マケドニア紀行

マケドニア:オフリドの「聖ヨハネ・カネヨ教会」は世界遺産。湖を望む岬の先端に建つかわいらしい教会

 旅の初めに・・・

 2012年4月、バルカン半島のマケドニアの旅を計画。

 旧ユーゴスラヴィアの一国で、人口はわずか200万人の小国である。ギリシャの隣国で、キリスト教とイスラム教が融合したような国の様だ。

 マザーテレサが18才まで育った地としても有名であるらしい。春4月、百花繚乱のこの時期は美しいだろうと期待して出発する。

  もう一つの楽しみは、オーストリアのウィーン経由なので、数時間をウィーンの街を散策できるのが楽しみでもある。そう、あの『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』で寅さんが、ウィーンを九州の湯布院と間違えて外国に初めて行った先だ。
 20数年前の竹下景子が若かった姿を思い出す。竹下景子似の美人に会える事を楽しみに出かけることにしょう。

 旧ユーゴスラビア連邦の東南に位置していた共和国であり、多数派のマケドニア人(スラブ系)と少数派のアルバニア人を中心とする多民族国家。

 現在はギリシャブルガリアのそれぞれ一部と、独立国のマケドニア共和国(国際連合などでの呼称はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国。)の3つの国の領土に分かれており、南部を占めるギリシャがおおよそ50%、マケドニアが北西部40%、ブルガリアが北東部10%ほどを占めている。

 今回は、首都のスコビエ、そしてビトラ、世界遺産のオフリドの各地を訪ねる。


      ☆ ワンポイント・情報

 ・正式名  マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国   ・人種  マケドニア人が半数以上、アルバニア人、トルコ人
 ・面積    九州の2/3                   ・宗教  マケドニア正教(東方正教会)
 ・人口    202万人                    ・産業  農業(たばこ、ワイン、とうもろこし、米)、繊維、鉱業(鉄等)
 ・首都    スコビエ


        ☆ 出発

成田〜ウィーン(オーストリア)〜スコピエ(マケドニア)

先ずはドリンク・サービス(オーストリア・ビール)

機内食は美味しい(夕食)

朝食はパスタ


          ☆中継地ウィーン(オーストリア)で散策

何時見ても、ドナウ川は情緒がある

ウィーンの街に似会う観光馬車

ウィーンのケルントナー通りには芸人が集まる。杖一本で宙に浮く美女、不思議!

ハプスブルグ家の支配を得た「シュテフアン寺院」

素晴らしいウィーン市庁舎

モーツアルト像、左下で抱き合う若者。ケシカラン!

ヨーロッパ三大オペラ劇場の「国立オペラ劇場」

王宮


        ☆マケドニアの 略史

年月略史
6、7世紀頃     スラヴ人が定住
15世紀以降     オスマン・トルコの支配下に入る
1918年     セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国建国
1945年     旧ユーゴ構成共和国の一つとして発足
1991年     旧ユーゴより独立
1993年     国連加盟


      ☆首都スコビエ   

 

 スコピエは、ヴァルダル川沿いにあるマケドニア共和国の首都である。人口506,000人。

 古代ローマ帝国、東ローマ帝国、スラヴ人、ブルガリア帝国、セルビア、オスマン帝国、ユーゴスラヴィア連邦と次々支配された。

 マザー・テレサがこの町でアルバニア人の娘として生まれた。地震の多い土地である。

 1966年から72年にかけて
丹下健三の都市設計による再建事業が行われ、ビルの立ち並ぶ近代都市へと生まれ変わった。

街はヴァルダル川を挟んで広がる

旧共産主義国らしい巨大で無機質な建物が多い

博物館、地震で時計は止まったまま

この町は色々な像が多い、半漁?

牛か?

アレクサンドロス大王


      ☆マザーテレサ

マザーテレサ博物館前の銅像

マザーテレサ博物館

マザーテレサ

 マザーテレサ・・・

 マザーテレサ(1910年-1997年)はカトリック教会修道女にして修道会神の愛の宣教者会」の創立者。

 「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。カトリック教会の福者コルカタ(インド)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められた。

 生前からその活動は高く評価され、1979年のノーベル平和賞1980年バーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年エリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか7人しかいない)。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。

 ノーベル賞受賞理由は長期間にわたる献身的な働きにより、苦しみのなかにいる人々に安息をもたらしたと言う事が最大の理由。

 テレサが亡くなったとき「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていた。活動内容はホスピスHIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。

 宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって国葬として盛大に行われた。
インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女と
2011年に死去したサティヤ・サイ・ババのみである。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなった。

 1997年、テレサの死後すみやかに列福(聖人の一歩手前)・列聖(信者を聖人の地位にあげることをいう)調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定なのだが、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったことと、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、2005年4月に帰天した当のヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。2003年、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言した。通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さである(さらに列聖には、場合によっては数百年の時間をかけて審査が行われることもある。福者は聖人の前段階)。

 聖人とは一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝対象となる過去の人物をさすことが多い。日本の仏教界では法然、親鸞、日蓮がいる。


アレクサンドロス大王像とマケドニア広場

アレクサンドロス大王

 アレクサンドロス大王・・・

 アレクサンドロス大王は、紀元前356年ごろ、アルゲアデス朝のマケドニア、コリント同盟の盟主、エジプトファラオを兼ねた人物である。遠征・征服した領域はエジプトからインドまで東西4500kmに及ぶ。

 ハンニバルカエサルナポレオンといった古今東西、後世に名を残し、影響を与えた英雄たちから英雄視されている、英雄の中の英雄である。現在でも知名度は抜群で、アレクサンドロスの名に関する名をつける人は多い。

マケドニア広場と像

石の橋(カモンモスト)

石の橋

 城塞

ムスタファバシャモスク

  民族博物館

 聖クリメント大聖堂

スコピエ郊外

白い壁、赤い屋根が印象的

マケドニアの主産業は農業。ワイン、トウモロコシ、米、タバコ等。国道に広がるブドウ畑

ランチはビーフストロガノフ

デザートはアイスクリーム。左側のフォークの形がアイディア

          


           ☆ビトラ(第二の都市)

 マケドニア共和国南部の都市。標高600メートルに位置する。

 市の西側にはペリステル山(標高2601メートル)がそびえる。人口8万4400、地区人口11万7600。地区のマケドニア人は90.9%を占める(1994)。オスマン帝国支配下にあった時期には、修道院を意味するトルコ語名モナスティールとして知られた。

高原上にあるので、最良の牧草地に恵まれ牧畜が盛ん。穀物、タバコ、アカネ、ケシが栽培されている。金属、皮革、じゅうたん製造の工業もある。

 伝統的に通商の拠点として栄え、往時には12か国の領事館が存在していたといわれる。学校も多く、オスマン帝国の改革者として有名なケマル・アタチュルクも、ここの軍事アカデミーで教育を受けた。

 19世紀末にはテッサロニキにつぐ革命運動の拠点となった。しかし、第二次バルカン戦争後にマケドニアがギリシアセルビアブルガリアによって分割され国境が設定されると、ほかのバルカン諸国とのつながりは断たれた。

 第二次世界大戦後の市街地復興に際しては、伝統的建築物の保存が配慮されたため、いまも往時の繁栄をしのぶことができる。マケドニア共和国の電力の8割は火力発電によってここから供給されている。

                   

広場

ジェニイ・モスク

ペリステル山(標高2601メートル)


      ☆ヘラクレア遺跡

 ヘラクレアもローマ時代の遺跡である。象徴的なものは、地面に描かれたモザイク(壁画)である。動物や木々が描かれており、当時の人々の自然崇拝の気持ちをうかがい知ることができる。

案内板

地面に描かれたモザイク画

魚か?

列柱もあるローマ遺跡

ネコも見学!

数千人収容のローマ劇場


      ☆オフリド

 オフリドは、マケドニア共和国西部にある都市。バルカン半島の大湖オフリド湖のほとりにある。かつては市内に365もの教会があり、マケドニアのエルサレムと呼ばれた時代があった。

 10世紀末から11世紀にかけて、ブルガリア帝国の首都であった。このため大主教座が置かれ、現在でもマケドニア正教会の大主教座が置かれている。
 1980年、オフリドとオフリド湖はともに
UNESCO世界遺産に登録された。

チーズたっぷりの野菜サラダ

マケドニア郷土料理

民族舞踊サービス

オフリド旧市街の地図

オフリド湖

広場

オフリドの街は石畳みやレンガ敷き

旧市街

オフリド湖

出窓が道路側に大きくはみ出す伝統建築

遺跡の上に住宅街

聖ソフィア大聖堂

桜もどき

タンポポ

梅だろうか?

ローマ劇場の遺跡と新興住宅

ニャンとも素敵な遺跡だにゃ〜

イコン博物館

聖クリメント教会

サミュエル要塞

10〜11世紀、オフリドが首都の頃の要塞

要塞の上を歩く。下はオフリド湖

街から要塞までは結構な坂道、地元の若者がハイキングか?

要塞前の民芸品売場

要塞からのオフリド湖を眺める。はるか彼方はマケドニアの最高峰コラブ山(2,764m)が雪に覆われている

動画・・・「サミュエル要塞」からオフリドを見る

赤い屋根、白い壁、中世の趣が素晴らしい。街中の樹木が一斉に咲きほころぶ

聖ヨハネ・カネヨ教会

絵になる、聖ヨハネ・カネヨ教会

動画・・・「聖ヨハネ・カネヨ教会」

聖ヨハネ・カネヨ教会から湖岸を見る

湖岸から聖ヨハネ・カネヨ教会を見上げる

シダレ柳と聖ヨハネ・カネヨ教会

オフリド湖岸の散策路

湖岸の絶壁に咲く花

絵になる風景

湖岸のレストランでランチ・タイム

日本人が多い

先ずはスープ、そして赤ワインが美味い

「ムチュカリッツァ野菜ソースの肉煮込み」、ポテトが美味しいね〜


      ☆ 元は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」の1国

 (旧)ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の当時の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアとなっている。

 第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビアの社会主義国家。ヨシップ・ブロズ・チトーの指導の下、ユーゴスラビアは冷戦下において中立政策を維持し、第1回非同盟諸国首脳会議の開催国となるなど、非同盟諸国のなかで中核的な役割を果たした。

 チトー亡き後、ユーゴスラビア連邦は解体へと進み、ユーゴスラビアからの離脱や新しい国の枠組みをめぐって異民族に対する憎悪が噴出し、大規模な暴力を伴う一連のユーゴスラビア紛争へと発展し、1992年解体した。

  

 旅を終えて・・・

 複合世界遺産のオフリド湖が素晴らしい。世界最古の湖と言われ、その湖水はマケドニアから、西の隣国アルバニアを通り、世界一美しいアドリア湾に流れている。
 今回の旅は、そのアドリア海までの道のりを辿ることになった。

 湖水の突端の岬に建つ、「聖ヨハネ・カネヨ教会」は周囲の景色と合わせ、その美しさに訪れる皆が絶句すると言う。

 「ヨーロッパの火薬庫」と言われた(旧)ユーゴスラビア時代の面影は今はない。
こんな美しい自然があるのに、何故人間は戦争をするのか・・・アレキサンダー大王の大昔から、破壊と建設を何度と経験してきている。
 人間のエゴがそうさせるのか、同じ神をいただくキリスト教やイスラム教が先頭に立って争いをしてきている。
 ここオフリドのキリスト教の教会やイスラム教のモスクも相手の建物を破壊しては、自分たちの建物をそこに建てる。

 これからも宗教戦争は続きそうだ。人間を救うと思われる宗教が、実は人間を犠牲にしている。考えさせられる永遠の課題である。

                                             おわり

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