ラオス紀行

           

朝の托鉢で僧侶が街中に見られる

 旅の初めに・・・

 2013年4月ラオス旅行を計画。
 東南アジアで訪問していない国はラオス、バングラデシュ、北朝鮮(全く行く気はないが)、ブルネイとなっている。

 ラオスと聞いて思い出されるのは托鉢、メコン川、そしてパテート・ラーオ位であろうか。非常にか細い知識である。

 この数年東南アジア歴訪で印象に深いのは仏教、特に托鉢文化である。上座部仏教(小乗仏教)が殆どのタイ、ミャンマー、スリランカと比較して相違点はあるのだろうかと関心が募る。

 ベトナムと同様、社会主義国のラオスの現状と、隣国の一つ中国の影響は?興味は広がる。高高年ジジィの好奇心は増すばかりである。 呆けるにはまだまだか・・・

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ラオスは5カ国に囲まれた内陸国

首都はビエンチャン

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 ワンポイント情報

 ・国名     ラオス人民民主共和国         ・民族    ラーオ族60%、その他
 ・面積     本州とほぼ同じ             ・宗教    仏教徒
 ・人口     626万人                 ・言語    ラオス語 
 ・首都     ビエンチャン(人口60万人)      ・産業    農業78%
 ・識字率    73.3%                    ・平均寿命  64.8才

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     ☆ 出発→首都 ビエンチャン

成田〜ホーチーミン〜プノンペン〜ビエンチャン、フライト時間9時間。ベトナム航空利用

アオザイ姿のスッチー

ラオスのビエンチャン空港では民族衣装が飾られている

ビエンチャン空港ではラオスの飛行機ラオエアに

ラオスの国花はプルメリア、シンボルマーク

ビエンチャン空港

 
☆ラオスとは

 かつて、ランサン王国(ランサンとは百万頭の象という意味)として統一されたこの国は、その後、フランスのインドシナ連邦に編入された。フランスによる統治やインドシナの戦火(ベトナム戦争)に巻き込まれるという歴史を経て、1975年「ラオス人民民主共和国」は誕生した。国貧しく今もなお、海外からの経済援助に頼っている。

 原生林の中を大きく蛇行しながらメコン川は森の国ラオスを1,900kmに渡って流れる。全長4,350km、チベット高原に源を発し、次第に水かさを増したメコン川は、タイ・ラオス南部では川幅が14kmにも達する。さらにカンボジアを抜けて、ベトナムから南シナ海に注がれていく。

 インドシナ半島にひっそりと存在するラオスは、中国、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムの5カ国と国境を接し、日本の本州ほどの広さを持つ内陸国である。熱帯性モンスーン気候に属し、雨季(5月〜9月)乾季(10月〜4月)の2つのシーズンに分かれる。

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    ☆首都 ビエンチャン → パークセー

 パークセーは、南部ラオスの都市で、ラオスと南ラオスの主な輸送ハブで最も大きい町のうちの1つ。

 パークセーは1905年に行政の出先機関としてフランス人によって建設され、以前チャムパーのラオ王国の首都とチャムパー宮殿のチャムパーの王の居住地であった。ラオスの王国が作られたとき、1946年に廃止された。

 メコン川の橋(日本の援助で建設)の建設以来、タイのウボンラチャターから陸路で交通がさかんになり、パークセーは南ラオスの商業的な中心となる。
 パークセー空港は2009年11月2日に建設を完了し、ビエンチャン、シェムリアップとバンコクにフライトを再開した。

世界遺産ワット・プーの玄関口「パクセ」空港到着

南国の花「火焔樹」が国中満開

メコン川を渡る

      ☆メコン川

 メコン川は、東南アジアを流れる河川。チベット高原に源流を発し、中国雲南省を通り、ミャンマーラオス国境、タイ・ラオス国境、カンボジアベトナムを通り南シナ海に抜ける。典型的な国際河川の一つで、数多くの支流がある。

 延長4023km、日本列島(約3300km)より長い。

 雨期には流量が増し、流れが速いため、船の運航は非常に難しい。

  生息が特定あるい推定されている魚の種は1200以上に上る。漁業はそれぞれの領域の経済活動の非常に重要な要素であり、約120種の魚が商業的に取り引きされていると推定されている。一方で、食料としては重要なタンパク源となっている。

 農業生産、特にコメの生産に欠かせない非常に肥沃なデルタを形成するとともに、流れが大きく減速し、密集した水路のネットワークを作る。

 第一次インドシナ戦争によってフランスの支配は終わったが、以降、この領域にアメリカが深く関わることになる。ベトナム戦争後、米国が支持するタイ政府と、その他の国における新しい共産主義政権の間に緊張が続き、メコンの利用については協力関係を築けない状態が続いた。しかし、1957年には、流域諸国が集まって協議するメコン川委員会が創設された。

メコン川に沿って街は伸びる

メコン川の氾濫の為、床は高床式

メコン川の肥沃な土地により農業は産業の78%

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     ☆ワット・プー 宮殿あるいは城)→ ヒンズー教寺院

 ラオスにあるクメール遺跡の一つ。2001年、ユネスコの世界遺産登録。ヒンズー教寺院。

 11世紀頃、クメール人カンボジアを中心とする東南アジア民族。カンボジアの総人口の約90パーセントを占める)によりプラーサート宮殿あるいは城)として建設されたが、ラーンサーン王国時代にラーオ族(タイ族の一派)の勢力がここを占拠するに至って、この城が神聖視されたことで、新たにワット)として位置づけられた。ちなみにプーとは山の意味である。

ワット・プー案内板

入場チケット

タイのお坊さんも観光


     ☆ワット・プー博物館

 
この博物館は、2001年から2003年にかけて、日本政府からラオス政府への協力の一環として建設された。
 この建物の適度な大きさに制限され、考古学的な損害を与えないように、また、神殿の高台からメコンへの景観を損なわないように考慮されている。

ピンクの街路樹

先ずは博物館

博物館

日本政府が建設しプレゼント

内部は撮影不可


     ☆ワット・プー遺跡

ワット・プー遺跡の看板

聖なる山「リンガパルバータ」(男性器の形の山)の麓

現地ガイドのリーさんの説明

 あるラオス人ガイドの悩み・・・

  石油・天然ガス資源を持たず、また山に囲まれた陸の孤島であるラオスはタイ・ベトナム の港からの輸入に頼っている。

 ガイド氏は真面目に悩みを吐露する。ラオスには石油も無い、海も無い、そしてお金もありません。と寂しそうに言う。

 つい最近まではラオスの産業は鉱山(銅など)と材木でした。しかし頼り過ぎて資源が無くなってきました。
 そこへ中国資本が入り込み、水力発電所を作ってくれました。今はこの電力を近隣国へ輸出する数少ない産業です。そして二番目が観光です。他には見当たりません。ラオス織も人気ですが手作業で零細なので伸びません。販売ルートがあれば良いのですが・・・

 中国はラオスに積極的に入り込み、粗悪な中国製品と中国人を大量に送りこみ中国人街を作り、そして広大な土地の長い借款契約をし、中国人優先の商業地区を作りました。
 これらは社会主義国特有の、ラオス指導者層達の腐敗による汚職・賄賂に繋がります。中国は世界各国でこの方式で政府に巧妙に入り込んでいるのです。

 中国はラオス人を圧迫しだしました。都会には中国の学校(大学含む)を多数作り、中国語で授業、ラオス人も迎え入れているが、若い青年たちは洗脳されつつあります。中国に都合よく教育しているのです。

 一番心配なのはラオスの国土です。海がなく山ばかりの国ラオスは、国力が無く開発できていないのが資源です。早くも、中国は資源発掘の為の調査をラオスの指導者や富裕層と組んで行動しているようなのです。

山麓部への参道

中腹部に寺

北宮殿

南宮殿

右側の雲に隠れているのが遺跡の頂上で、男性器の形、または女性のシンボル「おっぱい」の形

10世紀頃の遺跡と言われる

宮殿跡

仏像

歴史を物語る石畳

ヒンズー教寺院

中腹からの眺め、はるか前方にメコン川

寺院

ヒンズー教の神様

頂上から流れる聖水

石仏

生贄の台

岩に掘られた像さん

火焔樹

・・・

・・・

お供え用の花を売る

周辺は牛の放牧地

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    ☆ランチ・タイム

その名もキッチン

ラオスは殆どが野菜炒め風

とうがん入りスープは人気

ラオスの主食は80%がもち米、籠に入れて

国産ビール

椎茸入り炒め物

 ラオスの主食はもち米・・・

 もち米文化はラオスとタイの一部である。
 海のない、ラオスの主産業は農業。よって主食は米である。平地では水稲が多いが、標高の高い山間部では水路の関係で陸稲である。平地でも水田を作るためには費用がかかる。

 そこで考え出されたのが陸稲。水稲は水、手間、機械、機械を動かす燃料も必要。
しかし陸稲は畑だから、種籾の直播ができる。代掻きも田植えも水の管理も不要。では何故もち米なのか?

 農業は力仕事、エネルギーが必要である、ラオスの農民は殆どがもち米しか食べない。それは持久力が違うと言う。普通米は腹が減りやすく力が入らないと言う。

 山登りには餅が有効である。エネルギーがあり腹もちがするからである。だからもち米はエネルギーが高い?

 もち米はエネルギーで調べると、普通米と比べてもそんなに変わりはないようだ。ただ炊き方によるらしい。普通米は水分が多く柔らかいのに比べ、もち米は水分が少なく固まり凝縮する。だから同じ茶碗一杯でも内容が多くエネルギーが多い。

 ラオスではもち米が85%を占めるそうである。農民は100%程度、もち米を食べるが、一方都会のサラリーマンは普通米しか食しないと言う。もち米を食べると、勤務中に満腹感で居眠りするから・・・笑えない現象である。
 

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      ☆シーパンドーン

 シーパンドン は、ラオス南部のメコン川中州にある大小合わせておよそ4千ある島々を意味する。

 現地の言葉で「シーパン」は4000を、「ドン」は島を表す。最大の島はコーン島である。

 最大の滝はコーン島から下流に数キロ離れた場所にあるコーン・パペンの滝である。 これらの滝のため、周辺で船が航行するが困難であったため、フランスの植民地時代の1924年に、コーン島とデット島を結ぶ鉄道が建設された。この鉄道はラオスからフランスへ金を輸送する際に主に利用されていた。鉄道跡は現在も残っている。

 近年、コーン島、デット島を中心に観光地化され、欧米人を中心とした多くの観光客、バックパッカーなどが訪れるようになっている。

日本のバイクの1/5の値段、中国製

メコン川の中州にあるシーパンドン(島)へ

モータは自国製

 日本製は買いたし、されど高くてお金が・・・

 ラオスには未だローン制度がない。現金で買うしかない。 店頭に並ぶバイクは殆どが中国製。日本の価格の1/5である。長持ちはしないが背に腹は代えられないそうだ。自動車は韓国のヒュンダイ、日本の中古車を買いたいが韓国の新車より高いそうだ。
 しかし一部の金持ちは日本製を購入すると言う。世界共通の現象である。電化製品も同様である。

4000もある島へ

フランスが敷いた鉄道陸橋跡

デッド島

橋を渡り次の島へ

乗り合いバス?らしき乗り物


    ☆コーン島とデッド島の廃墟跡

鉄道の陸橋廃墟跡

鉄道のレールの残り

フランスの汽車、これで金を運び出した

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     ☆コーン・パペーンの滝

 コーンパペン滝は、ラオス南部にあるメコン川最大の滝コーン島カンボジア国境からも近い。 滝の高さは21mで、川沿いに10km以上に渡って滝が続いている。平均流量は約11,000km3/sである。滝の周辺は島と流路が点在している。

 この滝が、メコン川に沿って船で中国まで航行することができない大きな理由の1つになっている。

 19世紀後半にフランスの植民者が滝を航行しようと何度も試みたが、いずれも失敗に終わった。このためメコン川の中洲であるコーン島とデッド島の間に鉄道の建設を開始した。

看板

第二次大戦時にはこの岩を爆発計画したが、頓挫

岩だらけの川

これでは、当時の先進国フランスも船で渡れずお手上げ

動画・・・メコン川 「コーン・パペンの滝」

ラオスの竹林はユニーク

メコン川で泳ぐ子供達

右の赤いのがガソリン、れっきとしたガソリンスタンド


   島の中の ホテル

この島の5つ星?

風情は十分

メコン川に面して、夕日

朝陽

プルメリア

ホテルの中庭

島の中の民家

野外コンビニ?

ラオスの産業は電力、観光(鉱山・材木は少なくなった)、電力会社

高床式住居が主体

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コーンパペンの滝入口

ゲート

滝までの遊歩道

ラオス人は綺麗好き、日本人にどこか似ている

メコン川の急流地帯

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あどけない子供達

ファッション

ラオス・ビールの工場

バクセ→ルアンパパーン

ランチ・ボックス、当然もち米

動画・・・ルアンパパーン空国着陸

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      ☆ルアンパバーン

 ラオス北部、メコン川とカーン川が交わる地点にある山間の町。1975年、ラオスに革命が起こり、共産主義政権が成立するまでは、ここに王宮が置かれていた。

 現在でも旧王宮や寺院など数多くの歴史的建造物が残されており、古都としての落ち着いた雰囲気を漂わせている。また、1995年に町全体がユネスコの世界遺産に登録されることでその名が知られるようになり、多くの観光客が訪れるようになった。

ルアンパバーン空港

今夜はプーシーホテル

小奇麗なホテル


    ☆夕食

本日は赤飯

山菜入り炒め物

春雨入り炒め物、どれも抜群に旨い

とうがん入りスープ

ポークと肉団子

ソーセージ

スイカは毎日

マンゴも毎日

臭いドリアン、誰だ!こんなのを注文したのは?

だが、ドリアンは「果物の王様!」

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   ☆托鉢見学と体験

 托鉢とは、仏教ジャイナ教を含む古代インド宗教出家者修行形態の1つで、信者の家々を巡り、生活に必要な最低限の食糧などを乞い、信者に功徳を積ませる修行

 古代インドの宗教では、出家者は一般に所有欲を否定するために三衣一鉢の最低限の生活必需品しか所有しないほか、修行に専念するために農業などの生産活動には従事しない

 したがって、出家者が生存するためには身体を維持させるために最低限の食料を出家者以外から調達する必要があり、そうした状況下から、ふだん山地や森林で修行しその他の人々とは関わることが少ない出家者と、町村で生活している信者との間に托鉢による交流関係が発生した。

朝の4時から起こされ、メインの道路に

テントが張られ、椅子もある。前にはもち米入り籠

スプーンですくうか、手で少しずつあげる

不足したら、いくらでも売っている

もち米はすぐ固まるので、掘り起こす

この日は大雨、1時間後の小雨に、傘をさして来ました、お坊さん

動画・・・托鉢(ルアンパパーン)

坊さんは裸足、寒いだろうに、これも修業

次から次へと来るので、忙しい。のろのろしていると行ってしまう

体験観光客は満足そう

ステンレス風?の入れ物にはもち米、お菓子、果物が向かいの店のおばさんが、お坊さんはチマキも喜ぶよと

トゥクトゥク・タクシーで乗り付ける観光客も

体験観光客はレンタルのタスキを肩に掛けて、靴を脱いで

露天の店先には、左からバナナ、お菓子、籠入りもち米が。これを買って観光客は托鉢体験

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       ☆タラート・サオ(朝市)

ラオス語で「タラート・サオ」と呼ばれるこの市場は、朝4時半か5時には始まっている。

 ラオス女性の働き者ぶりは目を見張る。売るほうも買うほうも幅広い世代の女性たちが大半で、男といえば荷物を運ぶくらいであまり見当たらない。

民家や商店の店先に早朝のみ簡易の店を出す

雨が降るとテントも張る

各種野菜

竹の子や山菜も

魚はメコン川から

大きな魚もメコン川でとれる

肉も

モヤシや茹でた麺類も

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    ☆王宮博物館

 フランスが、ラオスを植民地としていた頃、傀儡国家としての王シーサワンウォンとその家族が、住居として使用するために建立されたかつての王宮。

 内部には王宮として使用していた当時の調度品、贈答品などが展示される。国のシンボル・パバーンが保存されている。

看板

王宮博物館内の祠

博物館、写真はNO

王の像

7つの龍の頭

3種類の街路樹が揃い咲き

当時の王様の車

高級アメ車

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     ☆ワット・マイ

 王宮博物館隣にある、ルアンパバーンでも有名な寺の一つ。

 本堂の壁面に、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』をモチーフにした金色のレリーフは仏教の輪廻を表現している。

看板

本堂

屋根が美しい

「黄金の国」を表現した壁の」レリーフ

細やかな模様

本尊

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     ☆伝統芸術民族センター

看板

モン族の衣装

モン族の伝統衣装

種族によって衣装が異なる

帽子が特徴

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    ☆ワット・シェントン

 ラオスの寺院の中で最も美しいといわれるお寺。

 16世紀に当時の国王によって建立された。本堂裏の壁面には、有名なモザイク画「生命の樹」が施されている。

看板

ルアンパバーンのシンボル

ラオスの寺院の中で最高の美しさ

彫刻が素晴らしい

「生命の樹」

屋根は龍

王の葬儀で使われた霊柩車

まあ〜まあ、落ち着いて。ラオスの寺は争いごとを好まない、仏像

雨乞いの仏像、手を下に

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      ☆ ランチ・タイム

レストラン入口

仏像がお迎え

もち米の麺

野菜をトッピング

肉野菜炒め

何かの炒め物

メコン川でとれる川海苔

椎茸炒め

デザート

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     ☆ルアンパバーンの街並

バックパーツカ―も多い

ヤモリも多い

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    ☆プーシーの丘

  王宮博物館の向かいの小高い丘で300段以上の階段を登りつめれば小さな寺院があり、タート・チョムシーと呼ばれる金色に輝く仏塔が建つ。

 夜間にはライトアップされる。小さな丘の頂上からは町が360度一望できる。メコン川に沈む夕日のビューポイント。

300段の階段

中腹から見るメコン川

頂上の寺院

ルアンパバーンの遠望

ルアンパバーンは街毎世界遺産

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       ☆モン族のナイトマーケット

 ラオスの古都ルアンパバーンのメインストリートでは、毎日このようにモン族によるナイトマーケットが開かれる。

モン族の店

モン族の店

 モン族

 浅黒い肌にギョロリとした目、巻き舌音の多い言語、高床家屋、焼畑耕作、水牛供犠、精霊信仰、魔術、壺酒、精緻な竹藤細工、狩猟・罠、腰機織り、ゴング音楽などが、ラオス国内のモン・クメール民族に共通している。

 中国国内では雲南省南東部と貴州省西部、国外ではタイ、ラオス、ベトナムなどの山地に居住していて、言語系統も異なる。

 1975年以降は、ラオスの共産化が進んだために、現地でアメリカに協力したモン族が国外に脱出し、多くは政治難民としてタイに逃れ、アメリカ、オーストラリア、フランスなどに移住して各地で民族集団を形成した。近年はグローバルな人的ネットワークを作っている

 モン族の民族衣装の特徴は、複雑で緻密なデザインの、クロスステッチと藍染めのコンビネーション。

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      ☆ディナー

インドシナ・レストラン

地元の人気店

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    ☆エレファント・トレッキング

 ルアンパバーン郊外のエレファントキャンプで約1時間のエレファントトレッキング。

 手つかずの森林や川の中を、エコツアー。

 人気NO1は像乗り。

乗り場

ここには20頭の大小の像

1時間のジャングル・トレッキング

いよいよジャングルへ

好物の草を携帯しながら歩く象さん

二人ずつ、頭には象使いが乗る

意外と安定した木枠

メコン川の支流を歩くが、一瞬緊張。落ちたら・・・

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     ☆サーンハイ村

 メコン川沿いの酒造りの村。壷造りでも有名。ラオスの焼酎「ラオ・ラーオ Lao Lao」を製造、販売している。このお酒はもち米で造る蒸留酒だが、アルコール度数は50℃とかなり高い。

村の入口。両脇にズラリとラオス織の店が並ぶ

この店の横で機織り

強壮剤、各種ゲテ物入り

像のラブ・タイム。長さは足の長さと同じくらい

ラオスの焼酎「ラオ・ラーオ」、試飲もあり

製造過程:先ずはもち米

壺に入れて発酵させる

ストーブで蒸留

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   ☆メコン川クルーズ & パクウ洞窟

 メコン川を27kmほど遡行したところにある洞窟。約4000体もの新旧入り交ざった仏像が安置される。

メコン川を1時間クルーズ

両岸はジャングル

連日35度だが、クルーズ船は涼風でさわやか

動画・・・メコン川クルーズ (ラオス)

パクウ洞窟に到着。断崖にある洞窟へ

4,000体の仏像が所狭しと並ぶ

左は「まあ、まあ!」の仲裁仏像。右は雨乞い像

贅沢し放題の王様像。改心してその後修業

洞窟から見るメコン川

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     ☆本日のランチ

洞窟のメコン川対岸にあるレストラン

今日は赤飯。連日、目出度い?

野菜サラダ

チキン・スープ

魚のフライ

ビーフ

チマキ

これもスープ

肉野菜炒め

肉じゃが風

トッピング野菜

デザート、赤飯にクリームをつけて、美味

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     ☆今日も托鉢

毎日早く目が覚めるので、4時半からホテルの前で待機。  ヒタヒタと裸足の音が聞こえてきた

動画・・・托鉢 (ヴィエンチャン)

地元の人達の前で、お経をあげる坊さんたち。  この日はよい天気

動画・・・托鉢 (お経)

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    ☆朝市

寺の境内の前で

用意万端整いました

寺のお参り用の花売り

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   ☆モン族の村

 モン族はラオスの北部から中部の山間部に住んでいる民族で、数百年前に中国の民族の一部が南下し、ラオス、タイ、ベトナムへ移り住んだといわれている。

 細かい刺繍やパッチワーク、あの雑貨の多くがモン族の手作りである。現在ラオスには、約30万人ほどのモン族が住んでいる。山の民といわれるように、山の自然を利用し、自給自足の暮らしを続けてきている。

モン族の集落、ここには数十件の家屋

高床式、屋根は茅葺、壁は竹で編んだ粗末な住まい

寒さ対策の為、窓は少ない

一年分の米倉

モン族の少年達、学生?

竹細工の為、器用に竹を切る

樹木の中に集落

標高935m、モン族の多くは高地に住む

子供のお守

ユニセフは世界中の子供達の命を守るため活動する国連機関。モン族の為に井戸を作って提供。

やねや壁用の為の藁ぶきを作る女性

モン族は山の奥で農業中心。焼畑農業で山は木が無くなる。木は燃料となる。山の奥の平地に陸稲を作る

 モン族の悲劇

 下記の文は、ラオスでボランティア活動を行っている人達等のルポルタージュである。モン族を理解するには適格な文なので紹介する。
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 『ベトナム戦争中、当時の北ベトナムが、南ベトナムで戦う「解放民族戦線」に物資を輸送したルートが所謂「ホー・チ・ミン・ルート」である。
米国はラオス国内を走るその「ホー・チ・ミン・ルート」をたたくため、山岳地帯を機敏に動くラオスに住むモン族の機動力に目をつけ、高い報酬でモン族を雇った。

1961年、ラオス北部に米軍基地がつくられ密かにモン特殊部隊が組織された。そしてモン特殊部隊はアメリカ軍の先兵として北ベトナム軍やラオス愛国戦線(パテト・ラオ)と戦うことになった。しかも敵方の北ベトナム軍やラオス愛国戦線の中にもモン族が居たため、同族同士が殺し合う悲劇ともなった。

アメリカ側の戦況が悪化してアメリカ軍の撤退が始まると、アメリカ軍はモン特殊部隊を見捨てた。その結果北ベトナム軍の報復攻撃も含め合計20万人ものモン族が戦死したと言う。アメリカ軍のベトナム戦争による戦死者はモン族の1/4の5万8千人である。もしモン特殊部隊が居なかったらアメリカ軍の犠牲は相当数増えた筈である。なおベトナム戦争におけるベトナム人の死者は200万人を超えたと書かれている。

しかも米軍はラオスのホー・チ・ミン・ルート沿いに250〜300万トンの爆弾を投下し、その内の20万トンが不発弾となり現在も住民の生活を脅かしている。この不発弾が完全に撤去されるには数百年かかると言う。

戦争が終わってからもモン族の悲劇は続いた。北ベトナム軍やラオス愛国戦線と戦ったモン族は帰る地がなくなり、タイに難民キャンプが作られ30万人ほどのモン族が一時そこで暮らした。
現在ではこの難民キャンプは閉鎖されたが、一部のモン族(10数万人)がアメリカに渡ったと言う。アメリカに渡ったモン族がアメリカ社会で幸せに暮らしているかどうか記述はないが、彼らが長く続けてきた伝統文化を守って生活しているとは思えない。

このような記述は別の面からの反論もあろうが、強大な国のエゴが少数民族を犠牲にした一つの例とみなせると思う。映画「地獄の黙示録」は実話でなく創作ではあるが、アメリカがアジアを見る一つの歪められた視点を垣間見るようだ。

元々モン族は中国の雲南省辺りで暮らしていたが、漢民族に支配されることを嫌い、漢民族の迫害を受けて中国からベトナムやラオスを南下し、その移動途中で不便な山谷(即ち安全な場所)に分派して彼らの村を作りながら、タイには19世紀に移り住んだと言われる。


定住の地を持たず、他民族に追われ、戦火に巻き込まれ、安住の地を求めて移動を繰り返して来た民族である。

中国では「苗族」、タイやラオスでは「メオ」とも呼ばれる。農耕民族で照葉樹林帯に起源しているので「日本の農耕文化のルーツ」の民族とも言われている。

モン族の悲劇はその犠牲となった人数が大きく、また舞台もベトナム、ラオス、アメリカと広がっているので少数民族の悲劇の例として挙げやすいが、歴史的にはこのような悲劇の小型版が無数にあり、その結果現在の少数民族の存在があるとも理解出来る。 歴史的に大きな悲劇でも小さな悲劇でも、その当事者にとって悲劇の度合いは同じである。

民族間の争いではどちらが正義で、どちらが悪とかの経緯はない。強いて言えば「勝てば官軍」、即ち強い民族が歴史的に正義となる
しかし、弱い民族が悪者ではない。強食弱肉の歴史舞台でたまたまその地に生まれただけの運命としか言いようがない。

華やかな民族衣装と笑顔の娘さんを楽しく鑑賞した今回の旅行であったが、その華やかな民族衣装の陰には迫害にも負けず、その民族のアイデンティティを守り抜きたいとの強烈な意思表示が含まれていたことも忘れてはいけない。』   

祭りの時のモン族女性の衣しよう

山の中の水田までは往復3〜4時間、帰りは薪を背負って

子供達

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    ☆カム族の村

 ラオスの民族

 @ ラーオ族〜240万人(60%)   A カム族〜50万人   B モン族〜31万人  その他合計49民族

 カム族の暮らし

 農耕〜陸稲、茶、トウモロコシ、キャッサバ、落花生、野菜
 狩り、漁業、畜産

 主食〜もち米、米、米酒  竹製品

カム族も高床式住居

標高1,000m以上の高地に多くが居住

ネズミ防止で柱に鉄板を巻き付け、ネズミ返し

モン族同様、茅葺・竹の壁と粗末

ガソリンスタンド。右がガソリン、左はオイルか?

村にある商店

金持ちは床が高い

冬用の薪が床に

家の中をのぞかせていただきました

キッチン部屋。煮炊き用のかまど

水道は共同、山の上から水をひいている

小高い丘に学校。陸稲は山の上の平地まで2時間

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       ☆シェンクワン

 「ホーチミンルート」と呼ばれる北ベトナムの供給ルートに52万回以上の爆撃が米軍により実施され、200万トンを超える爆弾が落とされ、それらの多くはクラスター爆弾で、その子爆弾の30%近くが不発弾として今も地中に眠っている。

 多くのNPO法人が不発弾除去を行っているが、作業完了のめどは立っていない。


       ☆ジャール平原(サイトT・U・V)

 ジャール平原 は、ラオス中部のシエンクワーン県アンナン山脈の北端に位置するシエンクワーン平原に大量の石壺 が散らばって埋められている歴史文化的な場所、あるいはシエンクワーン平原そのものを意味する。

 石壺はシエンクワーン平原を中心に400箇所以上で確認されている。

看板

注意事項:特に道路以外は地雷爆発があるので注意とある

何のために造ったのか? 謎。

紀元前500~西暦800年のものである

人骨も発見されている

アメリカ軍が投下した爆弾の跡

考古学者は、石壺は骨壷、あるいは食料貯蔵のための容器として使用されたとしているが不明

パテート・ラーオの兵士が隠れていた洞穴にアメリカ機が爆弾投下。しかしわずかに外れ、左の空き地に。その爆撃機を操縦していたパイロットが後日旅行に来て得意げに語ったと言う。「俺が狙って爆弾を落としたのだ」と。

パイロットはこの上の穴を狙ったそうだ。
アメリカ人にこの地の住民を多く殺戮してどのように思いますか?と質問すると「・・・・・」答えないと言う。

 パテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)・・・

 当時のラオス王国にはアメリカが軍事援助と、パテート・ラーオ(ラオス愛国戦線:共産主義革命勢力)にはベトナム、ソ連が援助。
 東西冷戦となる。まさしく東西の代理戦争であった。

 ベトナム戦争の火種がここラオスに点火してきたもので、巻き添えとも言えよう。

 アメリカはラオスのモン族を駆使しながら、この地シエンクワンのパテート・ラーオの基地に200万トンを超える爆弾を落とし、それらの多くはクラスター爆弾で、その子爆弾の30%近くが不発弾として今も地中に眠っている。

 この地シエンクワンに当時住んでいた住民は殆どが犠牲になったと言われている。しかし、やがてアメリカは勝利は手にする事が出来ず撤退して行く。

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 観光の後日感・・・

 共産主義のパテート・ラーオが勝利して、当時のラオス王国が崩壊し、変わって現在は社会主義社会であるが、国民の生活は?
と質問してみた。王国は贅の限りをしていただろうが、今の社会主義の幹部も汚職・賄賂は跡を絶たない。どちらも国民にとっては変わらなく、生活は変わらないようだ。発展途上国の悩みと悲劇はいつまでも続くのである。

爆弾跡

石壺も割れた

石壺のふた

ふたの模様

無数の石壺。 用途がはっきりしないので、世界遺産に認定されないと言う

アメリカ軍の爆撃跡、周辺には多くの不発弾が・・・


       ☆ラオスは日本が大好き

 
 ODAで活躍する日本・・・
 ODAとは開発途上国の経済・社会の発展や福祉の向上に役立つために行う資金・技術提供による公的資金を用いた協力のこと。先進国の多くが発展途上国に対し行っているが、特に日本は熱心に活動している。
 飢えや貧困に苦しみ,十分な食料や飲み水が得られなかったり,教育や医療を満足に受けられなかったりする人々は,世界人口約60億人のうち8割以上を占めている。その数50億人近い。
 
 日本のODAは,開発途上国の安定と発展への貢献を通じて信頼関係を構築することが重要であると云う事で熱心である。
 資源・食料を海外に依存する日本にとって,国民の生活を守り、自国にとって好ましい国際的環境を構築する事は特に重要である。率直に言うならば、援助する代わりに資源や食糧の円滑な輸入を、相手国との信頼関係を得て促進したいと言う事である。

 日本はアジア3、中東5、アフリカ19、中南米12、欧州4 合計43カ国の開発途上国に援助してきている。これは世界のトップクラスである。特にインフラ整備(道路・橋・井戸・学校等々)や教育が中心である。露骨な見返りは求めていなく、各国から感謝されている。

 ラオスも日本に感謝・・・

 ラオスにおいて、特に日本のODAに感謝しているのは、広大なメコン川にかける橋。国内の五か所の橋の内、日本は三か所をプレゼントしている。
 そしてラオス国民が日本に最大の感謝をしているのが、井戸を作り綺麗な水を提供している事であると言う。ラオスの平均寿命は64.8才。しかし、田舎へ行くと50才未満である。これは水質の悪い飲み水が原因で、その後日本のODAが全国に井戸を提供してから驚異的に改善してきていると云う。だからラオス人は日本人が大好きであると言う。大好きな要因は他にもある。
 同じ仏教国、国民の性格が似ている、綺麗好き、農耕民族、米文化、手先が器用、どことなく奥ゆかしい・・・共通点が多い。

 ラオスは日本人のビザが無料!

 ODAに対して感謝するラオスは、日本人のラオス入国に必要なビザ(査証)は他国とは違い無料である。ラオスの日本に対しての感謝の行為であると言う。
 アメリカは何故日本人だけなのか? と質問した。 すると「アメリカはインドシナ戦争でラオス国内に多数の爆弾を投下し、その時の不発弾は今も処理されていない。アメリカが責任を持って処理するならば、その時はビザ代金を免除しましょう。」と云ったそうだ。

       ☆ラオスはアメリカと中国が嫌い

 ラオスは、隣国ベトナムとは兄弟の付き合いで歴史が続いている。そのベトナムは、過去に1,000年に及ぶ中国の支配で苦しんだ経緯がある。今また、中国はベトナムの島を中国の領土であると言い傍若無人にふるまっている。だからベトナムは中国が嫌いである。

 ベトナムが中国を嫌いだから、兄弟のラオスも中国を嫌いだ、と現地ガイドも云う。
 しかも中国は最近、援助すると言いながら中国は巧妙に資源を開発しながら持ち去ろうとし、多くの箱モノを作り劣悪商品を売り、多くの中国人を送りこみ中国人街を作り、ラオスの経済を圧迫していると言う。このまま推移するとラオスは中国に乗っ取られると危惧しているようだ。

 ラオスはアメリカも嫌いだ。ベトナム戦争で大被害を受けたためである。未だその被害者意識は変わらない様である。


不発弾の残骸

アメリカ軍が放置した兵器

今は平和。街の片隅で宝くじを販売

シエンクワンの飛行場は長閑

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   ☆首都ビエンチャン

 メコン川沿いに広がる町。タイ王国とは、メコン川で国境を隔てている。

 隣国の度重なる侵攻にさらされてきたものの、仏教国の首都として政治や文化の中心を担ってきており、数々の仏教寺院や仏塔を残す。

 「ビャクダンのある城壁地」という意味や「月の都」という意味がある。


     ☆タート・ルアン(仏塔)

 ラオスヴィエンチャンにある、ラオスを代表する塔のひとつである。ラオスのシンボルであり、国章にもタート・ルアンが描かれている。

 紀元前3世紀マウリヤ朝アショーカ王が派遣した仏僧によって建立されたインド寺院が基になっているとも言われているが、真偽は分かっていない。ブッダの遺物が塔内に残っているとも言われている。

 現在、タート・ルアンの敷地内には入れるが、内部には入ることが出来ず、観光客は周辺から外観を眺めるのみとなっている。

ラオスのシンボル

黄金の仏塔

屋根が素晴らしい

当時の王様像

黄金の輝き

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    ☆民族舞踊

有名店で最後の夕食

秋篠宮文仁親王も来店

野田前総理来店

ラオスの郷土料理

動画・・・ラオス楽器演奏

民族舞踊と演奏

動画・・・ラオス美人踊る

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      ☆ワット・シーサケート

 

 ランサン通りに面し、ホワイトハウスの前に建つワット・シーサケット。
 1818年、セータラート王3世であるアヌウォン(King Anou Vong)によって建立。ヴィエンチャン最古の寺院で、市内で唯一、建立された当時のままの姿を保つ。
 本堂と回廊の壁の小さい穴(龕、がん)を合わせると7,000体近い仏像が安置されている。
 そのほとんどの仏像の目に嵌め込んでいた宝石類や、頭部の金細工等は度重なる戦いの中で奪い取られている。  

入口

ヴィエンチャン最古の寺院

本尊

7,000体近い仏像

壁一面に

龍の像

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     ☆ワット・ホーパケオ

 

 1560年、ラオス最初の統一国家、ラーンサーン王国のセーターティラート王は首都をルアンパバンからビエンチャンに遷都した。

 それからまもなく1565年にこの寺院は建設された。ラーンサーン王国の守護仏であるエメラルド仏はここに安置されている。

入口

エメラルド仏はここに安置

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     ☆ラオス国立博物館

 国立博物館の以前の名称はラオス革命博物館。

 1階の歴史展示はジャール平原にあった石壺、2階は、18世紀のラオスの王国に関する詳しい展示がある。

 最後の部屋は、革命的後のラオスを扱った展示で、肥料製造工程を調べているラオス人民議会の7回目の本会議の出席者が映っているような写真ギャラリー。

入口

博物館

内部は写真NO

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     ☆ランチ・タイム

春巻き

もち米は飽きません

中華風炒め物

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        ☆ラオス繊維博物館

 ラオスは機織りの国である。数百にも及ぶ少数民族が多種多様な模様、固有のデザイン、民族、種族の伝統的な織物を現代に伝えている国である。

 高床式の建物を上がると、各地のデザインが施されたアンティークの織物が展示されている。

 ビエンチャンの繊維博物館には、藍が栽培され、藍染の工房などもある。

素晴らしい手織り

色彩が鮮やか

日本の1/3の価格か?

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   ☆アヌサーワリー・パトゥーサイ

 ラオスヴィエンチャンにある凱旋門。「アヌサーワリー」は「記念碑」、「パトゥーサイ」は「勝利の門」という意味である。

 1962年から、内戦の終結とパテート・ラーオの勝利を記念して建造が開始された。ラーンサーン通りリのシャンゼリゼ通りに見立て、パリのエトワール凱旋門を参考にして建設を行ったと言われているが、それ自体はラオス様式である。資金難により工事が貫徹されぬまま終わり、現在でも未完成のままである。

 また、アヌサーワリー・パトゥーサイは、上部まで登ることができ、ヴィエンチャン市内を見渡せることから、観光客スポットとして、ラオスの国内外から観光客が訪れている。

パリの凱旋門を模倣

天井の模様

壁には仏像


    ☆タラート・サオ(最大の市場)

 

ヴィエンチャンで一番有名なマーケットがタラートサオ(朝市)。

 新棟(タラートサオ・モール)は2007年にオープンした3階建てのショッピングモールで、ラオスでは珍しいエスカレーターが設置された近代的な作りになっている。

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     ☆略史

          年 代

統治者  

       統治国         情 勢
  11世紀〜1353 タイ系の民族 「ラーオ族」 が移動 民族が移動、居住を繰り返し文字を持たないため、史料が無く謎が多い。
  1353年 タイ王国(フアーグム王:ラーオ族) ラオス王国 タイ系民族が移動し、
  1707年〜1770年 タイ王国(3つに分裂) ビエンチャン王国、アンパバーン王国、チャムパーサック王国、3つに分裂。

 ビルマ、ベトナム、タイからの攻勢続く。   仏教の隆盛期

  1770年〜1893年 タイ王国(3つに分裂) タイとベトナムが支配、属国となる。 アヌ国王、独立を図るが失敗。
  1893年〜1945年 タイ王国  フランス カンボジア、ベトナムを植民地にしたフランスが統治。
  1945年 タイ王国 (日本軍)  第二次大戦でフランスがドイツに敗戦。変わって日本軍が単独支配。
  1946年〜1953年 タイ王国(1国に集約) フランス ラオス王国独立。
  1953年〜1975年 タイ王国 (二つの政府) ラオス王国にはアメリカが軍事援助と、パテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)にはベトナム、ソ連が援助。東西冷戦となる。

パテート・ラーオは共産主義革命勢力。

内戦

  1975年〜1986年 王政廃止→「ラオス人民民主共和国」 ラオス人民民主共和国 (独立)企業の国営化、農業の集団化等、社会主義経済政策で行き詰る。
  1986年〜 現在 大統領、首相 ラオス人民民主共和国

ソ連の崩壊で、市場経済化政策(資本主義化 へ移行)  政経分離〜政治は社会主義、経済は資本主義的。

 

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 旅を終えて・・・

 良い国であった。決して近代国家ではない。自然が多く、国民は誠実で素朴で、生活も日本の戦後に近い貧しいながらも明るく希望が多い毎日の様である。笑顔が良い。

 托鉢文化は他の国よりも坊さんが多い様であった。しかし、地方の坊さんは観光客も少なくふるまわれる食料も少なく、ルアンパパーンや首都のビエンチャンへ出稼ぎ?に来ていると聞き、複雑な気がした。尼さんはいなかった。

 メコン川の氾濫で高床式の住宅が多いが、今は灌漑設備が造られ、メコン川の養分の多い土砂が作物を多く作るらしい。

 もち米文化とは知らなかった。毎日出されるもち米は固いが意外に美味しい。食事は日本の炒め物(野菜炒め等)が多く、非常に美味しく飽きなかった。ビールや焼酎のラオ・ラーオも美味かった。

 世界には遊牧民族、狩猟民族、農耕民族等、色々の国を訪ねてきたが、農耕民族の生活が一番幸せの様な気がする。食べることに不安がないからである。

 心配なのは、この国が中国に侵されてきつつある事である。中国は嫌いなはずが、社会主義国家の指導層達の腐敗が中国の賄賂攻勢になびいているせいであるらしい。最近の中国政策はどの途上国に対しても同様である。

 大昔はイギリス、スペイン、フランス等の先進国が世界中に植民地を作り、後進国の文化を根こそぎ破壊してきた。
 そしてアメリカが世界の警察と称して介入した。ソ連が崩壊したが、社会主義の欠点だけが残り、今は引き継いだ中国が世界の途上国を傘下に入れようとしている。 現在は、アメリカと中国の新冷戦と言われているが世界はどうなるのか。

 ラオスの今後が期待される。像乗り体験等のジャングル・エコツアー、メコン川クルーズで自然体験、少数民族の村での体験ツアー、もち米等美味しくヘルシーなラオスの食文化ツアー、何よりラオス人の誠実さと素朴さが素晴らしい。

 また近代的な物が殆ど無いのが良い。ここには原子力などは絶対に要らない。日本が原子力で滅びても自然を愛するラオスは生き延びれるだろう。
 決して便利性は永遠の幸せにつながらない。                              終わり                               

     

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