ミャンマー紀行

           

パオ族の民族衣装を着た現地ガイド、後方は2500の仏塔

 旅の初めに・・・

 2013年1月、民主化になりつつあると言うミャンマーを計画。

 スーチーさんは軍事政権の傀儡と言われる大統領と如何に対応しているのか。また国民はどのような反応なのかが気になるところ。

 また世界の三大仏教遺跡とも言われる、バガンの遺跡群にも興味をひかれる。

           

           

 ワンポイント情報

 ・国名    ミャンマー連邦共和国           ・民族    ビルマ族(70%)    
 ・面積    日本の1.8倍                 ・言語    ミャンマー語
 ・人口    6,300万人                   ・宗教    仏教(90%)
 ・首都    ネビードー (人口93万人)         ・産業    農業
 ・識字率   92.0%
  ☆一般観光客は2013年1月現在、首都ネピードへの観光は許可されていない。

           

   ☆出発

成田〜ソウル〜ヤンゴンへ12時間

大韓航空を利用

人気の機内食ビビンバは出なかった


     ☆国内線(ヤンゴン〜ニャウンウー)

国内線はプロペラ機

遺跡の観光地バガンの玄関口ニャウンウーへ

たった1時間のフライトだが軽食サービス


     ☆到着 (ニャウンウー)

 ミャンマーの仏教遺跡として著名バガン近郊にある町であり、ミャンマー各地と交通網で結ばれた空港や長距離バスのターミナルが存在する。ニューバガンとともに、バガン観光の拠点となる町である。

 仏教遺跡が集中するオールドバガン地区には、ミャンマー政府の方針により、宿泊施設がほとんど存在しない。旅行者はオールドバガンの北東にあるニャウンウーか、南にあるニューバガンに滞在することが多い。

ニャウンウーに到着

ミャンマーの文字が見えてきた

空港にはバガン、ニャウンウーの看板

仏教国ゆえ空港の造りは寺院風

管制塔もユニーク

ようこそバガンへ

現地ガイドのソウさんは民族衣装で現れる

坊さんも多い

 ミャンマーのお国事情・・・

 ガイドのソンさんは50代後半、ガイドをしてから30年程度とか。二人の息子のうち、長男もガイドをしているそうだ。
  いずれも大学を卒業していて、ミャンマーではエリートである。国民の1割しか大学には行けないそうだ。例え卒業しても
  民主化前では勤める所が無く、外国に出稼ぎしかなかったそうだ。

 僧侶ミャンマーでは非常に多い。国民の10%以上、500万人程度が僧侶である。男性はもちろん、尼僧も多いが
  男女の子供も大変多い。
  ミャンマーでは、男子は一生に一度は出家得度して修行するのが不文律となっているとも言う。

  ミャンマーの仏教は、戒律がそれほど厳しくない日本とは違い、上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)・旧名称<小乗仏教>
  で厳しい。
 
  自分がお坊さんになろうとしたら、家を離れることはもちろん、妻帯も男女の交わりも経済活動も生産も、ほとんどのものを
  放棄しなければならない。食べ物でさえ托鉢によって得たものしか食べられない。

  1日の食事は2回のみ。早朝と午前10時半頃、午後は水以外一切口には出来ない。だから翌朝まで18時間程度喰わずに
  修業することになる。

  では何故厳しい僧侶になるのか? 軍事政権が長く、民主化が遅く企業が育たなかったので、農業か軍隊に入るしか
  選択肢が無く、必然的に僧侶が多くなったそうだ。

  何よりミャンマーの国民は信仰心が厚い。「お金が出来たら、まずお寺に寄付をする」と云うのが一般の国民性である。

           

       ☆ニャウンウーの街並

ミャンマーは馬より牛車が多い

ヤシの葉で作った屋根の店

土木作業員は女性が半数近い

ヤシ科のシュロの木が多い

           

     ☆シュロの黒砂糖と酒造りをする村

 その村はシュロの葉っぱや竹などで店を造り、シュロの木から取れるものを売って生活している。
 彼らは毎朝早くシュロの木に登り(その辺に住んでいる男性は誰でも登れる)、枝のようなものから出る樹液を取る。その液体は日差しが強くならないうちに取ると、甘いジュースのような味だが、日差しが段々強くなってくるにつれ、 甘酸っぱくなり、夕方になると苦くてお酒のような味になる。それを飲むと酔っ払うので、現地ではシュロの酒と呼ぶ。

シュロの木で囲まれたお店

これがシュロ(ヤシ科)

ヤシの実

この牛は、ピーナッツをすりつぶして、油をとるために、ぐるぐるとまわっている

ミャンマーの牛はコブが大きい、このコブにひっかけて運搬

目が優しく可愛い

牛でひいたピーナッツを更に細かくしてお菓子に

シュロの樹液を毎日取る

簡易梯子でするすると登る

樹液

つぶしたピーナッツを煮て固める

ピーナッツ菓子の出来上がり、甘い

シュロの葉で細工物。何でも商売になる

シュロの残り粕で造った酒は42度、泡盛の様

ミャンマーの女性が好む化粧品で「タナカ」と云う木、水で樹液を取り顔に塗る。日焼け防止とオシャレ

タナカを塗った女性。ミャンマーでは殆どの人が利用している。美人の証しらしい

ひたい、頬、鼻に塗るのが多い。男性も利用

中心にある茶を発酵させたものや、シュロの木のお菓子、そしてナッツ類を食後に好んでよく食べる

           

     ☆街並

本日のバスは「JRバス関東」ミャンマーの車は90%が日本の中古車。韓国や中国の新車より高いが丈夫で長持ち

お店の前で井戸端会議?

大小の仏塔が多い

お坊さんも多い。後ろにはステンレス製の弁当箱

気温30度、花も多い

           

    ☆ポッパ山

 ポッパ山は、ミャンマーマンダレー管区にある玄武岩の火山(標高1518m)で、バガン南東の平原に位置する。 寄生火山岩頸であるタウン・カラッ(標高737m)にはミャンマーの土着信仰である精霊ナッ信仰の総本山があり、多くの参拝客を集める。登山道には多くのみやげ物店があり、またが多く生息している。

    ☆タウンカラッ (ミャンマー精霊信仰の聖地)

 タウン・カラッは、、土着信仰のナッ神信仰の総本山である。狭い山頂には、パゴダ、塔、礼拝施設がひしめき合っている。

ミャンマーの土着宗教の聖地。頂上まで20分

塔や礼拝施設が多数

毎日礼拝する人も多いとか

訳のわからない石や木を売るお姉ちゃんたち。懸命に生きている

オレンジ売り。しつこくないが目で訴える

フクロウなのかな〜

お店や食堂も多い

ポッパ山

回廊には無数の神様?仏様?

権威ありそう

何十人いるのだろうか?

サルが多く、観光客の食べ物を取っていく

僧侶も多い

上まで上がるには息が切れる

ゲタ箱

ミャンマーの宗教施設は全て裸足が決まり

足の裏は真っ黒、殆ど掃除をしていないのか?

もうすぐ!

頂上に着いたッ!

階段には屋根が

食堂と云うより屋台、観光客は必ず腹を壊すらしい

可憐な花

頂上全景

         

     ☆ランチ・タイム

ビルマの竪琴ではない

水を入れたコップを逆さまにして中に花

先ずはミャンマー・ビールで乾杯

ミャンマー料理は非常に旨い

野菜が毎回出てくる

パスタ

エビ料理

肉料理

デザートは毎回新鮮果物

バスの入口「出入口」の看板

ホテルの門

ミャンマーのホテルは設備が良い

入口

プールがあるから4つ星以上?

           

      ☆バガンの遺跡群

 カンボジアアンコール・ワットインドネシアボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつと称されており、イラワジ川中流域の東岸の平野部一帯に、大小さまざまな仏教遺跡が林立している。

 バガンとは広くこの遺跡群の存在する地域を指し、ミャンマー屈指の仏教聖地である。その一部の城壁に囲まれたオールドバガンは考古学保護区に指定されている。

 点在するパゴダや寺院のほとんどは11世紀から13世紀に建てられたもので、大きいものや小さいもの、鮮やかな白色をしたものや赤茶色をしたものがある。広さは40K?で沖縄県と同じ広さである。仏塔の数は3000を超えるといわれている。

仏教遺跡群をロバ車で回る

馬車での遺跡内移動は快適

仏塔の数は大小3000もあるらしい

1000年の歴史がある仏塔

道路の両脇に遺跡が並ぶ

           

    ☆シュエサンドー・パゴダ(仏陀の遺髪が納められている)

 初代 アノーヤター王が1057年に建立したシュエサンドー・パゴダ。
 この寺院にはお釈迦様の整髪が安置されてあると言われている。シュエサンドーは5つの階からなって登る事が出来る。

 観光客はここのテラスから眺める夕日・朝日が非常に綺麗だとして、人気のスポットである。しかし、階段が急であるので細心の注意が必要である。カンボジアの遺跡のように上から落ちて亡くなる人が出ると、登ることが禁止になるかもしれない。
 

バガンにはヤギも放牧、長閑である

シュエサンドー・パゴダのテラスには多数が

絵葉書売りの少女。この国の人達は笑顔が良い

65mの高さ

大汗をかいて上まで登る

1000年の歴史

全景

           

 バガンの世界遺産登録は失敗!

 ミャンマー政府の、バガンをユネスコ世界遺産として登録しようとする試みは失敗に終わった。
 これは
国家平和発展評議会 (軍事政権)が、元来の建築様式を無視し、元のものとは似つかない近代的な建材を使用し、無計画に遺跡のストゥーパ、寺院、建造物を修復してしまい、また軍事政権がゴルフコース、舗装された高速道路を建設したり、南西のMinnanthu近郊には高さ61mの展望台を建ててしまったためである。

           

5層のテラス、靴も靴下も脱いで。ミャンマーの寺院は全て裸足で。足の裏が痛い

動画・・・シュエサンドー・パゴダのテラスから見るバガンの遺跡群

花と遺跡

日が沈む。遠くにも遺跡が多数

           

     ☆ディナー

ビールはマンダレー

竹の籠にパン

前菜

ミャンマー伝統の人形劇が行われていた

スープはカレー風味

肉料理

デザートは果物

遺跡の夜景

           

       ☆遺跡の朝日

朝靄が遺跡を包む幻想的景色

朝日が登る

シュエサンドー・パゴダのテラスから見る朝日。およそ100人の観光客が固唾をのんで見守る

朝日の横を気球が登る。観光用、1回1万円


ニャウンウーの朝

観光用貸出自転車

屋台で朝食の市民

           

    ☆ニャウンウーの市場

野菜売り場

干し魚

ナスは緑色

周辺で一番大きな市場

魚は川魚が多い

鶏肉

ヤギの肉

葉巻

嗜好品キンマの葉、ガムのように噛む

洋服屋

民芸品

モモ

           

    ☆シュエジーゴン・パゴダ(バガンを代表する黄金の仏塔)

        
 1059年パガン朝アノヤター王が建設に着手し、1090年に次代の王キャンシッター王が完成させた仏塔。
 バガンの仏塔で一番綺麗な仏舎利塔と言われている。バガンには砂岩で造ったパゴダが4つあるが、シュエジーゴンパゴダはその内の一つ。

 仏塔の四隅にも黄金の小仏塔がある。

まばゆいばかりの黄金色

ここも裸足

僧侶が多い

仏塔の四隅にある小仏塔には高さ4mの仏像が

仏陀の額骨と歯が納められているとか

アーナンダ寺院と並んで、バガンを代表する寺院

穴にたまった水には寺院の塔が映る

細工が素晴らしい

托鉢から戻った坊さん

  ミャンマー仏教は上座部仏教(小乗仏教)・・・

    
                                      
 仏教には1.大乗仏教と 2.上座部仏教(小乗仏教)がある。  
                     釈迦の没後、約500年を経て仏教的な考えにより、大乗仏教(だいじょう)上座部仏教(じょうざぶ)に分かれた。                    


                    
 1.大乗仏教(だいじょうぶっきょう)とは 

 2.
の小乗仏教では修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われない。しかし、釈迦はすべての人々を救いたかったはずである、
 という思想のもとに誕生したのが大乗仏教である。大きな乗り物ですべての人々を救う事を目的としている事から大乗と云う。
 ★日本、中国、チベット、朝鮮半島などに伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしている。

 2.上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)・旧名称<小乗仏教>とは 

 
「乗」とは教えの事で、乗り物にたとえられ、小乗とは小さな乗り物である。なぜなら、出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけがさとりを開き救われる。
 したがって、修行をしたわずかな人が救われ、一般の人々は救われない。釈迦の没後の、長い間この思想が定着してきた。

  
 ★ 小乗仏教(小さな乗り物)という名称は、大乗仏教からつけた差別語なので、最近では「上座部仏教(じょうざぶ)」といわれている。 
 ★ ミャンマー、スリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ビルマなど・・・

 上座部仏教(ミャンマー)では、出家しないと僧侶になれない。僧侶になると、10の(殺生、偸盗、淫行、妄語、飲酒、午後の食事、歌舞観聴、香油塗身、高く広い寝台に寝る、金銀の受領)と227の律を守らなければならない。戒律が厳しい仏教なのである。自分がお坊さんになろうとしたら、家を離れることはもちろん、妻帯も男女の交わりも経済活動も生産も、ほとんどのものを放棄しなければならない。食べ物でさえ托鉢によって得たものしか食べられない。そんな厳しいことを承知で出家するのだから、ミャンマーでは僧侶は格別に尊敬されている。
ミャンマーでは人口の13パーセントが僧侶だという。だから僧侶はものすごく多い。名簿はないが、500万人もいるという。

こんな小さなお坊さんまで托鉢、しかし中は空っぽ

托鉢の絵

          

     ☆ティーローミィンロー寺院 (バガンのイメージの象徴的建築)

 ミャンマー中央部、バガンにある仏教遺跡群の中で、最も大きな寺院

 高さ45mの伽藍の、形の切妻壁に施された石膏彫刻有名である。バガン王朝のナンダウンミャー王が、13世紀初め王位継承者に選ばれたことを記念して建てられたといわれている。

 ナンダウンミャーの父王は、王位継承者を選ぶ際に、5人の王子の中から、傘が倒れた方向に座っていたナンダウンミャーを王位継承者に選んだという言い伝えが残っている。

バガンで最も大きな寺院

ティーローミィンローと書かれている看板

高さ47m

表情の異なる4体の仏像

信者が絶え間ない

金箔で美しい

見事な数の民芸品

丁度この時期はお祭りが続く。牛にひかれて・・・

近隣から牛車に乗り家族総出で泊り込み、お参り

テント泊、食事はキャンプ、洗面器で沐浴

民芸品の仏画

駐車場には、日本のお下がり観光バス

           

        ☆アーナンダ寺院(バガンで最も美しい建築)

 バガンに数ある寺院でももっとも美しいといわれているのがこちら。
一辺63メートルの正方形をした本堂は、3層に重ねた正方形の上にさらに3層の基壇を乗せ、その上に黄金の仏塔がそびえる端正な佇まい。

 本堂には四方に入口があり、それぞれの奥に9.5メートルほどの仏陀の立像が安置されている。東西の2体は造り直されたものだが、南北2の2体は1091年の創建当時のもの。

高さ50mの塔のバランスが見事

4体の仏像が四方を向いている。1体

左の仏像のアップ

動画・・・アナンダ寺院の読経

2体

3体

4体

           

     ☆タビイニュー寺院(バガンの寺院で最も高い)

 高さ65メートルという、バガンの中でもっとも背の高い寺院。1140年にパガン朝のアラウンズィトゥ王によって建立された。2層構造の上に3段の基壇、そして塔が建っている。周囲には畑が広がっていて、収穫期を終えると牛やヤギが放牧されているなど、ミャンマーらしいのどかな風景が続いている。

無数とも思える仏塔。ひと際大きなタビイニュー寺院

1140年建立、65mの高さ

金で覆われた仏像

金網の向こう側の外では民芸品が所狭しと並べられていた


      ☆日本帝国、ビルマの戦い

 ビルマの戦いは、太平洋戦争大東亜戦争)の局面の1つ。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍ビルマ国民軍日本の指導下で「ビルマ国」の国軍として編成された軍事組織)・インド国民軍と、イギリス軍アメリカ軍中華民国国軍(台湾)とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。

 ビルマは19世紀以来イギリスが植民地支配していた。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍援蒋ルート日中戦争に於ける大日本帝国中華民国の対立の際、主にアメリカイギリスソ連が中華民国を軍事援助するための輸送路のこと)の遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蒋ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。

 日本人の戦没者は18万名に達した。勝利したイギリスとアメリカはそれぞれの目的を達成したが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失った。ビルマは1948年に独立を達成した。

 結局日本は2億ドル(720億円)の戦争賠償と5,000万ドル(180億円)の経済協力をビルマへ供与した。

 現在のミャンマーの国定教科書では、戦時下の日本をファシスト、イギリスを帝国主義者と記述しており、ミャンマー国にとってどちらも加害者であるという認識がある。

 しかし、一方でミャンマーの国民の一部がミャンマーが独立できたのは日本の協力のおかげであると感じていると言う。
それは日本の軍部の「南機関」である。
 大東亜戦争の始まる一年程前に、ビルマには「ビルマ独立三十人の志士」と呼ばれる青年達が居た。リーダーはアウンサン。軍事政権に反対して軟禁されていたスーチーさんのお父さんだ。これらの青年連は何とか祖国を独立させたいと思って、英国官憲の目を盗んでビルマを脱出し、日本の庇護を求めて来た。そして軍事訓練を受けたのである。この時期 には、「面田紋次」という日本名を名乗っていた。

 戦後、ビルマ政府は、南機関の鈴木敬司大佐以下七名の日本人に、独立の勲功をたたえる最高勲章である「アウンサン徽章」というのを贈った。そのくらいビルマは、日本を怨むどころか、独立は日本のお陰だと感謝している見方もあると言われている。

     ☆日本人戦没者慰霊碑

  

第二次世界大戦で、この地でも日本の尊い命が失われた

通称「弓」部隊と言われた

東南アジアの国には、この様な日本の慰霊碑が多い

7万人の犠牲者が眠る

こちらの僧侶が手厚く、維持・管理をしてくれている

 悲しい歴史 

 タピニュー寺院の境内にいくつかの慰霊碑が建てられている。
 ビルマに日本軍が最初に入るのは昭和17年1月19日、タイ南部である。その後1月30日には第33師団がサルウィン河畔に進出、3月7日第55師団がペグーを占領し、翌8日、第33師団がヤンゴンを無血占領する。

 33師団は中国戦線から、太平洋戦争開戦後、ビルマ戦線に投じられた部隊で「弓」の通称をもっている。
 後に無謀とも言える
インパール作戦に参加し、多くの犠牲者を出した。その多くは補給物資欠乏からくる病死や餓死で、生き残った兵士たちの手記はインパール作戦を企画した15軍牟田口廉也司令官に対する恨みに満ちたものが多い。
 バガンにも遺族や戦争参加者たちの慰霊碑が建てられていた。あの戦争から60年近い年月が過ぎたが、周囲はきれいに清掃されており、「慰霊」や「鎮魂」の文字も鮮明だった。

 無謀なインパール作戦

 1944(昭和19)年3月、太平洋戦線での敗勢を取り戻すため、ビルマ方面で攻勢をとり、インドに進攻しようとインパール作戦が始められた。

 この作戦は後方補給の計画が全くなく進攻する部隊は兵隊に背負えるだけの弾薬と食料を持たせ、その他に牛や山羊を歩く食糧として連れて行かせるという近代戦とは思えない構想であった。
 国境を越えた日本軍は、圧倒的な制空権のもとに反撃する英軍に阻止され、インパール目前に弾薬と食糧が欠乏し、参加3師団とも師団長が途中で罷免されるという異常事態の中7月に中止命令が出された。

 作戦参加兵力10万のうち7万余が犠牲となったが、その多くは栄養失調死であった。

 イギリスが航空機やグライダーを物資補給にもっぱら使ったのと対照的に、日本兵は3週間分の食糧・武器などを自分自身で携行、40〜50kgの重さを背負いながらの道なき道の進軍は、信じがたいものがある。

 まして、それ以後の補給がほとんど皆無の状態で、密林地帯で4ヶ月にわたって戦闘を行った人たちは脅威であると語り継がれている。

 無謀な作戦代名詞として現代でもしばしば引用されている。

           

  ☆ランチタイム

ミャンマーの中央を流れるエーヤワディー川の近く

エーヤワディー川を見ながらランチタイム

ミャンマーの食事は素晴らしく美味しい

途上国で何日も食事をすると油等で下痢が多いが、ここは安心

味付けが日本人にピッタリと言われる

仏教国ゆえ禁止の食材はない。

托鉢ゆえに、僧侶は食べ物を選ばないと言う

フルーツがとにかく新鮮

          

     ☆ミャンマーの伝統工芸 漆工房

 

 ミャンマー最大の漆器の産地・バガンにて漆器工房を訪問。
 竹と馬の毛の網み細工に何層にも漆を重ねた器や、嗜好品キンマの葉を入れる金箔絵入りの漆器が作られている。

今日のバスは福岡鉄道「福鉄」

漆工房見学

「南いわて観光」のバスも来ていた。愛嬌があります

手が器用な国民性

見ていると惚れ惚れする

真面目な国民性

男も女も真剣

立派な出来栄え

お茶や茶菓子までサービス。誰か買ったのかな?

          

       ☆パヤトンズ寺院(3つの仏塔が並ぶ)

 パヤトンズという名前の意味は「3つのパゴダ」という意味を表す。パヤーは仏塔をもつ寺院を指す言葉で、トンズは3を意味する。この寺院は王妃の寄進によるもの。
 建てられた時期は13世紀の後半にあたり、この時代はモンゴルによるバガンへの侵攻があったため、パヤトンズは完成を見ることがなかったとされている。
 

この地もモンゴルに攻められ完成しなかった

パヤトンズの看板

800年の歴史が刻まれている

物売りのお母さん、子供まで売るの? と冗談!

           

   ☆ナンパヤー寺院(ヒンドゥー教寺院)

 ナンパヤー寺院は、バガン遺跡の南にあるミンカバ村にあるヒンドゥー教寺院。
 1060年から1070年頃に建築されたモン様式の寺院で、パガンのアノーヤター王に攻められ捕虜となって、バガンに暮らしたモン族の王であったマヌーハ王の住居だったと伝えられ、モルタルと石材およびレンガで出来ている。

ヒンドゥー教寺院ゆえ修復されなかった為、幸い昔のまま現存

入口から内部を見る

バガンでは珍しい壁画が残る

          

   ☆マヌーハ寺院(囚われの王が建てた寺院)

  パガン朝の創設者アノーヤター王はミャンマー南部のタトゥンにいたモン人の王マヌーハを連行し、この地に幽閉した。マヌーハは後に許され、寺院を建てた(1059年)。これが、マヌーハ寺院の起源。

 

マヌーハ王が過去に捕虜となっていたためか、囚われの身の鬱屈した気持ちが随所に表れていると言う

マヌーハの看板

庭にある置物

3体の一つ

近くで見ると怒っているかのようだが、離れると笑って見える

内部には3体の座像と1体の寝仏

どれも空間いっぱいに造られており、窮屈そう

囚われの時期を表しているのだろう

寝仏も窮屈そう

カプセルホテルみたいに狭そう

顔は穏やかそうだが、何か訴えるような目

           

    ☆バガンのホテル界隈

ホテルの庭は百花繚乱

すみれ?じゃないよね

かんなに似てそう

ホテルの裏のエーヤワディー川は全長2,170km。
       北海道〜鹿児島(1888m)より長い

ヒマラヤ山脈の南端を源泉として、ミャンマーを北から南に縦断。
夕日が素晴らしい

           

   ☆バガンのディナー

人形劇で有名なレストラン、その名は「ナンダ」

この様な舞台が複数、大きなレストラン

ビールのおつまみは揚げ物

スープ

日本の弁当箱を円くしたよう。手前の笹の葉にライスを取り、おかずをトッピングして


     ☆ミャンマーの伝統人形劇

 王族から庶民にまで広く愛されたミャンマーの華麗なる伝統芸能「ヨウッテー・ポエー」は、18〜19世紀、王侯貴族から庶民まで、多くの人たちから熱狂的に愛された人形芝居である。

 十数本におよぶ糸でたくみに操られる、きらびやかな人形たち・・・。繊細でリズミカルな人形の動きに音楽が合わさり、さながら「人形オペラ」のような華麗な舞台が展開する。

デザート

外国公演もあると言う

最後は裏方披露

           

   ☆バガン→ヘーホー

ホテルの朝食で、ヌードルが一番人気

国内線に乗る時はシールを胸に

搭乗券は手書き、まだコンピュータが不足のよう

プロペラ機から見るバガン上空

エーヤワディー川と、バガンの遺跡があちこちに見える

目では見えないが、カメラに撮るとプロペラが映る

ミャンマーの農村地帯

ミャンマーのスッチーさんは優しそう

           

   ☆ヘーホー

 インレー湖観光の玄関口であるヘーホー空港はミャンマー国内にて現在2番目に離発着が多い空港である。

ヘーホー空港

国内線はプロペラ機、有視界出なければ飛べない

ポーターは荷車を使う

空港遠景

ひしめきあう駐車場

バスは日本の中古車、格安でODA(政府開発援助)より輸入

荷物を運ぶポーター

飛行機の中でも尼僧さんが多かった

尼僧さんは頭を剃っている

ヘーホーの海抜は1085m、涼しい

日本の大型バスは韓国、中国のと違い乗り心地抜群

田園風景が広がる

街路樹も綺麗

           

     ☆パオ族の現地ガイド

 パオ族はミャンマー全国の色々な地域に住んでおり全国で4、5万人以上いると言われる。

 パオ族が住んでいる地域は海抜が高い(1600m)ので夏は涼しく、乾期は寒い毎日。乾期の朝晩の気温は5度ぐらいまで下がる。

 貧しいので、竹で造る家が多く、乾期になるととても寒いので、どの家も寒さ対策のため窓を小さく又は窓の数を少なくして造っている。主な職業は農業。ニンニクや葉巻の葉っぱなどを栽培している。

 パオ族は竜の母親と、超人の父親から生まれて来たという伝説があり、今でも疑わずに信じ続けているそうだ。

 衣装は黒又は紺の地味な色だが、頭には色鮮やかなタオルを巻く。衣装は何枚か重ねて着る。まずは足巻きを巻き、その上から膝ぐらいの長さの腰巻を着る。半袖のブラウスワンピースとその上は長袖の上着をきる。重ね着は母親のウロコを表していると言われており、タオルの巻き方は男女で意味が違う。男性の巻き方は超人の頭を表し、女性は竜の頭の形をしていると言われている。

 ようやく2000年頃から一般の観光客も行けるようになった、知られざるパオ族が住む地域。今、観光シーズンになると国内外の観光客で賑わっている。

 そのパオ族のガイドは地元の大学生。慎重150cm程度で小柄な可愛い子達。観光客に大人気でモテモテ。

竜の形をした頭

ミャンマー独特のオシャレ「タナカ」を顔に塗っている

まだ二十歳の大学生アルバイトガイドはウーちゃん
英語堪能。来年は日本語もマスターしておきますと言う

左の子も大学生でアシスタントガイドのモモエちゃん

中高年のオバちゃん観光客達は中を見せて!とついにタオルをはぎ取る

パオ族の住む地帯をバスは行く。スイカ販売

ニンニクが主産業

稲刈りの後

市場は周に1度

竹の家、寒いので窓は小さく少ない

貧しいので殆どが竹

村には竹林が多い

この竹を加工して家の材料とする

ニンニク畑。乾季は土の部分を水路にして水をまく

           

    ☆ランチ・タイム

カックー遺跡前のレストランには、托鉢の絵

ミャンマーには500万人のお坊さん

食事は朝と昼のみ。全て托鉢で恵まれる

お坊さんとは違い、観光客は3度も豪華な食事

ミャンマーはご飯とカレーが多い

常に4〜5品が食卓に並ぶ

マンゴーのジュースは人気!

スイカは抜群に甘い

天井の飾りは日本風提灯

パオ族の男性

テーブルと椅子も竹

           

        ☆カックー遺跡

 カックー遺跡は、インレー湖の東側の山を越えたところの高原にあり、パオ族(チベットから南下してミャンマーに住み着いた少数民族)の支配地域にある。
 紀元前に建てられたパゴダ(仏陀の遺品を収納した仏塔)の周りに、12世紀になってこの辺りの支配者が各家庭にストゥーパ(仏陀の遺品を収納していない仏塔)を寄進させたため、1カ所に約2500のストゥーパが林立するという珍しい光景が出現した。

2500もの仏塔の丘。目を見張る異様さ

パオ族のガイドの説明で回る

各家庭から寄付された仏塔

仏塔の中には仏陀

池に映る仏塔

またお出で下さいとお別れを言う

          

       ☆シュエヤンウエ僧院(木造僧院)

 ニャウンシュエ市街から1km。

 19世紀に建てられた木造の僧院は地元の拠り所か。200年の歴史を感ずる。

 

19世紀に建てられたという木造の僧院

仏陀が見守る

一心不乱に勤めをするお坊さん

屋根がユニーク

 隣にある仏塔の回廊の壁のくぼみには、小さな仏像が納められている

           

    ☆インレー湖

 ミャンマー中東部のシャン高原にある、南北22km、東西12kmの細長い形の湖。標高1300m。
 
水深平均3mほどと浅く、水上住居を建てて暮らすインダー族の村や、水草湖底の泥で作られた湖上の浮畑などの珍しい光景を見ることができる。 インダー族の村は18、浮島は80を超える。

 また、この村周辺では5日に1度、水上マーケットが開かれている。
 ◇
インレー観光基点となるのはニャウンシュエで、観光客はここでモーターボートをチャーターするのが一般的である。
 町の
西側にある運河を南へ下るとインレー湖に出ることができる。
 湖上では、長い木の櫂を足を使って操る
独特な舟の漕ぎ方で漁を行う人々や、チーク材を使って水上に作られた古い宮殿や、水上の寺院「ファウンドーウーパゴダ」などを訪れることができる。

バスを降り、小さなボートに4人ずつ乗る

水上ホテルまで30分

港には下呂温泉のバスが。皆が笑ってしまう

川の両岸には水上家屋

日本のヤマハ・モーターはまだのよう

動画・・・インレー湖へボートで向かう

インレー湖の漁業の特徴は片足で櫓を漕ぐ。両手で網を操作するのに便利なためらしい

夕日が美しい

インレー湖の水草

今夜のホテルは「ミャンマー・トレジャー・リゾート」

両手で網の操作、片足で櫓をこぐ、お見事

動画・・・インレー湖の片足漁

           

浮島を作る

浮島に家

ホテルも浮島

インレー湖の上を飛ぶ渡り鳥

浮島のホテルは無数の柱

正面入り口

おしぼりサービス

「ミャンマー・トレジャー・リゾート」が本日のホテル

ウエルカム・ティーのサービス

80室もある水上ホテル

王侯貴族の部屋の様

バスと洗面所

夜はキャンプ・ファイャー

夕食はビュツフェ・スタイル

ビールもワインもミャンマーで製造

おやすみなさい〜

夜は寒いからと、スタッフが湯たんぽサービス

水上のコテージ風

水上の上なので沈まないかと不安?

畑まである

焚き火でくつろぐスタッフ

写真サービスのスタッフ

動画・・・インレー湖のホテル

レストランのスタッフ

玉子料理のスタッフ

トッピングで目玉焼き、玉子焼き、オムレツは如何〜

カモメが写真サービス!

内陸なのに多数のカモメ

蓮の葉

ホテルの側は浅瀬なので、モーターは使えず少年が足で櫓を漕ぐ

本日は別な水上ホテル

「パラダイス・インレーリゾート」に荷を置いて

動画・・・インレー湖の片足漕ぎ

           

        ☆インディン遺跡

 インディン遺跡はパウンドウーパゴダの 西、舟で約30分かかるインディン村にある。インディンパゴダは仏陀の死後200年頃に建てられた。
 その後、パガン王朝 を築いたアノヤタ王を始め多くの王様に修復 され、現在の形になった。

 パゴダの数は1054個あり、入口からパゴダま での参道の柱は403本ある。 船着き場から参道の入口まで歩いて約10分か かるが周辺にはのどやかな田園風景が広 がる。

インレー湖を遡上

皮を更に遡上

村には生活の簡易橋

水上レストラン

朝のマーケットが立ち並ぶ

周辺の村から品々を持ち寄る

たくましい

広場の近くの川

沐浴する女性

徐々に増えてきた

子犬も橋の上から、川に入りたそう

牛までやって来た

アララッ!牛まで沐浴

あ〜さっぱりした

子犬はミルクのお時間

Tシャツのスーチーさんも笑っている

           

仏陀も商売の道具

人形劇の人形も民芸品に

托鉢のお坊さんも民芸品

遺跡には1054ものバゴダ

遺跡より民芸品が人気?

金箔の仏陀

           

    ☆パラウン族の工房  

 首長で有名なバラウン族は、首に金や銅、真鍮などでできた螺旋状の首飾りをつけており、世界的に有名な少数民族である。

首輪はオシャレの一つ

水曜日に生まれた子が首輪をする

貞操説もある

ライオンに噛まれないようとの説も

かなり重い

           

観光客の船に近づく物売りの小船

紙を作り模様を入れ民芸品に

提灯も作る

傘も作る

扇子も、日本と変わらない

色とりどりの傘

マスコット赤ちゃんは人気者

沢山の紙を作る

紙作成の木を運び

皮を煮て

水でこして

          

   ☆水上レストラン 

レストランは水上

ビールのつまみ

野菜天ぷら

ヌードル・スープ

川魚

チャーハン

野菜炒め

何かの葉っぱ

カレー風煮込み

欧米人が多い

           

    ☆ファウンドーウー・パゴダ(5体の仏像が祀られている)

 インレー湖周辺最大の聖地ファウンドーウー・パゴダは、湖の真ん中だった場所を埋め立てて(材料は湖底から引き揚げた水草)その上に造られた寺院。

水草を埋め立てた上に建つ僧院

カモメも信者?

沢山のお坊さん

金箔1枚1ドルで買い、仏像にはる。円くなってしまった

女性は台座に近づけない

金箔を貼る事で、願いが叶うと言う

金箔より桜は綺麗

           

      ☆蓮の織物工房  

 蓮の茎から繊維をとり、織物をする工房を訪問。
 1本の茎から取れる繊維はほんの僅かで、ショール大の布で50万本の蓮が必要となるそう。

 そのため値段は高価となり、僧侶や仏像の衣装として利用されている。

入口

蓮の茎を折ると細い糸が

上手に糸を抜く

沢山の細い糸を束ねる

細い糸を合わせて1本の糸に

作業場

糸を色々の色に染める

糸で織って生地を作る

商品棚、マフラーでも1万円と高価

           

   ☆浮島の造り方

水草のホテイアオイは無数にあり増える

ホテイアオイ等が集まり島となる

家は最初に柱を沢山埋め込む

浮島も人工的に

トマトが一番多い

小船は住民の足

誰でも船を操る

トマト売りの船

トマト栽培のオバちゃんはお店に

美味しそうなトマト


       ☆インダー族の浮島

 インダー族がこの湖に住み始めた頃からの水上野菜栽培園で、浮いている島の上に栽培しているので、「浮島栽培」とも呼ばれている。浮島は80を数える。

 浮島の作り方は、最初に沢山の竹材を 編んで、筏のように作る。

 作った筏の上に根が付いたままの水草を置く。その上に泥、土を混ぜて乗せ、固める。又、筏が流されないように、長い竹の棒で、湖の底に固定させる。

 しばらく経つと、土も固まり、腐った水草が養分となり、野菜が栽培できるような状態になる。農作物としては野菜が最も多く、トマト、ナス、ゴーヤ、キュウリ、お花(仏像にお供えするもの)など。最も有名な野菜はトマト。そのトマトも赤いのもあるが緑のトマトも美味しいと言われる。

 この浮島農業は、水耕栽培とも考えられ当然養分は水中から取っていると思われる。世界でも稀な農業である。

 長さが3メートル、幅が1メートルぐらいの浮島は100万チャット(10万円)ぐらい。

水中から取った土砂を船で運ぶ

土砂はいくらでも取れる

この土砂を浮島に運ぶ

 

    

竹材で編んだ筏の上に水草をのせ、その上に土砂をのせて固めると立派な畑

作物を取りやすいように水路を作る

水耕栽培はミネラル分が多く美味しい

           

           ☆ガーペ僧院 (芸をする猫が旅行者に人気)

 湖上に建つ木造の僧院。そこに住みついた猫達がジャンプし、輪っこをピョンとくぐるのが人気であった。僧侶が座禅を組む際、腕の輪から逃げようとして飛ぶ事を覚えたのが始まりとか。
 ヒマだから僧侶が仕込んだという説もあるそうだ。しかし、その僧侶も無くなり、芸をさせる人はいなく、代わりに観光客がそれぞれ芸をさせて楽しんでいる。

インレー湖観光も目玉は、『お坊さんの掛け声で輪くぐりを見せてくれる猫がいる』、ジャンピング・キャット修道院、ことガーペー僧院。しかし、そのお坊さんは亡くなり、観光客がその代わりをしている。

いたツ!猫だ

この僧院は申し訳ないが仏陀よりネコ

意外と中は広い

観光客にモテモテのネコ

迷惑そうなネコ、食べ物も持って来ないの?と云いたそう

仏陀もあきらめ顔

何よッ! 近寄らないで

ネコ使いのお坊さんは亡くなったとか。だから観光客が代わりを務める。お義理でこの首の白いネコが遊んでくれた。偉い!あんたはネコ坊さんになれるよ。

動画・・・ネコのジャンプ芸

           

   ☆インレー湖のホテル

2日目のホテル。NHK放送OK,部屋には果物はある、水も無料、食事も旨い。ミャンマー大好き

長閑な水上ホテルでした。何より清潔なのが良い

           

   ☆再びヤンゴンへ

インレー湖から早朝に港の街へ。托鉢を見られた

小さな子供達も朝の食事をもらうため、裸足。右の男性が鍋からご飯だけを一人一人に分けている。

横浜からも団体で観光客が押し寄せたか?

動画・・・少年の托鉢(ミャンマー)

           

    ☆ヤンゴン(国内最大都市)

ヤンゴンの街

 ヤンゴン は、ミャンマー連邦の旧首都、人口410万人(2005年統計)、国内最大都市である。1989年にラングーンから改称された。

 重要な交易地であり、チーク材、石油綿鉱石の輸出拠点である。主な産業は精米、木材加工、石油精製、鉄鋼業などである。

 1885年の第三次英緬戦争において、英国が高地ビルマを支配下に入れた後、ラングーンは英国領ビルマの首都となった。

 植民地時代のヤンゴンは、広大な公園や湖、近代的な建物と伝統的な木造建築の融合が見られ、「東の庭園都市」 として知られていた。20世紀の初期までに、ヤンゴンは公共サービスおよび社会的インフラにおいて、ロンドンと肩を並べるほどであった。

 1942年から1945年にかけて、ヤンゴンは日本軍による占領を受け、第二次世界大戦中に甚大な被害を受けた。1948年1月4日、英国から独立を勝ち取った際に、ヤンゴンはビルマ連合の首都となった。

ヤンゴンの飛行場から市内へ

近代的な街並

           

    ☆時代の変遷で国旗が変わる

イギリスの植民地時代

日本の統治時代

社会主義時代

新制ミャンマー

           

    ☆アウンサンスーチーさんの自宅

今やミャンマーの人気観光のスポットとなっている。広大な敷地

見学した欧米人が戻る。門の上には独立の父で、スーチーさんの父親アウンサン将軍の写真が飾られている。アメリカ大使館が近くにある

門の上にアウンサン将軍の写真

大きな邸宅。忙しく殆ど自宅にはいないようである

 アウンサンスーチーとは・・・

 ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘である。

 ビルマの首都だったラングーンに生まれた。1960年(15才)に母親のキンチーがインド大使に着任すると、アウンサンスーチーはデリーで学ぶことになる。1962-63年にはデリー大学政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。その後、ロンドン大学で研究助手を務めた後、1969-71年にはニューヨーク国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となる。

 1972年にオックスフォードの後輩でチベット研究者のマイケル・アリス(1946-1999)と結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。夫は一説にはイギリスの諜報員であったとも言われている。だからスーチーさんもアメリカやイギリスの利権の為にミャンマーに送り込まれたとか・・・(真意は不明だが)

 1985-86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。

 1988年4月、病気の母を看護するため、夫と息子をアメリカにおいてビルマに戻る。その後、ミャンマーの民主化を目指して活動する。

 1999年3月、夫マイケル・アリスが前立腺癌で死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。

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 陰謀渦巻くミャンマー・・・スーチーさんはどう動く!

 ミャンマー国内の有識者の間には次のようなことを危惧している人が多いと言う。

 「ミャンマーは石油、天然ガス、ルビー、ダイアモンド、麻薬等々、地下資源が非常に多い国。その利権をめぐって隣国の中国、インドがミャンマー軍事政権に近ずく。
 対抗して、その地下資源をアメリカや、かっての宗主国イギリスが民主化と云ううたい文句でスーチーさんに肩入れをして民主化をして資源を手に入れたい。スーチーさんは踊らされている」 と。

 ミャンマーの民主化はアメリカの意図が大きい。中国に対抗して、資源確保に焦っているアメリカがミャンマーの軍事政権に圧力をかけた結果だと言われている。

 スーチーさんの家の近くには、豪華で大きなアメリカ大使館が新築された。これは意図的とも思われる。

 世界の発展途上国には、中国、韓国などが経済協力と云いながら資源目当ての協力・介入が多い。今や陰謀が丸見えである。そこへアメリカが民主化と云う看板を下げて介入してくる。更にロシアも、イギリスやフランスも。

 昔はヨーロッパ諸国が、アフリカや南アメリカ、アジアに植民地を作り何百年も搾取していた。今は変わって中国が、韓国が。負けじとアメリカが民主化と云いながら後を追う。今度は遅まきながら日本も・・・

 いつの時代も変わらない。世界の構図である。

           

    ☆ヤンゴン市内観光

ヤンゴンの市民の足は乗り合いトラック

満員

           

     ☆チャウッターヂー・パヤー(巨大な寝仏で有名)

 比較的新しい仏塔で、全長70m、高さ17mの巨大な寝仏が祀られている。

外観

チャウッターヂーと読める

巨大としか表現が出来ない。全長70m、高さ17m

足の裏

仏教宇宙観図

まつ毛

指先

           

   ☆巨大タワー

日本の鴻池組が建設した20階建てビル「さくらタワー」にはANA、JIKA、伊藤忠、三菱商事、損保ジャパン等が入居

本日のランチ・タイムは20階の「スカイ・ビストロ」

20階から見る市内。遠くにヤンゴン最大の聖地「シュエダゴン・パヤー」(仏塔)が黄金に輝く

円い重箱?が運ばれてくる

これも仏塔を表しているのだろうか

日本版弁当箱?

前菜のようだが、赤いのはトウガラシ、白いのがニンニク

デザート

20階から見る街並

交差点にも仏塔が見える


  日本の支援・・・

 1.喜ばれる日本の中古車・・・世界の途上国には中国や韓国の車が多くなっているが、性能、クッション等、日本車には及ばない。2国の新車より
                   日本の中古車の方が値段は高いが長持ち・性能が良いので人気がある。
                   日本のODA(政府開発援助)は、途上国支援と中小企業の海外事業展開とのマッチングを行うことを事業としているが
                   ミャンマーにも沢山の乗用車やバスが走っている。それも日本の名前(例:下呂温泉観光バス)を入れたままである。
                   その方が喜ばれるらしい。

 2.車両メーカーの進出・・・・・・三菱ふそうがトラック販売で進出が決定。他に他メーカーも追随する模様。
    ミャンマーで、日本からの中古車輸入の業務は「日本ミャンマー支援機構」が中心となっている。

 3.携帯電話企業の進出・・・・・2013年1月、KDDIが携帯電話事業をミャンマーで検討。

 4.日本企業が相次ぎ検討・・・ 2013年2月2日、経団連が140人の大型訪問団を派遣と報道。これによりミャンマーへの投資が加速される模様。

 5.重機メーカー進出・・・・・・・・重機レンタルメーカーの豊田通商が進出決定。

 6.日本の大手銀行進出・・・・・三菱東京UFJ銀行が、ミャンマーに進出する日系企業の支援の為に、ミャンマーの大手民間商業銀行と提携。

 ここ1〜2年で日本からミャンマーに進出する企業は数え切れない。世界の工場「中国」問題で、信用の無くなった中国を見限って、ミャンマーに
 加速度的に増加するのだろう。

           

    ☆ヤンゴンの街並

商店が並ぶ

露天も多い

植民地の20世紀の初期までに、ヤンゴンは公共サービスおよび社会的インフラにおいて、ロンドンと肩を並べるほどであった女子学生。手にぶら下げているのは弁当。給食制度が無いので、全員が弁当持参。母親の作る弁当が一番の人気らしい。ステンレス製の弁当箱

           

   ☆ミャンマーの絵画

           

       ☆アウンサンマーケット

 
 ミャンマー最大都市ヤンゴン(ラングーン)で、最も大きな規模マーケット。ボージョーアウンサン通り複合ビルFMIセンターの隣にある。ピンク色の屋根、白い壁の建物の内部には、たくさんの店が雑然と並び、食料品や衣類雑貨など日用品から民芸品、骨董品、宝飾品まで、さまざまな商品が並んでいる。「ボージョーマーケット」ともいう。このマーケットが建設されたのは、イギリス植民地時代の1926年で、当時は「スコットマーケット」と呼ばれていた。

メイン通り

腰巻文化圏 「ロンジー」販売店

       ガイドのソンさん
 ロンジー

 男女とも着用するミャンマーの腰布ロンジー。ミャンマーは東南アジアに広く分布する腰巻文化圏である。

 他の東南アジア各国では洋服文化が広まる中,頑なに伝統を保っているミャンマーでは,都市だろうが田舎だろうがロンジーをはいている人が非常に多い。老若男女問わずだ。
 学生の制服もYシャツにロンジー。足元はサンダル。バッグはシャンバッグ。

 ミャンマーのロンジーは1枚の布を縫って筒状にしてあり、そこに足を通して腰のところで締めるだけ、とても簡単な衣類である。

市場内で托鉢する女の子達。  何やら歌っているような、多分経なのだろうか?

動画・・・少女の托鉢(ミャンマー)

          

   ☆ヤンゴン中心部 

          スーレー・パヤー(仏塔)
ヤンゴンの市街はスーレー・パヤーを中心に設計されている。仏塔内には仏陀の遺髪が納められていると言う。
高さ46m。市民は通る度に御参りをしていく。

         独立記念碑
          高さ46m
           ヤンゴン市庁舎

           

   ☆ヤンゴンのスーパー

巨大なスイカ

日本の納豆まで、水戸産。カップラーメンも日本から

           

      ☆シュエダゴン・パゴダ(ミャンマー最大の聖地)

 ミャンマーヤンゴン中心部に存在する寺院(パゴダ、パヤー)である。
 伝説によれば、シュエダゴン・パゴダは約2500年前に建てられたとされている。考古学的研究によれば6〜10世紀の間に建立されたと考えられている。地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は15世紀ころ成立したと考えられている。

 シュエダゴン・パゴダの境内は、東西南北の門から入り階段(現在はエスカレーターもある)を上がった上部にある。境内は高さ約100メートルの黄金のストゥーパ(仏塔)を中心に60余りの仏塔や廟が林立する空間になっており、供物や土産物を売る店も数多い。

 パゴダの最頂部には、76カラットのダイアモンドほか、ルビーやヒスイなどの宝石がちりばめられている。

 英国は釣鐘を母国に持ち帰ろうとしたが、23トンもあるため船積みに失敗してヤンゴン川に沈めてしまった。ミャンマー人はヤンゴン川につながっている海の干満をうまく利用して釣鐘を浮かび上がらせて取り戻した。

高さ100m

釈迦が悟りを開いた菩提樹も植えられている

菩提樹の前で就業する釈迦、怪物が攻めている

悟りを開いた後、仏様が多数。文字が読めない人に絵で説明

60余りの仏塔や廟が林立

女性のお参りスタイル

仏陀の前で修業するお坊さん

英国は釣鐘を母国に持ち帰ろうとしたが、23トンもあるため船積みに失敗してヤンゴン川に沈めてしまったパゴダ(仏塔)の最頂部には、76カラットのダイアモンド。まん中の三角錐

掃除をする信者。勤労する事で救われるそうだ

女性団体のお参り。平均的に女性が多い

           

   ☆最後の晩餐

ヤンゴンでの最後の晩餐のレストラン

レストラン

竹に入ったご飯

中華風。風船みたいなのはトウガラシ

    ☆ ミャンマーの略史

年代

出来事

年代

出来事

6〜10世紀古代王朝が定住。1948年「ビルマ連邦共和国」として独立。
11世紀バガン王朝が統一する。1962年共産党主体の「ビルマ社会主義連邦共和国」となる。
12世紀モンゴル軍侵入、バガン王朝滅びる。1989年国軍が全権掌握。ビルマ→ミャンマーに変更。軍政となる。
12〜15世紀戦国時代。1989年アウンサンの長女「アウンサンスーチー」が自宅軟禁となる。
15世紀タウングー王朝国土を統一。1991年アウンサンスーチー、ノーベル平和賞受賞。
1824年〜1885年イギリス・ビルマ戦争が続く。1997年国軍主体の「国家平和発展評議会」議長に「タン・シュエ」が就任。
1886年イギリス、ビルマとインドを併せて植民地とする。2007年民主化運動取材中の日本人ジャーナリストが治安部隊に射殺される。
1941年日本軍進出開始。アウンサン(アウンサンスーチーの父で、ビルマ建国の父と云われる)等を懐柔。2010年軍の政党を解散し「連邦団結発展党」(大統領テイン・セインを選挙で選ぶが、軍事政権の「タン・シュエ議長」が実権を持っていると言われる。
1947年アウンサン暗殺される。2010年北朝鮮の協力で核兵器開発をしているとの疑惑発生。

           

   

        ☆新首都ネビード

2009年に完成したウッパタサンティ・パゴダ。高さ100m

 2006年、旧首都ヤンゴンからネピードに遷都。

 ネピドーへの首都移転の理由は、ミャンマー政府によれば「現在の首都ヤンゴンよりも国土の中心に近く、国民のニーズに応えるためにはより適切な位置にある」ということであるが、真意は不明確であり、いろいろな説が唱えられている。

  • アメリカからその専制を批判されているミャンマーが、イラク戦争同様に侵攻を受けた場合、内陸に位置するネーピードは海に近いヤンゴンより占領されにくく、より戦略的に有利な位置にあるからだという見方。
  • ネピドーはカレン州シャン州チン州など少数民族の多い州(ピーネー)に近く、内戦が起こった際にはやはり戦略上重要な位置にあるからだという説。
  • 元首で上級大将のタン・シュエのお抱え占星術師の命令によるものだという説。2005年11月9日マレーシアの英字紙、ニュー・ストレート・タイムズは『首都移転の影に占星術師』のタイトルの記事を掲載している。また、2011年8月9日日本のテレビ番組、教科書にのせたい!ではこの説が放送された。
  • 軍事政権は都市部の市民を恐れているとの説。高い教育を受けた国民や海外留学から帰った国民の増加により、そういった人々の多く住むヤンゴンで市民運動革命が起こることを軍事政権は危惧している。それゆえ、政権中枢をネーピードに移転させ政権の強い地盤とし、革命が起こっても早期に鎮圧できる拠点としようとしているというもの。
  • 2013年秋には民主化で観光解除になりそうだ、とのガイド評。
    2013年はネピードでシーゲーム(東南アジアのオリンピック)開催、2014年ASEAN議長国就任、2015年総選挙と国際的な行事が続くと言う。

           

           ☆ミャンマーの軍事政権 「国家平和発展評議会」 とは・・・

 

 国家平和発展評議会(略称:SPDC)はミャンマー軍事政権の最高決定機関。

 1988年9月、旧ビルマ軍のクーデターにより国家法秩序回復評議会(略称:SLORC)が全権を掌握して以来、同国では2011年3月30日
 
まで軍事政権が続いた。このSLORCが1997年11月に改組されたのが国家平和発展評議会(SPDC)である。

 SPDC内の序列上位は以下の通り。

  • タン・シュエ 議長、上級大将
  • マウン・エイ 副議長、上級大将補、引退タン・シュエのライバルと目されていたことから、民政移管に伴うタン・シュエ自身の国家元首引退後の身の安全を確保するために失脚させられたとされている)
  • トゥラ・シュエ・マン国軍統合参謀長、大将、下院議長
  • テイン・セイン 首相、大将、大統領
  • ティン・アウン・ミン・ウー第1書記、大将、副大統領

 2010年ミャンマー総選挙後の2011年1月31日にトゥラ・シュエ・マンが下院議長に任命され、2月4日にテイン・セインが大統領に選出
 された(ティン・アウン・ミン・ウーは副大統領に就任)。
 同日までにマウン・エイは引退している。
 テイン・セイン大統領による組閣に伴い、2011年3月30日にSPDCは解散したが、出身者による政権への影響力が保持されるのは
 確実であると言われている。

          

            ☆テイン・セイン大統領とは・・・

 現大統領のテイン・セインは、軍事政権内での序列は4位、同国首相などを歴任。1945年生まれの67才。

 2010年ミャンマー総選挙で当選を果たす。
 
 人柄
 他の軍高官とは違い、利権や汚職などのスキャンダルに見舞われず、国民にはクリーンなイメージを持たれているとされる。
 また野心がなく、上官の命令に逆らうことはない官吏タイプとも評されている。このため
タン・シュエの信頼が厚く、「忠実な部下」「典型的なイエスマン」とも評される。

 軍出身ではあるが基盤がなく、このため大統領就任前にはタン・シュエの意向に沿った政権運営がなされるとの指摘もあった。
 しかし就任後は
アウンサンスーチーの政治活動を容認するなど、民主化に一定の寄与をしていることも事実であり、タン・シュエが保守派と言われるのに対し、テイン・セインは改革派と称されることもある。

           

           ☆アウンサンスーチー

 アウンサンスーチー(1945年 - )は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者、政治家。現在、連邦議会議員、国民民主連盟中央執行委員会議長。オックスフォード大学名誉博士1993年)。
 
ノーベル平和賞受賞1991年)。

 ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘である。

           

             ☆ 「アウンサンスーチー」と「テイン・セイン大統領」の関係

 

 アジアの発展から取り残されたミャンマーが最近変貌していると言われている。軍事政権が「国民的和解」へと舵を切り、アウンサンスーチーさんも応じているのである。
 
 「民主化路線はどこまで本物か」という疑いの目もあるが、軍籍を離脱したテイン・セイン大統領は本気のようだと国民の間に広まっている。
 一部に、テイン・セイン大統領はソ連の共産党独裁に終止符を打ち、失脚したゴルバチョフのイメージが重なるという評さえあると言う。

 ミャンマーの民主化の動向が世界の注目を浴びるようになってから約2年間が経過した。先般のオバマ大統領の約7時間の訪問はそのハイライトであった。これはテイン・セイン大統領の卓越した指導力によるものであるらしい。

 スーチー女史は、たった二年前まではミャンマー軍政は腐敗しているとして人道援助すら否定していたのである。ところが今や、まるで大統領の広報担当大臣のようであると言われている。訪問先のアメリカでも積極的にミャンマーへの投資を呼びかけるまでに変身した。

 オバマ大統領のヤンゴン滞在はわずか約7 時間だったが、スーチー女史宅を訪問。共同記者会見は大きく世界に報道された。本来ならば首都ネピドーを訪問し、テイン・セイン大統領と会談するのが外交儀礼であるが、テイン・セイン大統領はわざわざヤンゴンまで出かけてオバマ大統領と会談した。
 地位や名誉にこだわらず、大統領としての立場よりミャンマーの民主化を世界に理解してもらおうとするテイン・セイン大統領のひたむきに公に奉仕する姿は、やがてミャンマー国民が誇りに思い、名大統領として大幅な信頼を勝ち得る日がくるに相違ないという評もある。

 そのテイン・セイン大統領は、二年後の大統領選挙でスーチー女子が大統領に当選されるならば、喜んで応援・支援もしょうとまで言っている。

 今回のガイド・ソンさんは、ミャンマーでは数少ない大学卒(国民の1割程度)のインテリで、日本にも来た事もあり、日本語も堪能、穏やかな人柄である。そのソンさんは言う。
 今までの軍政が信じられない。今や大統領はスーチーさんと何事も相談し合い、協力して民主化に貢献している。国民の、二人に寄せる信頼は揺るぎありません、と。嬉しそうな笑顔で語るのが印象的であった。

           

          ☆終身国家元首タン・シュエとは・・・

タン・シュエ

タン・シュエの娘の結婚式

 ミャンマー軍人政治家。階級は最高の上級大将。同国の国家元首、前国家平和発展評議会議長などを歴任した。

 1992年4月23日より同国の軍事政権トップとして独裁的地位にあり、60歳の定年に達した時、終身国家元首に就任することが決定した。

 アウンサンスーチーらの民主化勢力には妥協を示さない強硬派として知られる。表現の自由を弾圧し、政権に反対するジャーナリストを拘留・監視している。米紙ワシントンポスト発行の週刊誌『パレード』が選ぶ「世界最悪の独裁者」の2008年度ランキングにて、第3位に選ばれた。だが、政界に対しての綱紀粛正などから、国民の支持率は決して低くは無いことが伺える。

 苦しい生活を強いられている国民が多い中で、東京ドーム70個分もの大きさの国会議事堂の建設を命令。建設にかかった費用はおよそ90億円。また、自身の娘の結婚式に巨額な金をつぎ込み、盛大に行った。

 テイン・セイン現大統領は忠実なタンシュエの部下であり、軍政から民政に移行した事実があったとしても、実体はタン・シュエの傀儡政権と多くの人々は考えている。

 タイのメディアは結婚式の「貢ぎ物の総額は5000万ドル(50億円)を超える」と報道。「最貧国のどこにこんな金があったのか」と世界の最貧国20位以内に入るミャンマーのヤンゴン市民の嘆きの声を伝えている。

             

 旅を終えて・・・

 ミャンマー人は日本人と似ていた。綺麗好き、几帳面、誠実、農業国等々。笑顔が良く人懐こくいつもにこやかで親切に接してくれた。

 第二次大戦で日本が迷惑をかけたのに意外と親日であった。それは長年イギリスに植民地として抑えられていて、日本が追い出して開放してくれた所以でもあるらしい。

 2013年2月、NHK:BS放送でドキュWAVE「激変ミャンマーの報道」が放映された。民主化されて民間新聞が日刊紙の許可が下り、自由に報道出来るようになった番組である。
 決してスーチーさんを手放しで持ち上げるようではない。今後、政治家としてのスーチーさんの言動をしっかり報道してチェックもしていくようだ。

 ミャンマーの紛争としては、国内では、カレン民族同盟(イスラム)との60年にわたる政府との闘争がある。スーチーさんはそのような紛争はない、と他の国から指摘された時言いきったと言う。別な思惑があったかもしれないが。
 しかし、テイン・セイン大統領はその後、解決しますと断言している。

 今、大統領はスーチーさんと歩調を合わせ、アジアで出遅れた復興を目指している。軍事態勢からは信じられない変わりようで、いつ体制が変わるかは当分解らないが、大統領への信頼はミャンマーの各地での評判はすこぶる良い。政治家としての手腕はここ2 年間では実証済みである。
 二人は国民から期待されているのである。今まではスーチーさん一人であったが。

 ここで不思議なのはミャンマーの独裁軍事政権の豹変ぶりである。世界の独裁国家が、アメリカが唱える民主化のもとに、独裁者が追い出されている現状を見て、ミャンマーも首都を内陸部に移している。これは海に近いとアメリカが攻めやすいからとの一般論である。

 だが、この独裁国家は違う意味で豹変したと思われる。昨今、世界の強国は中国、アメリカである。特に中国は巧妙にアフリカや途上国に、アメリカから守るという大義名分で介入し、経済援助と称し資源を取り上げている。ミャンマーは資源豊富、中国は近年とみにその資源を持ちかえるようになっている。

 そこでミャンマー軍事政権は中国に対抗するためにアメリカに近ずいて、スーチーさんを利用し民主化のもとに中国、アメリカと等距離で対抗させているという構図。

 如何にテイン・セイン大統領が優秀とは言え、タン・シュエ 議長の意向なしで民主化をすることは叶わない。二人の政治力はなかなか老獪でしたたかと言える。

 その事を証明する現象がある。ミャンマーの国の施設やホテル、街並等々想像とは相違して近代的であった事。軍事政権とはいえ、その辺は他の途上国とは違い、しっかりインフラや国の根幹を統治していた様に窺われた。他の独裁国家とは少し違うようである。

 またこの国の識字率が途上国の中では抜きんでて92.0%と高い事である。軍事政権が教育もしっかり行っている事である。

 更にこの国には物もらいや乞食が殆ど見当たらない事である。考えるとこの国の宗教が大きく寄与しているのである。仏教国で国民の10%以上、500万人が僧侶である。田舎へ行くと学校が無い部分、僧院が寺子屋方式で子供の教育をし、また食べられない人は僧院で保護しているのであろう。

 ミャンマーの国民と仏教との関わり、仕組み、敬愛を感じさせられた旅であった。

 日本の寺や神社は貧しい人を見ても殆どが見ぬふり、自殺者や予備軍がいても介入しない。だから日本人は無宗教が多いとも言えるのではないだろうか。聖職者とは?

 今後は表舞台に出たスーチーさんの、資質と政治力が問われるのかも知れない。日本の政治屋さん達も負けられない。

                                               終わり


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