コンゴ民主共和国
たくましい途上国 |
旅の計画・・・ 2012年1月、アフリカ中央部のギニア湾に面したカメルーン、赤道ギニア、サントメ・プリンシペ、ガボン、コンゴ共和国そしてコンゴ民主共和国の6カ国を旅することになった。 ツアー会社は1社しか見当たらなかった。治安も不安、ノウハウもそれほどなく、参加者も特定されており、なかなか難しい国々の様であった。しかも旅行の最後になるコンゴ民主共和国は名前に民主とつくが、決して民主的でないような国である。だからこの国だけは宿泊をせず、半日観光、それも殆どが車窓観光である。何故だろう? と、いぶかりながらも危険が伴うと余計に好奇心が高まる。 期待と不安と恐怖心をひっくるめて機上の人となる。 |
首都はキンシャサ(人口842万人) | コンゴ民主共和国 |
☆ ワンポイント情報
・国名 コンゴ民主共和国 ・言語 フランス語、現地語 |
☆1912年当時の植民地図
1912年の植民地 |
☆ 略史
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☆ コンゴ王国
コンゴ王国は、14世紀末から1914年までの間、中部アフリカ大西洋岸にあった王国である。 ヨーロッパ人がアフリカに来航する以前、コンゴ王国は、稠密な貿易網の上になりたつきわめて高度に整備された国家であった。 1482年にポルトガル人が到来し、コンゴ王国にもポルトガル人が来航した。1485年にはコンゴ王国とポルトガル王国の国交が結ばれ、両国の対等な関係とキリスト教の布教が承認された。 ポルトガル商人による奴隷貿易が始まり、王国を蝕んでいった。アフォンソ1世は奴隷貿易の進行がコンゴを荒廃させていたことを鑑み、ポルトガル王ジョアン3世に奴隷貿易の停止を求める書簡を送ったが、ジョアン3世はポルトガルの国益のためにこの書簡を無視した。 1545年にアフォンソ1世が没すると、コンゴでは反乱が相次ぎ、奴隷貿易とキリスト教の布教、そしてポルトガルの侵攻によってコンゴ王国は徐々に力を失っていった。以後コンゴ王国はポルトガルの属国となった。 コンゴ王国はその後も名目のみ存続したが、19世紀末、ベルギーとポルトガルの植民地として分割統治をすることと決められ、王国は消滅した。 |
☆ コンゴ自由国
コンゴ自由国は、かつてアフリカのザイール川流域に存在した国である。国と称しているが、実態はベルギー国王レオポルド2世の私領地であった。植民地時代を経て、のちにコンゴ共和国(後のコンゴ民主共和国)として独立を果たす。 ベルギー国王レオポルド2世はスタンリーにザイール川流域を探検させる。国王の支援のもとでの探検だったので、その成果は国王に帰属し、国王は1882年に「コンゴ国際協会」に委託支配させ、1885年のベルリン会議ではこの地域は公式に国王の私領地になった。それがコンゴ自由国である。 国王の私領となったコンゴ自由国では耕作地も全てが国王の所有となり、住民は象牙やゴムの採集を強制された。規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦なく科され、前代未聞の圧制と搾取が行われていた。コンゴ自由国の自由国とは、「住民が自由な国」という意味ではなく、自由貿易の国という意味を当てこすった英語の俗称であり、公用語である仏語における正式国号はコンゴ独立国であった。 このコンゴ自由国の圧政に、各国は人道主義の立場から非難の声をあげた。特にイギリスは領事に実態の調査を行わせている。またジャーナリストのエドモンド・モレルが『赤いゴム』という著作で、手足を切り落とす過酷な刑罰の下でのゴム採集の実情を白日のもとにさらけ出した。 ここに来て国際社会の非難の声は益々高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙っていられなくなった。1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。 |
☆ コンゴ動乱
コンゴ動乱(1960年 - 1965年)は、1960年にベルギー領コンゴがコンゴ民主共和国としてベルギーから独立した後、ベルギーがカタンガ州の分離独立を工作し、その結果発生した内乱である。民族問題に加え、豊富な地下資源の利権、東西対立も絡み複雑な展開の中、カタンガの白人傭兵部隊(主にベルギー兵)と、国連軍が戦闘を行った。 ソ連の計画では、コンゴで抵抗している人達や部族やコンゴで活動をしている共産主義者に多額の軍事援助をし、革命を支援し独立後は共産主義国化する予定であったという。また、キューバからも政府側にチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が、軍事支援のため派遣されていた。 1963年のコンゴ国連軍の制圧によりカタンガの分離・独立の終了宣言で一応の終了をみるが、1965年、アメリカ合衆国の援助下にモブツの独裁政権が樹立するまで不安定な状態が続いた。
☆コンゴ民主共和国の現在
☆アフリカ大陸の奴隷
16世紀から19世紀にかけて、アフリカ諸地域から輸出された黒人奴隷(奴隷貿易)は、主に南北アメリカ大陸で、プランテーション農業などの経済活動に、無償で従事させられた。 奴隷貿易に参加した国はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの5ヶ国である。 約3世紀の間に運び出された奴隷は1350万人にも及び、アフリカ社会の荒廃をもたらした。 |
☆コンゴの女性の状態
コンゴ東部では、数おおく報告された激しいレイプやその他の性的暴力が世界最悪を物語っている。 コンゴ動乱等の戦争の中で彼女たちはレイプされ続け、兵士たちの奴隷状態に置かれている。女性たちが解放されるのは、多くは自殺したか死んでいるのが病院で確認された時である。 女性に対する暴力は社会の大部分には「当たり前」と認識されているようである。 2007年7月にコンゴ東部の暴力に関する国連の特別報告では、南北キヴ州の女性に対する暴力は「想像もつかないほど残酷」で「武装集団が地域共同体を襲撃し、略奪し、レイプし、女性と子供を誘拐し、彼等を性奴隷にしている」と言う報道がある。 |
☆ 首都キンシャサ
当地はコンゴの東部を流れるコンゴ川(旧称ザイール川)下流に位置する河港都市。近郊を含む都市的地域の人口は842万人であり、アフリカでは第3位である[ キンシャサは、マレボ湖(スタンリープール)と呼ばれるコンゴ川の広がった部分に面している。そのため、コンゴ盆地各地からの物資を集散し、鉄道で海まで運ぶ結節点として建設され、繁栄してきた。 コンゴ川をはさんだ対岸は、コンゴ共和国の首都ブラザヴィル。首都が隣り合っているのは世界でここだけである。この二つの都市で大都市圏を形成している。お互いの都市は活発な経済活動がある。 |
☆ 穏やかなコンゴ共和国(ブラザヴィル)→ 緊張のコンゴ民主共和国(キンシャサ)へ
対岸にはキンシャサが見える。4kmを舟で10分 | 写真厳禁と言われたが、隠し撮りの名手揃い | 首都キンシャサの港が見えてきた |
港に上陸、入国管理事務所で2時間も待たされる。 | 港の前の広場は愚連隊の集まりの雰囲気。緊張と恐怖心が高まる。 | 殆どが仕事にあぶれ、ブラブラ、通行客を目で追う。 |
☆ 緊張と恐怖心----------------------------
首都キンシャサに行く以前から、コンゴ民主共和国のただならぬ緊張感を、旅行メンバーの全員が感じていた。 添乗員とこちらの国のガイドが、超真面目にキンシャサに行ってからの注意事項を並べ立てた。既にこちらの港からピリピリしている。我々はそうなのかな〜程度しか認識していない。 後でこの国のガイドに聞くと、「この国は民族が20位あり、何をするにも意見対立、議論もかみ合わず、時間だけが過ぎるのです。観光客の事など全然考えてくれません。本当に申し訳ありません。お許し下さい。」と詫びを言う。ガイドはヨーロッパでの留学もし、エリートなのだ。行く末を案じての詫びで、丁重に頭を下げる。 旅の仲間が後でささやいていた。どこの後進国にもあることだよ。こういう時は相手はチップを要求しているんだよ。エリートのガイドと若い添乗員も理解しているが、そのような事で秩序を壊したくないだけだよ。我々はその犠牲者でもあるがね。 考えると、コンゴの辛い歴史が今日を生んでいるのかもしれない。「コンゴ王国」のポルトガルからのだまし討ち、奴隷として多くの黒人がアメリカへ、ベルギー王による虐待、ベルギー国の植民地時代、「コンゴ動乱」の東西冷戦の巻き添え、独立後の独裁大統領の圧政。 やや二時間後に開放されて、港のフェンスから港の広場に歩き出した。 |
☆ 首都キンシャサ
やっとバスに乗る。厳しい目線から逃れられた | この国は中国が道路、建物を作る。第二中国か? | メイン通り |
中国が造ると道路も広い、天安門かな? | 古いがビルもある | 842万人の首都 |
事件----------------- 街の四つ角で仲間の女性が写真を撮っていた。人を映さなければいいですよ、とガイドが言っていたが、トロトロ写真を構えていた所へ、いかつい若い男がつかつかとその女性の前に現れ、何やらすごい剣幕で迫っている。言葉も分からず女性はオロオロ。 「お前、誰の許しを受けて俺の写真を撮るのだ。撮ったのだから金を払え」するとガイドは「お前のような恥知らずがいるから国が発展しないのだ。失せろッ」 「売るせぃ」 「うせないと警察をよぶぞっ」と、まあこんなやり取りでしょう。 帰国の飛行機で、国連の事務員をしているキンシャサ住まいの、日本の若い男性が隣り合わせたので聞いてみた。 |
国民は厳しい生活、貧困削減戦略が国の目下の方針 |
カラフルで生活感はある |
アフリカの多くは埃も汚れも気にしない |
パン一切れで過ごす多くの国民 |
首都だがそれを感じない | 中国の企業が目白押し |
場違いのような国会議事堂、これも中国のプレゼント | サッカー場、これもメイドイン・チャイナ | 中国の看板が至る所。ここは中国か? |
☆ カルチャ・センター
昔の生活に触れられる |
絵画 | 木工品 |
油絵 | 油絵 | パリの様 |
サッカーに興じる少年たち |
☆コンゴの通貨
絵がアフリカらしい | 奴隷?違うね。 | 田舎の風景か |
☆ 交差点の手信号
信号機をつけたが、何故か何度も壊された。お巡りさんが手で。 お巡りさんが立つのはブータンみたい。 |
☆ ランチ
市場をのぞきたかったが、危険?ホテルでゆっくり | 美味しい魚 | 今度はコンゴのタカリ?のネコが。 |
花はどこでも綺麗 | 危険な国と綺麗な花 |
ホテルのスタッフ、笑わないとコワイ | 街角の卵売り | これは珍しい、柔和なお巡りさん、写真OK! |
喧嘩!---------------- キンシャサの港の広場で喧嘩が絶えない。ゴミだらけの広場である。掃除する人はいないのだろう。 男同士があちこちで喧嘩をしている。最初は大声で怒鳴り合う、次に二人とも両手を目の高さに挙げて、相手の目に向けて人差し指で交互に突き合うのだ。離れているから目には入らないが一歩前に出ると危険だ。 |
☆クワバラ、クワバラ・・・早く帰りたいッ
メンバー全員が港に着いた時から、もういいから--- | 帰ろう! と言ったが、怖いもの見たさに、3時間も滞在した。ガイドもホテルとカルチャーセンターだけしか案内しなかった。帰りはスムーズに。 | キンシャサを離れ、対岸の平和なブラザヴィルの大きなビルを見てホッとする。 |
旅を終えて・・・ 聞きしに勝る危険を感じた国であった。今回の6カ国でも何度かあったが、意味のない待ち時間と言うのは疲れる。それも説明は一切ないから余計疲れる。 しかも、手出しこそしないが目で訴えてくるような要求、脅し、威嚇というのは手に負えない。まして、一般市民だけならまだしも、公共の職員(飛行場・港・・・)が口に出しはしないが、賄賂を要求するのがまかり通っているようだ。20数年前もアジアの多くの国でも税関職員が行っていたのだから無理もない。 それにしても「国盗り」の女性連はたくましい。1人で他の国へ分かれて行った女性もいたが、危険を感じないのだろうか? その中から、春にはキルギスの旅を計画した。「誘拐婚」が今もまかり通っている国だ。結納金が無いから誘拐してくると言う。逆に誘拐もされずに年を重ねる女性は焦ると言う。まことに変な国だ。 終わり |