モンテネグロ 紀行

コトルの要塞 : 世界遺産

 旅の初めに・・・

 2012年4月、バルカン半島一周の旅にモンテネグロを計画した、

 アルバニアからモンテネグロへ、そしてアドリア海に沿ってクロアチアのドブロヴニクに至る、アドリア海は世界の湾の中でも最も景観の素晴らしい所である。

 春の木々が一斉に芽吹くこの季節を選んで、後は天候の良いことを念願して出発する。

  

     ☆ワンポイント情報

 ・国名    モンテネグロ         ・民族   モンテネグロ人40%、セルビア人30%他     
 ・面積    福島県と同じ         ・宗教   セルビア正教70%、イスラム教、キリスト教
 ・人口    62万人             ・言語   モンテネグロ語
 ・首都    ポドゴリツァ(人口13万人) ・産業   観光(モンテネグロを訪れる観光客数は年間100万人)、アルミ

      ☆ モンテネグロとは?

 2006年に独立したモンテネグロは、人口わずかに62万人、面積も福島県と同じくらいという、文字どおりの小国だ。しかし、狭い国土の中に国立公園を4つ、293kmにわたる海岸線のうちの73kmはビーチであるなど、魅力的な観光資源に富んだ小国といえるだろう。

 国名のモンテネグロは、黒い山を意味するイタリア語のヴェネツィア方言。現地ではツルナ・ゴーラというが、意味は同じ。黒い山とは、アドリア海沿いにそびえる山々に木が生い茂り、黒く見えたからだといわれており、豊かな自然を誇る国にふさわしい。

アルバニアとモンテネグロの国境

モンテネグロに入るや街は一変、街並が整理され綺麗

山は、白い岩がゴロゴロ

農村は名の花が満開

国境の山から、海沿いの町に降りてくる

住宅も道路も整然としている


       ☆バール

バール鉄道の終点

アドリア海に面する漁港とヨット・ハーバー

 バールはモンテネグロの町で、アドリア海沿岸に位置する重要な港湾都市である。人口4万人。

 バール鉄道はこのバールと、セルビアの首都ベオグラードの476kmをつないでいる。

 夏の期間の観光客に頼る他のモンテネグロのアドリア海沿岸の町と異なり、鉄道とバール港はバールにとり年間を通じてより多くの経済的な活動を与えている。

 食品産業ではプリモルカ “Primorka” がバールで50年以上にわたりオリーブ油や良く知られたザクロジュースを製造している。バール自治体内には95,000のオリーブの木と80,000の柑橘類の木が栽培されている

アドリア海を眺めてのランチ・タイム

シーフード・スープ

ニェゴシュステーキ

デザート


       ☆ブドヴァ

 モンテネグロ観光の中心地で、2007年夏季の観光シーズンにはおよそ330,000人の観光客が訪れた人気の地である。11km以上ある海岸線には良質の砂浜が何カ所もある。
 若者に人気のある夜遊びの町でもあり、日付が変わってもオープン・エアのクラブで騒ぐことは珍しくない。

街並

旧市街


      ☆スベティ・ステファン

 スべティ・ステファン島は15世紀から漁村として栄えた島。常緑樹の緑の中に重厚な石造りの建物が建つ様は昔と今もほとんど変わりがない。

 1950年代に最後の島民がこの島から出て行ってからこの島の内部は2度の変貌を遂げている。
まず、島民がいなくなった後、島全体がホテルとして生まれ変わり、世界のセレブ達に愛される島となる。本島とつながる1本の道が唯一の島への入口であるというプライバシーが受けて、特に有名人の間で人気を博した。

 そして2009年、アマンリゾートがこの島を委託されスヴェティ・ステファン島は再度生まれ変わることとなった。

アドリア海に面したリゾート地


         ☆ 元は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」の1国

 (旧)ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の当時の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアモンテネグロマケドニアとなっている。

        


      ☆ コトル

 人口19,000人。古代ローマ期を通してローマの属州であり、要塞都市として建築された。

 南ヨーロッパで最も深い入り江の奥に位置し、背後を険しい山に守られた町。世界遺産

 城壁に囲まれたコトルの町は、古来、様々な国に支配されながらも自治を守って繁栄してきた。
 石畳の路地沿いには、12世紀から14世紀ごろに建てられた建物が立ち並び、まるで時が止まっているかのようである。
 特に目立つのは、教会。 コトルは、カトリックとギリシャ正教会の文化圏が重なっており、双方の教会が数多く存在する。海運が栄えたコトル湾沿岸では、スラブ諸国で初めての航海士の学校も作られた。
 

ヨット・ハーバー

城壁と山の上には要塞

景観が良い城壁

山の上に要塞

古代ローマ時代の要塞と城壁

城壁の門

城壁内の旧市街

聖トリプソン大聖堂はローマ・カトリック

聖ルカ教会

城壁内から山の上の要塞へは馬が荷を運ぶ

コトルの旧市街で結婚式を挙げたカップルは、観光客に祝福されニッコニコ!

               


           ☆コトル湾(カメナリ→レべタン)

モンテネグロからクロアチアのドブロヴニクには湾をフェリーで行く

ショートカットし、10分で対岸へ

  ☆ 歴 史

年  代

出来事

年  代

出来事

 ~10世紀 モンテネグロ人イリュリア人との混血)は、ドュクリャ公国という半独立の国を形成していた。 第二次世界大戦(1939年〜1945年)イタリアの占領下に置かれ、傀儡国家モンテネグロ王国の統治下に置かれた。
 1516年ツェティニェ家による神政政治が確立した。これがモンテネグロが独自に持った最初の国家形態。 1944年ナチス・ドイツとともにイタリアが破れ、再びユーゴスラビアに復帰した。
 1852年世俗的な公へと転化し、モンテネグロ公国が成立した。これを契機として宗主国オスマンとの武力衝突に発展し、ロシア帝国の支援を仰ぐことになった。 1963年〜 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国においては連邦を構成する6つの共和国の一つモンテネグロ社会主義共和国として存続した。
 1878年オスマン帝国からの完全な独立を承認された。 1991年セルビアと歩調を合わせており、最後までユーゴスラビア連邦共和国から離脱しなかった
 1905年国号はモンテネグロ王国になり、ロシアとの協調を対外関係の機軸とした。 1999年〜 コソボ紛争後、通貨や関税に関してセルビアから独立し、徐々に独立の動きが強まっていった。
 第一次世界大戦1914年から1918年オーストリア・ハンガリー帝国に占領されることになり、その後セルビア軍によって占領された。 2006年モンテネグロの独立。6つの共和国から構成されていたユーゴスラビア社会主義連邦共和国は完全に解体した。
 1918年セルビア・クロアチア・スロベニア王国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれた。 2006年国際連合に加盟した。


 旅の終わりに・・・

 モンテネグロにバスが入るや景色は一変し、終始アドリア海に沿っての美しい景色が続いた。
いくら眺めても飽きない海の青、そして古代からの建物。建物の屋根は判で押したように赤い屋根、壁は白や灰色が多い。色彩が空の青や海の青さにマッチしているのだ。

 今やイタリア半島をしのぐほどの、モンテネグロ、クロアチアのアドリア海に面した観光地。素晴らしいの一語に尽きた。

                                                        終わり


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