コンゴ共和国紀行

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コンゴ川はコンゴ共和国とコンゴ民主共和国の国境

 旅の初めに・・・

2012年1月、今後の旅を計画。 

 今回の旅は中央アフリカのカメルーン、赤道ギニア、サントメ・プリンシペ、ガボン、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国の6カ国であるが、各種の情報で今回旅行の核心部分は両コンゴと言う事であった。

 何故かと言うと、この地域を案内する旅行会社は1社しか見当たらなかった。それだけ治安も悪く、ノウハウも経験も無いという事であろう。だから、この1社も首都を1か所しか案内しない。他は危険なのであろう。

 危険は承知していたが、一番危険な次のコンゴ民主共和国に特に関心があった。ベルギー王によって資源発掘の成績の上がらない黒人の両手両足を切断したという国際的な事件の顛末はその後、後遺症としてどのように尾を引いているのかを・・・
 その国がこの川を挟んで向こう側の国である。両岸は出国、入国で緊張が走っていた。カメラなどとんでもないと言われた。だが・・・

コンゴと右となりのザイール(現在コンゴ民主共和国)はコンゴ川が国境

川を挟んで両国の首都はすぐ対岸に見える。

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           ☆ ワンポイント情報

 ・国名        コンゴ共和国               ・言語     フランス語、現地語
 ・面積        日本の約0.9倍              ・宗教     伝統的宗教、キリスト教
 ・人口        380万人                  ・元首     サス・ンゲソ大統領
 ・首都        プラザビル(人口60万人)        ・経済     国家予算の70%を石油関係に依存
 ・民族        コンゴ族、テケ族、ブバンギ族等

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          ☆ 略 史

年月略史
13〜15世紀コンゴ王国の最盛期
1910年仏領赤道アフリカ・コンゴ州
1958年共和国宣言
1960年独立
1979年サス・ンゲソ大統領就任
1989年7月サス・ンゲソ大統領三選
1991年6月コンゴ共和国に国名変更
1992年8月パスカル・リスバ大統領選出
1997年6月リスバ大統領、サス・ンゲソ前大統領の間で交戦勃発
1997年10月サス・ンゲソ大統領就任
2002年1月新憲法草案に関する国民投票
2002年3月大統領選挙でサス・ンゲソ大統領当選
2002年5、6月国民議会選挙、上院議員選挙
2002年8月サス・ンゲソ大統領就任
2009年7月

大統領選挙でサス・ンゲソ大統領再選


二つのコンゴとアンゴラ北部は15世紀頃まではコンゴ王国の一体的な領域だったが、16世紀にポルトガルによる征服を経た後に、19世紀のベルリン会議ベルギー領(現在のコンゴ民主共和国)フランス領(現在のコンゴ共和国)とポルトガル領に分けられた。


コンゴ王国は、14世紀末から1914年までの間、中部アフリカ大西洋岸にあった王国である。その後ポルトガルの商人による奴隷貿易が始まり、王国を蝕んでいった。

 王は、奴隷貿易の進行がコンゴを荒廃させていたことを鑑み、ポルトガル王に奴隷貿易の停止を求める書簡を送ったが、ポルトガル王は国益のためにこの書簡を無視し、その後コンゴ王国はアフリカにおける
奴隷貿易の中心地となった。

コンゴ王国は、19世紀末、ベルギーポルトガル植民地として分割統治をすることとめられ、王国は消滅した。これは1885年ベルリン会議の決定によるものである。

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           ☆ アフリカはヨーロッパの草刈り場、殆どが植民地

1912年の植民地

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            ☆コンゴ共和国の特徴

 二つのコンゴとアンゴラ北部は15世紀頃まではコンゴ王国の一体的な領域だったが、16世紀にポルトガルによる征服を経た後に、19世紀のベルリン会議ベルギー領(現在のコンゴ民主共和国)とフランス領(現在のコンゴ共和国)とポルトガル領に分けられた。

 1960年 コンゴ共和国として正式独立。

 国土の約半分は熱帯雨林の生い茂るコンゴ盆地であり、南西部にクイルー川流域平野、中南部およびガボンとの国境地帯は山地と高原サバンナになっている。気候は全般的に高温多湿で、首都ブラザヴィルの年平均気温は25℃、年降水量は1,367mmである。

 GDPの5割以上、輸出額のほとんどを石油木材に頼っている状況である。

 自給自足的で、国民の基礎食糧となるキャッサバの生産が盛んに行われている。商品作物はサトウキビナンキンマメタバコアブラヤシコーヒーカカオなどがある。

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           ☆首都プラザビル


ブラザビルの街並

 人口は約60万人。コンゴ川下流に面する。コンゴ川をはさんだ対岸は、コンゴ民主共和国の首都キンシャサ

 フランス人の探検家ピエール・ブラザは、1880年に当時ンタモ と呼ばれていた街・ブラザヴィルを発見した。現在の街の名前はこの探検家にちなむ。1910年フランス領赤道アフリカが成立すると、ブラザヴィルにはその植民地政府が置かれた。

 1960年代までは、街は欧州人居住区(中心部)とアフリカ人居住区 に分けられていた。

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     ☆ ガボン→コンゴ共和国(首都ブラザヴィル)へ

期待と不安をのせて一路大空へ

アフリカの夕焼けは今日は不気味、心を映す?

隣席のボーヤが遊んでくれた

新聞を開いたが読めないので、隣のボーヤに聞いた。

しかし、ボーヤに無視された。

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       首都ブラザヴィル

おなじみカメルーン航空で

空港は厳重な警戒、緊張が走る

ポスター:サッカーのゴリラ選手権か?

安全な5つ星ホテルへ

人口60万人の首都

一番高いビル

コンゴ美人1

コンゴ美人2

コンゴ美人3

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      ☆プラザヴィルの港

インフラも確立されていない

港の入口、撮影禁止でした

対岸がコンゴ民主共和国、舟で10分

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ガイドのベルナルドさん、日本で16年居住

首都の名前にもなった探検家プラザの像

最初にプラザヴィルの土を踏んだフランス人プラザ

プラザの博物館

日本の門松に似ている

プラザの墓

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     ☆天理教の支部

天理教

天理教の紋とか?

いかにも日本の神社らしき建物

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     ☆ ドゴール広場

宗主国フランスの元大統領にちなんだドゴール広場

ドゴール

第二次大戦の当時の写真

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 旅を終えて・・・

 危険なのか、首都を車で一周(人口60万人)したが観光する所はあまり見当たらない。
コンゴ川周辺には危険なので、ガイドも近寄らない。途中半日を舟で、一番危険な対岸のコンゴ民主共和国に行ってきたが、命からがら(少し大げさだが)帰って来た。対岸の国民の顔とこちらの国民の顔が同じ黒人ながら顔つきが違う。向こうは血走っているが、こちらは柔和で穏やかだ。それをガイドに話すと「そうなんです!」と誇らしげ。

 特にコンゴ川を挟んで舟で行き来するのだが、先方のガイドも添乗員も緊張の連続と苦労の連続であった。

平和と言うものは良いものだ、を実感した。                              終わり

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