リトアニア共和国紀行
聖アンナ教会 :1812年、ロシアに攻め上るフランスのナポレオンがヴィリニュスに入城した際に、「我が手に収 めてフランスに持ち帰りたい」と語ったのは有名な話である。 ゴシック建築の素晴らしい教会。 |
旅の目的 2011年8月、バルト三国の旅をした。バルト三国と云う言葉は記憶にあるが、はたしてどの辺にあるか? と云うのははなはだ自信が無い。 バルト海を挟んで、船では北欧のフインランドへ至近距離の2時間。 ロシア、ポーランド、ドイツが隣国のため常に侵略され、文化も建物も宗教も食べ物さえも影響を受けた国々、それがバルト三国。 |
☆ バルト三国 基本情報
国名 | 面積 | 人口 | 首都 (人口) | 民族 | 宗教 | 主要産業 | EU加盟 | ユーロ導入 | 備考 |
エストニア共和国 | 北海道の60% | 129万人 | タリン(41万人) | エストニア人70%、 | キリスト教(プロテスタント) | バルト3国中で最も経済状況は良好。機械、鉱産物、金属製品等が主要輸出品 | 2004年 | 2011年導入 | 大相撲:大関把瑠都の出身地。 |
ラトヴィア共和国 | 北海道の60% | 224万人 | リーガ(71万人) | ラトヴィア人60%、 | キリスト教(カトリック、プロテスタント) | 木材関係品、繊維製品、漁業、金属加工品 | 2004年 | 2014年予定 | 木材関係品、繊維製品、漁業、金属加工品 |
リトアニア共和国 | 北海道の80% | 330万人 | ヴィリニュス(55万人) | リトアニア人84%、 | キリスト教(カトリック) | 石油精製業、食糧・飲料生産業 | 2004年 | 2014年予定 | リトアニアに赴任中の外交官杉原千畝がビザを発給6,000人の避難民を救った。 |
☆ 到 着
成田からフィンランド・ヘルシンキ経由、リトアニアまで飛行時間は12時間。 | このところの航空会社の競争激化で、フィンランド航空の樹内食も質が低下、止むを得ないですね〜。 | ヘルシンキからリトアニアの首都ヴィリニュス行きに。 |
ヴィリニュス空港 | 先ずはリトアニア通貨に両替。 | ヴィリニュス空港を後に、市内へ。 |
☆ いざ、居酒屋へ
街は石畳、整然と綺麗 | ホテル到着は22時、先ずは居酒屋へ。 | 生ビールが旨い。 |
リトアニア在住7年、埼玉出身で琥珀の販売会社を経営(社員は誰もいない)する彼女と乾杯! |
メニューでは名称が珍しい「女性の悦び」を注文。 | こちらは「男性の悦び」 意味 ? 左端の豚の耳が人気。 |
☆ 観 光
ホテルの食事の皿、図柄がさわやか、本物のリンゴみたい | 6000人のビザ、杉原 千畝の切手 | ホテルの女の子、リトアニアは美人が多いので有名 |
ヨーロッパは石畳が多く、風情がある。 | 聖ペトロパウロ教会 | 現地ガイドは、昔大学の教授 |
聖ペトロパウロ教会。バロック建築、2000の彫刻は圧巻 | マリアさま | バロック建築の特徴は彫刻が飛び出している。 |
天井に下がる「ノアの箱舟」 |
☆ 人間の鎖
三国の首都600kmを手をつないで抗議! | ソ連の数百年に及ぶ支配に抗議をする人民 |
バルト三国・人間の鎖は、 1989年8月23日に、ソビエト連邦の統治下にあったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)で、独立運動の一環として行われたデモ活動。バルトの道ともいう。 およそ200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600km以上(日本の東京から大阪以上の距離)の人間の鎖を形成した。このデモンストレーションは、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書締結50周年を期して行われ、三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われた。 「人間の鎖」は地元の当局によって認可され、鎖が切れないよう、周到に計画された。例えば、各都市や町には担当の場所が割り当てられ、他の交通手段を持たない参加者には無料バスを提供するよう指示された。参加者は、現地時間午後7時から15分間手をつないだ。この集会を調整するため、特別のラジオ放送も行われた。 その後、各地で多くの集会や抗議行動が行われるようになった。ヴィリニュスでは教会の大聖堂前で数千人が、ろうそくを持って国歌をはじめとする民族の歌を歌った。他の場所では神父がミサを行い、教会の鐘を鳴らした。 人間の鎖にどれだけの人が参加したかは報道によって異なる。翌日のロイター通信によれば、エストニア人70万人、ラトビア人50万人、リトアニア人100万人が参加したと報じている。 |
日本でも「人間の鎖」 九州で |
☆ ゲディミナス城から市内を見る
リフトで上に昇る | 城はソ連軍に破壊され、今は塔のみ |
首都ヴィリニュスの街並み、人口55万人 |
旧共産国家にはつきもののテレビ塔327m | 首都ヴィリニュスの街並み |
世界遺産 : リトアニア首都ヴィリニュスの街並み |
動画・・・リトアニアの街並み → http://www.youtube.com/watch?v=UC2bX2nFpTg |
☆リトアニア略史
年 月 | 略 史 | 年 月 | 略 史 | ||||
1236年 | リトアニア大公国成立。 | 1990年2月 | 共和国最高会議選挙。 | ||||
1336年 | リトアニア・ポーランド王国成立 | 1990年3月 |
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1569年 | リヴォニア戦争によりポーランドと同盟(二民族一共和国) | 1991年9月6日 | ソ連国家評議会バルト三共和国の国家独立に関する決定を採択。 | ||||
1795年 | 第3次ポーランド分割により大部分がロシア領となる。 | 2001年5月 | WTO加盟。 | ||||
1918年 |
| 2004年3月 | NATO加盟 | ||||
1920年 | ソ連より独立。 | 2004年5月 | EU加盟。 | ||||
1940年 | ソ連に編入。 |
☆ 街並み
ヴィリニュス大学: 帝政ロシア時代、抵抗運動の本拠地 | 聖アンナ教会 | 大聖堂 、十字軍が造る |
大聖堂の中の彫刻 | 鐘楼 | 鐘楼と大聖堂 |
大統領官邸 | 大統領官邸 | ダリア大統領、リトアニアの女性は美人・・・を証明? |
リトアニアの3B 1. ビーフ 2. ビール 3. バスケット 4. 美人 とリトアニアの男性ガイドが云っていました。 |
聖アンナ教会は33種類のレンガを使用 | 聖アンナ教会はナポレオンが持ち帰りたかった建物 | これぞゴシック(装飾過多) |
「夜明けの門」 元来9つあった城門、今は「聖母のイコン」 | 2階が礼拝所、一心に祈りを捧げる信者で一杯 | 礼拝所の聖母マリア |
ロシア正教会 | ロシア正教会内部 |
☆ リトアニア料理
首都ヴィリニゥスのレストラン「Esse] | サラダから | リトアニア風水餃子「コルドゥーナイ」 |
☆ トラカイ城
以前は首都があった郊外の城、30以上の湖と森に囲まれる | 14世紀、ドイツ騎士団から守るための城 | 城塞 |
☆リトアニア「NO1」のレストラン
ヴィリニゥスのレストラン「Ida Bassar」 | 天皇陛下の料理をこのレストランが作った | リトアニア料理「魚の三種盛り合わせ」 |
2007年、天皇皇后両陛下、バルト三国を初めて訪問 初めて旧ソ連からの独立国であるバルト三国を両陛下が訪問。エストニアでは「歌の革命」として独立運動の発端となった「歌の祭典」、ラトビアでは「自由記念塔」、リトアニアでは独立戦争で命を落とした若者らが眠るAntakalnis墓地をそれぞれ訪れた。 三国共に、小さな国だが独立を勝ち取り、着実に発展をしている国として認められたと、日本の認識に感動していたという報道である。 |
☆ カウナスへ
リトアニアの第二の都市「カウナス」へ | バルト三国は平野が殆ど、最高所は300m程度の山 | カウナスは昔の首都 |
第二次世界大戦時代の日本領事館あと、現在は杉原記念館 | 「杉原記念館」看板 | 杉原 千畝(すぎはら ちうね)さん |
領事館時代の写真 |
当時の机、ここで1600枚のユダヤ人へのビザを発行サイン | 早稲田大学後輩でボランティアに励む4年生 | 私にもビザを発行してニャン! 記念館を散歩する子猫 |
杉原 千畝の功績 第二次世界大戦の際、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓命に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くは、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。 この時日本は日独伊三国同盟を結んでおり、ナチス・ドイツの意向に従わないわけにはいかなかった。外務省は当然ビザの発行は許可できるわけがない。 外務省から退職通告書が送付され、外務省を依願退職。カウナスにおける大量ビザ発給の責任を負わされた形で実質的に退職させられた可能性が強い。 2000年、故杉原氏の名誉回復を象徴する「杉原千畝を讃える顕影プレートの除幕式」が東京都内外交資料館であった。 挨拶に立った当時の河野洋平外務大臣は、故杉原氏とその遺族に対して、 米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンが東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、「窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うこと」であり、「今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人ものユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である」との公式声明を発した。 動画・・・・杉原記念館上映のビデオ → http://www.youtube.com/watch?v=f6BvmObdR-g |
☆リトアニアのローカル・レストラン
田舎の可愛いレストラン | 前菜は冷製ボルシチ | ツェペリナイ:リトアニア名物「ジャガイモ料理」 |
中にはひき肉 | アイスクリーム | お湯と紅茶の袋が・・・味気ないよな〜 |
人形の親父のプレートには何故かチップ? |
☆十字架の丘
リトアニアから隣国ラトビアに行く途中は田園地帯 | 十字架の丘は「シャウレイ」の町の近く | インフォメーションには民芸品売り場が |
右から、左まで200mはあるだろうか、小高い丘の向こうにも丘がある。歩く速度が何故かだんだん遅くなる。 |
ここは墓地ではない。十字架をおく丘なのだ。 |
十字架、キリスト像、マリア像、ロザリオ・・・数えられない。 |
キリスト像もあまりの重さに首が下がっている | 気味が悪いほど多数の十字架 | 丘の向こうに、またもや丘が |
皆、言葉が出ない | キリストも見る方も疲れた〜 | 老若男女、願い事をして家路に |
リトアニアは「十字架の国」 十字架の丘は、リトアニア北部、シャウレイの北12kmに位置する巡礼地。リトアニアの観光名所となっている。2001年に『リトアニアの十字架の手工芸とその象徴』の一つとして無形文化遺産(日本では「能楽」、「人形浄瑠璃文楽」、「歌舞伎」)に指定されている。 その発祥は分かっていないが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシアに対する11月蜂起の後であると考えられている。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになった。十字架の正確な数は分かっていないが、約50,000であろうと推測されている。 ポーランド人とリトアニア人はロシアに対抗して蜂起を起こした(1831年の11月蜂起、および1863年の1月蜂起)が、いずれも失敗に終わる。これら2つの蜂起はこの十字架の丘の始まりに関係している。反兵の家族が、彼らの遺体のかわりに十字架を丘に建てたのである 。 1918年、リトアニアは独立を回復。独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために祈る場所となった。 リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を持っていた。丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や遺産への忠誠心を示した。それは、非暴力による抵抗を表していた。にもかかわらず、ソ連は3度にわたりブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとした。 この丘を見て、観光客の多くが茫然と立ち尽くす。異様な風景である。数十年、数百年にわたるソ連の支配に国民は疲弊していたのだ。十字架を置くことで抵抗するしか術がなかったのだ。 独立した今でも十字架の数は増えている。遠く世界の国々から何かの意図で十字架を運ぶのであろう。この地を訪れる者は、しばしこの地で立ち尽くすしかない。 動画・・・十字架の丘 → http://www.youtube.com/watch?v=bA97VeQFMiM |
旅を終えて・・・ バルト三国を歩いて感じたのは、ソ連(現在はロシア)の脅威を未だに国民が感じていることである。若い人も同じようだ。 三国共に平和な時代を過ごしている。未だに経済が軌道に乗っていない国もある。しかし、国民は明るい。どの国へ行っても大国(ロシア、アメリカ、中国・・・)の政策に翻弄されている国が多い。第三次大戦が無ければよいが・・・ |
終わり
参考文献 バルト三国歴史紀行 原 翔 彩流社 杉原千畝記念館公式ガイドブック 杉原千畝ブリッジングプロジェクト 地球の歩き方 バルトの国々 ダイアモンド社 |