油で、金の産出量が落ちてくると、それは奴隷に変っていった。交易はいつも平和的に行われるわけでなく時には危険を伴うものだったので、交易所はしがしば要塞化された。ギニア湾沿岸にはそうした要塞が60あまり築かれ、そのうち3分の1が現存している。なかでも世界遺産に登録されているケープコーストとエルミナの要塞が代表的なものだ。 エルミナにも要塞が残っている。このギニア湾で最も古いセント・ジョージ砦という名のこの要塞は、1482年にポルトガル人によって建設された。町の名前は鉱山または鉱山という意味のポルトガル語のエル・ミナからついたという。しかし1637年になるとこの要塞はオランダに奪われてしまう。 オランダ支配時代の18世紀には6万5千人もの奴隷がここから「輸出」され、カソリック教会が建てられていた中庭は、奴隷市場に変った。その後も支配者はフランス、イギリスと入れ替わった。現在の要塞はケープコーストと比べると訪れる人は少ないが、修復の度合いが低いせいか自然に残った感じがして、落ち着いたたたずまいを見せている。この要塞の向かいの丘上にも砦の跡がある。 |
セント・ジョージ要塞 | セント・ジョージ要塞の地下牢 |
繰り上げ梯子を通る | 今は世界遺産 | セント・ジョージ城エルミナの看板 |
内部 | 内部の博物館には奴隷をつなぐ足輪や鎖が | 当時のアフリカ人民家 |
要塞屋上から奴隷海岸を見る | 右が奴隷海岸、左はエルミナの漁村 |
右側がエルミナ漁村 | 大混雑のエルミナ漁村 |
奴隷を船で運ぶまで、ここに押し込めていた | この通路を使い船に運ばれる |
今は牢に花束が | ここから船に。狭いが当時の奴隷は満足に食べ物が与えれないのでやせていた。 |
☆セント・ジョージ要塞のなかの博物館の絵
☆セント・ジョージ要塞でたむろするカラス
黒人は全て黒いが、何故かカラスは一部白い・・・ | 首筋と腹部が白い |
☆ アフリカはかってヨーロッパの植民地
1912年のアフリカはヨーロッパ各国の植民地 |
何故、奴隷狩りが始まった? スペインの大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開された。 アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。 ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガル人が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まる。 大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。 中南米やカリブ海の国々の熱帯地域において、サトウキビ・プランテーションで伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。 そこで、熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれているが、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。アメリカ合衆国では南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。 奴隷はアフリカだけで行われた事ではない。日本の戦国時代でも行われていた。勝った武将は負けた所から女子供を略奪するのは普通であった。 人間は罪深い動物なのである。 |
☆ ケープ・ゴースト要塞
ケープ・コースト城は、ガーナにある要塞。最初にこの場所へ建設された木造の建造物は、スウェーデン・アフリカ会社のために1653年に建てられ、スウェーデン王カール10世にちなんでカロルスボル と名付けられた。後に建物は石を用いて復元された。 1663年4月、スウェーデン領ゴールド・コースト全体はデンマーク人により奪い取られ、デンマーク領ゴールド・コーストに統合された。1664年、城はイングラン人により征服され、18世紀後半に貿易商人委員会 によって大規模な債権が行われた。この委員会の委員長は、当時イギリスの植民地全体の管理を行っていた。1844年、城はイギリス領ゴールド・コーストの植民政府の中心地となったのである。 ケープ・コースト城に訪問したアメリカのバラク・オバマ大統領の妻ミシェル・オバマは黒人奴隷の子孫であるために、現地民から「ケープ・コーストの女王」と呼ばれた。 |
黒人奴隷の積み出し港:ケープコースト要塞 | 奴隷のイメージ |
要塞内部 | 奴隷部屋、窪みは汚物を流すトイレ | 今は多くの花束が |
アメリカオバマ大統領訪問のプレート | 「永遠の記憶」 誓いの言葉 |
オバマ大統領、ガーナの奴隷貿易拠点を訪問 「 BB Newsより 」 2009年【7月12日 AFP】ガーナを訪問したバラク・オバマ米大統領は11日、ミシェル夫人と2人の娘を伴って、かつて多数の奴隷が南北アメリカ大陸などに送り出されたケープ・コースト城を訪問した。 |
中学生の社会見学 |
高校生の社会見学 教師はどのようにこの現実を教えるのだろうか |
内部の中庭 | 大砲は当時のヨーロッパ支配国が、他国の攻撃防御の為 |
支配国が、現地住民や他国の攻撃防御の為に建てた住居 |
支配国の長の事務所、右奥に個人の広い部屋がある | この要塞は当初教会であった。屋上からは3つの教会が見える。 当時、教会は国の指示で奴隷制度を黙認していたのであろう |
☆要塞内部の博物館
黒人に命令する白人 | 奴隷船の様子 |
鎖で連行される奴隷 |
奴隷の体に焼きごてを押して分類した。動物並みの扱いである | 鉄の足輪や手錠 |
社会見学の学生達 |
☆ランチ・タイム
ケープコースト要塞近くのレストラン | 魚、バナナの揚げ物、ひよこ豆 |
☆ガーナの葬式用棺
ガーナではユニークな棺桶を作ったり、葬儀にはたくさんの人が参列する | 棺桶製作所 棺桶の上にはミシン |
コーラの缶を棺の上に。死んだ人は飲み物を売っていたのであろう | 土台作成 |
☆国境の街
サンクスホテルはベッドにノミや南京虫が多い | こちらガーナから来て | 国境のこちら、トーゴへ行きたいが、夜は閉鎖された |
☆ ガーナ略史
|
旅を終えて・・・ とにかく暑かった。連日35度。しかも湿度が高い。なのにオンボロ専用車は故障ばかり、冷房もあまり効かないし、ぼろ車だから窓も開かない。しかも現地ガイドはノロのろ、ぱっとしない。最初は皆で文句を言っていたが諦める。ここはアフリカだ。常識外の所へ来たのだから、文句を言わずに楽しむしかない、と皆の心が変わっていった。 アフリカほど車窓からの眺めが楽しい所は無い。見るものが新鮮、エッ!と驚かされることも多い。 奴隷海岸、奴隷収容の要塞では言葉が出ない。人間の業について大いに考えさせられる。 それにしても、アフリカ人の殆どは明るい。それも底抜けに明るい。一方、無表情な人も多いのも現実である。そういう人を見るとアフリカの苦悶を感ずる。生活が大変なのであろう。 アフリカの衣食住について考えてみた。衣は暑いから殆ど不要、食はバナナやヤシの実が豊富、住も暑いので茅葺、泥の簡単な住まい。生きて行くための最低条件はある。だから無気力な人が多いように感じるが・・・ 一番問題なのは国の政治機構である。ガーナはそれほどではないが、周辺国は汚職・賄賂が当たり前なのである。一向に国民の生活基盤は整わないようだ。 そんなアフリカショックを求めての旅は内容満載であった。 終わり |