ポルトガル共和国紀行  

リスボンと対岸を結ぶ革命記念の「4月25日橋」

 目 的 

 2011年1月、ヨーロッパの西の果て、そして世界で最初の大航海を始めたポルトガルの旅を企画した。
日本に初めて来た外国はポルトガル、その目的は何であったのか、ブラジル初め世界の植民地政策はどのようであったのか。今や隣国スペイン同様、失業率で悩むポルトガル。かってのスペインの植民地であったメキシコやポルトガルの植民地であったブラジルが世界の強国となる現在、何故国の力が落ちてしまったのか。 
 日本に文化を伝えたポルトガルの文化とは、宗教、衣食住、国民性等々・・・興味は尽きない。

 ポルトガル・インフオメーション 

 ・面積  日本の1/4                 ・民族構成    先住イベリア人、ケルト人、ゲルマン系他
 ・人口  1070万人                ・言語       ポルトガル語
 ・首都  リスボン(人口50万人)          ・通貨       ユーロ(1ユーロ=115円程度)
 ・政体  共和制 EU加盟             ・宗教  カトリック(97%)
 ・経済  
農業、水産業、食品・繊維工業、観光。
       
地中海性気候を生かし、オリーブ小麦ワインコルクの生産が盛ん。オリーブ油
の生産高は世界7位。ワインの生産は第10位。
       第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)。森林 (36%) も多い。
       
      
 コルクの生産は世界の50%を占める。
 ・失業率 11.0%(参考: 日本4.9%、米国9.4%、英国7.9%、フランス9.3%、イタリア8.7%、スペイン18%、ブラジル801%、メキシコ505%)
                                                                        2000年統計

 ・経済成長率 中国10.3%、韓国6.1%、ブラジル5.1%、米国2.9%、EU18カ国2.0%( 内、スペイン−4.9%、ポルトガル1.1% )

   ☆ 旅行地域 

地図の説明       

     ☆ 略 史 

年月

略史

1143年ポルトガルの建国
ポルトガルの建国
1580年スペインとの同君連合
1640年スペインより独立(王政復古)
1910年王政終焉、ポルトガル共和国成立
1932年サラザール政権(〜1968年)、カエターノ政権(1968年〜1974年)
1949年NATO加盟
1955年国連加盟
1974年4月25日カーネーション革命(民主化)
1986年EC(後にEUに発展)に加盟
1996年ポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)に加盟(同年に設立。本部リスボン)

  ☆ 出 発 

    

 サービスの良いルフトハンザ・ドイツ航空で成田〜ミュンヘン〜リスボンへ 待ち時間合わせて18時間ミュンヘン空港はコーヒー、新聞が無料サービス。 リスボン国際空港。

 人気とサービスの良い航空会社

   090810-014.jpg シンガポール航空の機内食    タイ航空はウナギ!  101122-003.jpg エミレーツ航空

 ベストファイブは、シンガポール航空、タイ航空、ルフトハンザ・ドイツ航空、エミレーツ航空(アラブ首長国連邦)、エール・フランス航空がサービス、機内食、飲み物サービスが良いと評判。

 19世紀末までにポルトガル帝国が領有した経験を持つ領域。 

ファイル:Portugal Império total.png

     ☆ トマール   

    

         トマールの看板                      人口43000にんの街                      丘の上に城と修道院

ムーア人(イスラム)の征服をレコンキスタ(キリスト教へ国土回復)で克服した後、1147年のサンタレンの戦いでポルトガルの勝利に大きく貢献したことに対して、アフォンソ1世がトマールの土地を恩賞ととして、テンプル騎士団に与えたことを出発点とする。騎士団の団長エンリケ航海王子(ポルトガルの王子)は、騎士団の資源と知識を活用することで、アフリカ大西洋への航海を成功させた。

  

ルネサンス様式の性格を帯びるマヌエル建築

        

12世紀の建築

かって騎士たちは、すぐ戦いに行けるように、堂内を馬で回りながらミサに参加したと言う。

見事な銀細工

           人間の顔をした魔除け                               城から見るトマールの町並み

丘の上には城と修道院、街にはレストラン街と白鳥が優雅に泳ぐ、今は平和なトマール

      

      昼食はポルトガル名物「バカリャウ」干しダラ、玉ねぎ、ジャガイモ、ゆで卵のミックス。       オーストラリアから移入した厄介者のユーカリ

 ユーカリの木 

 大航海時代、ポルトガルは ユーカリの木をオーストラリアから移入した。
しかし、ユーカリは成長が早いが、種子が飛び散り、見る見る内に増えていき、他の木が被害になる。
 一番困るのは、油性が強く風で摩擦すると火事になり、山火事が絶えない。木が燃えても根は残り、すぐ成長するし、種は飛来し増えていく。
 今や悩みの木で厄介者扱いである。

一方、ニュージーランドでは、ヨーロッパから移入された外来種のエニシダとルピナスが猛威をふるい他の植物が被害となっていある。

植民地政策の置き土産といえよう。

可憐なルピナスの花々(弊社添乗員11月撮影) ルピナス

 エニシダ

   ☆ ポルト   

ポルトポルトガル北部の港湾都市。人口約263,000人。リスボンに次ぐポルトガル第二の都市。大西洋に流入するドウロ川北岸の丘陵地帯に築かれ、河口に近い。ドウロ川にはドン・ルイス1世橋など4本の橋がかかる。ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。

14世紀から15世紀にかけての大航海時代、ポルトで生産された船団は、ポルトガルの海軍の発展に大いなる貢献をした。1415年に、ジョアン1世の子供であるエンリケ航海王子は、ポルトを出発し、モロッコ地中海に面する港町セウタを攻撃した。エンリケ航海王子によるセウタ攻略がそれ以後のポルトガルの海外への雄飛への出発点であった。

18世紀から19世紀にかけて、ポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、英語でポートワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になった。

ドン・ルイス1世橋(フランスのエッフエル塔を作ったエッフエルの弟子が設計)

動画   ポルトガル:ポルトの街と「ドン・ルイス一世橋」

      街は坂にへばり付くように建っている。                 橋の入口                           急坂に駐車する車

5世紀からの街並み。レトロな市電が趣を増す。

              

バロック装飾の「サン・フランシスコ教会」

クルーズ船が行き交う

動画   ポルトガル:ポルトの街並みとサンフランシスコ教会

       河口の両岸には30を超すワイン工場が立ち並ぶ。         黒い帽子と黒マントの「サンデマン」に入る。     日本の女子大生がアルバイトで案内役。

                            樽に3年〜30年熟成させる。                                この町の丘陵帯には葡萄畑が続く。

     無料試飲、白と赤   ポートワインは、一次発酵の途中でブランデーを加えて発酵を止める。                  飲みすぎて、早くも月が・・・

ポルトの夕焼け

   ☆ サンティアゴ・デ・コンポステラ(スペイン) 

 人口は9万人。エルサレムバチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地のひとつであり、世界遺産にも登録されているサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の終着地でもある。
 
キリストの十二使徒聖ヤコブの遺骸が祭られているため、古くからローマエルサレムと並んでカトリック教会で最も人気のある巡礼地であり世界中から巡礼者が絶えない。

 巡礼の街道では巡礼者は、その証明に帆立貝の殻を荷物にぶら下げる。途中、教会などが宿泊を提供してくれる。最後のコースは、地面に古切れなどを敷きながら膝だけで歩いていく熱心な信者も多い。
伝説では、9世紀に星に導かれた羊飼いがこの地で聖ヤコブの墓を発見し、遺骨を祭った聖堂が建てられ、そこに教会が作られた。

   。

                 フランスから800km(日本では東京〜広島間)、ピレーネ山脈を越えて1か月をかけて到達する。年間10万人が訪れる。    

         奥に見えるピレーネ山脈を越えて                                               徒歩で1か月がかりの巡礼

   

「歓喜の丘」 小高い丘のここまで来るとカテドラルが見えてくる。人々は思わず歓喜の声を上げる。背中には巡礼者の証し、ホタテ貝。

動画   スペイン:「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」歓喜の丘

「歓喜の丘」から見えるカテドラルの3つの塔

動画  スペイン:聖ヤコブのカテドラル

先ずは腹ごしらえ、本日のランチはローストポーク、前菜の中はひき肉

         カテドラル。カテドラルは司教(キリストが宣教のために諸国に遣わした12人の使徒たちの後継者)が居住し、かつ司教区の名称をとった都市に建てられている。

動画   スペイン:「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」のカテドラル

    

カテドラルの塔の上には聖ヤコブの像

  

             カテドラル内部の金の祭壇には聖ヤコブの像が               巨大香炉は長さ1m、90kg。長い道のりを歩いてきた信者の異臭を香で消す。

      

                    聖ヤコブと2人の弟子の墓地が地下にある。                 レコンキスタでイスラムと闘う聖ヤコブ

        

カテドラルの看板と、聖ヤコブにハグ出来る時間帯は午後16:00〜19:30

カテドラルの祭壇の裏から、一列に並び聖ヤコブの像にハグする。手が肩におかれている。信者もそうでない人も緊張の一瞬。

 キリストの十二使徒 

十二使徒とはキリストと共に宣教活動をしたキリスト直属の弟子達の事を言う。

聖ヤコブ像

■ ペテロ
 本名はシモン。漁師であり、アンデレの兄弟。ヨハネ、ヤコブと共にイエスの一番弟子であり、常にイエスと行動を共にした。後にローマ教会の指導者となる。
■ ゼベダイの子ヤコブ
 弟子のヨハネと兄弟で漁師。ヨハネ、ペテロと共にイエスの一番弟子であり、常にイエスと行動を共にした。気性が荒いことでヨハネと共にイエスから「雷の子」というあだ名を付けられた。大ヤコブとも云う。

■ ヨハネ
 弟子のヤコブと兄弟で漁師。ヤコブ、ペテロと共にイエスの一番弟子であり、常にイエスと行動を共にした。気性が荒いことでヤコブと共にイエスから「雷の子」というあだ名を付けられた。
■ アンデレ
 ペトロの兄弟で漁師。4番目の地位。
■ ピリポ
 ペテロ、アンデレと同じベツサイダ出身。ナタナエルをイエスの元に連れてきた。
■ バルトロマイ(あるいはナタナエル)
 ピリポに導かれてイエスに会う。律法には通じていたらしく、イエスに「本当のイスラエル人」と呼ばれた。
■ マタイ
 レビとも呼ばれ、徴税人(取税人)であり裕福であったと思われる。

■ トマス
 「主といっしょに死のう」という忠実を持っていたが、自分ひとりだけ復活したイエスに会えなかったとき「見て、触れなければ信じない」と言った話は有名。
■ アルファイの子ヤコブ
 小ヤコブとも呼ばれる。イエスの兄弟という説もある。
■ タダイ
 ヤコブの子ユダ、「イスカリオテでないほうのユダ」とも呼ばれる。裏切り者のユダと間違われる。
■ 熱心党のシモン
 ローマの支配に武力で反抗し、律法を遵守した熱心党のメンバーであった。
■ イスカリオテのユダ
 使徒一行の会計係であった。マリヤが高価な油をイエスに注いだとき、マリヤを非難した。イエス逮捕の手引きをしたが後悔し、自殺した。

土産物屋

  ☆ ファティマ 

 1917年に起こったとされる、ファティマの聖母の出現と呼ばれることで有名。人口およそ10,000人の町で、現在はローマ・カトリック巡礼者を中心に国際的な巡礼地として知られる。

 1917年5月13日、ファティマの3人の子供たちの前に謎の婦人(聖母マリア)が現れ、毎月13日に同じ場所へ会いに来るように命じた。子供たちは様々な妨害にあいながらも聖母マリア」と名乗る婦人に会い続け、婦人から様々なメッセージを託された。
婦人からのメッセージは大きく3つあった。
 1.第1次世界大戦はもうすぐ終わる。   2.3人の中の2人は天に召されるだろう。   3.
ヨハネ・パウロ2世は暗殺未遂となるだろう。

予言通りとなり、聖母マリアが出現すると言うことで、この地が有名になる。

        ポルトガルはオリーブの木が多い。                                   ファティマのバジリカ             

             ロウソクを捧げる信者                     30万人収容の広場と教会                協会の塔には聖母マリアの像

動画    ポルトガル:ファティマ「聖母マリアの出現」

       遥か彼方にキリストの像                キリスト像の隣には前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の像。    巨大な教会内部

動画    ポルトガル:ファテイマの教会

信者はこの道をひざま付いてお参りして進む。

      

          ファテイマのレストランは女性修道院が経営。メニューはビーフとポテト。何とワインが無料。   庭にはミモザの黄色い木

ミモザ

 ポルトガル語が日本語に 

 
 ボタン、カルタ、パン、タバコ、コップ、カステラ、ジュバン、ジョウロ、バッテラ、ガンモドキ、コンペイトウ、テンプラ オルガン、カボチャ
 これらの言葉は、元はポルトガル語が起源だったのです。

  ☆ バターリャ 

1385年アルジュバロータの戦いカスティーリャ王国軍(後のスペイン)を破ったことを祝して建設したバターリャ修道院とともに始まった。バターリャとは、ポルトガル語で「戦い」を意味する。このバターリャ修道院は、ユネスコ世界遺産に登録されている。

修道院と地元の英雄の像

      

                   地元の英雄                                    当時の修道院には魔除けが必ずある。

         

美しいマヌエル様式

      

              ポルトガル王子「エンリケ航海王子」の墓                            無名戦士の墓には衛兵が立つ

動画    女性衛兵の行進

    

ポルトガルにはオレンジの街路樹が多い。渋いので鳥も食べない。

   ☆ポルトガル語圏諸国を表す地図

  ☆ アルコバサ 

 ポルトガル建国の父アフォンソ・エンリケス1世がレコンキスタに協力したシトー派修道会に感謝し12世紀初頭に建造を命じたものである。質素・簡潔を旨とするシトー派の修道院のために、過剰な装飾を廃した簡素なつくりになっている。最盛期には1000人近い修道士が生活していた食堂、寝室、厨房が回廊の北側に広がり、当時の様子が偲ばれる。
そして、この修道院を特別なものとしているのは、イネスとペドロ王子の悲恋の物語であり、繊細で優美な彫刻が施された二人の棺である。

    

   ユーロ圏の車のナンバー。左側上部はユーロのマーク、下はポルトガルのP        1000人もの修道士が生活していた。

動画    ポルトガル:アルコバサの「サンタマリア修道院」

                「悲恋物語」ペドロ1世とイネスの石棺                        当時1000人の厨房

 修道院 

 キリスト教において修道士イエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。男子修道院女子修道院とがあり、いずれにおいても修道士修道女独身を守る。
 
「すべて労働は祈りにつながる」と言ったように中世以来の修道院では自給自足の生活を行い、農業から印刷、医療、大工仕事まですべて修道院の一員が手分けして行っていた。

    

                       巨大煙突                                   洗い場

             中世の趣があるアルコバサの街                                ポルトガルはコルク生産世界一、コルクの帽子

      

赤い屋根に白い壁はラテン系の国の証し

   ☆ポルトガル語諸国共同体加盟国 

ポルトガル語を公用語とする諸国によって構成される国際協力組織。加盟国が対等の立場で政治、経済、文化の面で協力することを目的として1996年7月17日に結成された。ポルトガル語の普及にも力をいれている。加盟国の人口総数2億2300万人、面積10,742,000平方キロに及ぶ。

赤色〜加盟国、ピンク〜オブザーバー、黄色〜加盟希望国

        加盟国                                            オブザーバー

  • ポルトガルの旗 ポルトガル
  • ブラジルの旗 ブラジル
  • アンゴラの旗 アンゴラ
  • モザンビークの旗 モザンビーク
  • カーボベルデの旗 カーボベルデ
  • ギニアビサウの旗 ギニアビサウ
  • サントメ・プリンシペの旗 サントメ・プリンシペ
  • 東ティモールの旗 東ティモール2002年加盟)
  • 赤道ギニアの旗 赤道ギニア
  • モーリシャスの旗 モーリシャス
  • セネガルの旗 セネガル
  • ほか17国際組織

    

        

   ☆ ナザレ 

キリスト教徒にとっては、イエス・キリストが幼少期から公生涯に入るまでを過ごした土地であり、彼自身が「ナザレ人」と呼ばれたと新約聖書にあることから、きわめて重要な場所とされる。

 元は漁師まちだが、今やヨーロッパでも有数のリゾート地として人気が高い。

シティオ地区から眺めるナザレの街

動画   ヨーロッパのリゾート地「ナザレ」

        ナザレの商店                      本日のディナーは海辺の高級レストラン「MIGUEL」        先ずはスープ。

   いやあ〜、ビックリ! イワシじゃないか。日本では捨てられる魚?   さすがにワインは旨い。              しょうがないから、ナイフとフォークでいただきます。

                        朝の散歩                                        赤と白のツートンカラーが奇麗!

  ☆ カルダス・ダ・ラィーニャ 

「王妃の湯治場」、鉱泉病院がある。朝市を冷やかす。               オレンジ8個で40円。

   ☆ オビドス 

 オビドスは城郭都市。城壁の中に佇む町は、白壁の家や石畳の路地が中世の雰囲気を漂わせ、「谷間の真珠」とか「中世の箱庭」と呼ばれている。

 ローマ時代に海からの侵入を防御するために、砦が建設されたのが町の始まり。一時期、ムーア人に支配されたが、1148年にアフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)が奪回、白壁が美しい家並みに再建された。
 オビドスは1282 年から1833年約550年間、ポルトガル王妃の直轄地だった。

            オビドスの看板                                城壁は1周1.5km、40分。

            城壁の中に城                                    当時の水道橋

  

           城壁巡りは2か所                              1148年建築、今の人口は800人

周囲は田園地帯

                                城壁を歩く人

         3mはあろうサボテン                                         ポルトガルの花

地元の小学生は社会見学?

動画   ポルトガルの小学生

           サクランボを漬け込んだ果実酒 「ジンジャ」         この瓶を横にして、右のチョコレートで出来たチョコに注ぐ。最後はチョコも食べる、1杯1ユーロ。

       やはり、ビールは旨い。                    ワインも旨い、ジンジャは甘くて不味い。   ランチは豚とアサリの炒め物、非常に旨い。ジンジャは不味い。

街角でレースを編み、販売もするお婆ちゃん。優しい雰囲気が伝わる。

  ☆ ロ カ 岬 

 ユーラシア大陸最西端の。位置、北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がる。
ポルトガルの詩人
ルイス・デ・カモンイス叙事詩「ウズ・ルジアダス」第3詩20節の一節「ここに地終わり海始まるOnde a terra acaba e o mar começa)」を刻んだ石碑が立っている。また、有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書がある。5ユーロと10ユーロのタイプの証明書があるが、どちらにしても証明書には名前・日付等が入り、裏面には主要国の言葉で書かれた上記の詩(日本語もある)が書かれたものを入手することが出来る。

石碑

大西洋の海は「光る海」

黄色い「アセチリア」の花が満開

博物館に飾られた当時のポルトガル航海船

リスボンに向かう途中の海岸には地獄の門

     

王家一族の避暑地であったカスカイス

動画   ポルトガル郊外を行く

   ☆ リスボン 

ポルトガルの首都であり、ポルトガル最大の都市である。南ヨーロッパ有数のグローバル都市でもある。人口564,652人。

大西洋に流入するテージョ川の河口に位置する港湾都市である。テージョ川沿いのすぐ近くまで丘が迫っており、市街地の多くはその丘の上に発達している。そのため坂の多い街であり、別名「7つの丘の街」とも呼ばれる。これらの坂を上り下りする市電ケーブルカーが名物である。市街地はテージョ川沿いの旧市街とその北の高台に広がる新市街からなる。

15世紀はじめには大航海時代の幕開けとともに、世界貿易の中心都市となって35万人の人口を有し、当時の世界最大級の都市となった。

     

           「憂愁のポルトガル」サン・ジョルジェ城が丘の上に、夜は紫色に染まる。                           最後の夜は豪華ホテル

    

       ホテルロビーではワインのサービス                  先ずはスープ                              子牛の煮込み

   

            リスボンと対岸を結ぶ巨大橋                              「発見のモニュメント」 大航海を記念したモニュメント

   

 ベレンの塔とはリスボンベレン地区にある塔であり世界遺産に登録されている。16世紀マヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。

  

      発見のモニュメントにある、大地に書かれた日本到達の年号、1541年。                   アフリカ大陸の地図

  

動画    ポルトガル:発見のモニュメント

モニュメントの東側
  • アフォンソ5世 - 大航海時代の王
  • ヴァスコ・ダ・ガマ - インド航路発見者
  • アフォンソ・バルダイア - 騎士
  • ペドロ・アルヴァレス・カブラル - ブラジル発見者
  • フェルナン・デ・マガリャンエス(フェルディナンド・マゼラン) - 初めて世界一周を成し遂げた
  • ニコラウ・コエーリョ - 航海士
  • ガスバール・コルテ・レアル - 航海士
  • マルティン・アフォンソ・デ・ソーザ - 航海士
  • ジョアン・バーロス - 歴史家
  • エステバ・デ・ガマ - 大航海時代の船長
  • バルトロメウ・ディアス- 喜望峰を初めてまわりインド洋へ到達
  • ディオゴ・カオン - コンゴ川に到達した最初の人物
  • アフォンソ・デ・アブレウ
  • アフォンソ・デ・アルブケルケ - ポルトガル領インド第2代総督(副王)
  • フランシスコ・ザビエル - 日本へ1549年にキリスト教を伝道した宣教師
  • クリストバウン・ダ・ガマ - 航海士・騎士
モニュメントの西側
  • フェルナンド聖王子- ジョアン1世の王子、エンリケ航海王子の実弟。
  • ジョアン・ゴン・サルベス - 騎士
  • ジル・イアネス - 航海士
  • ペロ・デ・アレンケーレ - 航海士
  • ペドロ・ヌネス - 15世紀の数学者
  • ペロ・デ・エスコバール - 航海士
  • ジャコメ・デ・マイオルカ - 天文学者
  • ペロ・ダ・ゴビリャン - 15世紀の冒険家、陸路でインド到達。
  • ゴメス・イアネス・デ・ズラーラ - 作家
  • ヌノ・ゴンサルヴェス - 15世紀の画家
  • ルイス・デ・カモンイス - ルネサンス期の詩人。航海者を著作『ウズ・ルジアダス』で讃えた
  • フエレイ・エンリケ・カルバーリョ - 神学者
  • フェルナン・ゴンサロ・デ・カルバーリョ - 神学者
  • ドナ・フィリッパ・デ・ランカスター - エンリケ航海王子の母
  • ペドロ・デ・ポル トゥガル-ジョアン1世の王子

     ☆ 日本で知名度がある人物 

         

                     フェルディナンド・マゼラン              ヴァスコ・ダ・ガマ            フランシスコ・ザビエル 

 ☆ポルトガルの日本攻略と深謀遠慮(遠い将来のことまで考えて周到にはかりごとを立てること。)

 ポルトガルは大航海政策で世界に植民地を作り、本国に財を送り込むのが目的であった。
そこで活躍したのが、上記の3人。マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマが世界航路をして寄港地を作る。そのあとで、ザビエルがキリスト教を広めて人心の心をつかみ、多くの信者を作り、植民地化するという図式である。

 ポルトガルは布教と貿易を同軸にしていた。すでにこの時期、スペインはフィリピンをキリスト教会が侵略の先兵として果たしており、ポルトガルもザビエル以下修道士が日本征服論を漏らしており、その後豊臣太閤によってキリスト教禁止令が出され、宣教師は国外追放となる。

 古今東西、宗教は人心の不安等を救うためのものであっただろうが、世界の先進国のどの国も目的は違っていた。多くの後進国が植民地として支配される時、まず宗教で人心をつかまれ(あえて表現をきつくするならば惑わされ)、財は没収、略奪、南アメリカのインカ帝国の様にスペインによって民族が滅ぼされる悲劇さえ生まれている。
 宗教の目的は崇高であろうが、それを利用する時の権力者がうまく利用するのが歴史上の結末といえよう。

○銀の世界的流通と日本銀 ポルトガル人が種子島へ上陸してからは、ポルトガルのアジア貿易は日本銀を  中心に三角貿易を展開するようになる。
 ?まず、中国で安い生糸を購入。
 ?生糸を日本に持ち込んで、銀と交換する。
 ?日本の銀をもとに、中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料を買い        つける。香辛料は肉の保存のためヨーロッパでは必須商品。
 ?それをヨーロッパに持ち帰り、大きな利益を得る。

三角貿易 

○中国の銀の需要 当時中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。それまでは銅を貨幣としていましたが、海外に流出しすぎて国内では枯渇していました。そこで紙幣にしましたが、紙幣は信用がなく、やがてインフレが起きて紙くず同然となりました。そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。

日本の鉄砲の需要   石見銀山の開発が始まった頃の日本は各地の戦国大名が戦いを繰り返していた時代です。 鉄砲を制する者、日本を制するでポルトガルは鉄砲を日本の種子島へ導入した。
 17世紀前半になると日本での銀生産は年間20万?にのぼり、世界の銀生産量の3分の1に相当しました。

○ポルトガルのアジア進出 ポルトガルは香辛料を求め東南アジアに進出し、さらに中国にも通商を求めましたが実現しませんでした。 そのためポルトガルは正式な貿易ではなく、中国南部の商人と密貿易を行いました。 彼らは中国・朝鮮・東南アジアなど、多民族からなる密貿易集団で「後期倭寇」と呼ばれました。後期倭寇は海賊行為も行う武装集団で、ポルトガルもそれに参加しました。
やがてポルトガル人は、石見銀を始めとする日本銀のことを知り、1543年種子島に訪れ、日本に鉄砲を伝えます。

    

        ジェロニモス修道院                              ヴァスコ・ダ・ガマの墓

  

大航海時代の栄光を伝える「ジェロニモス修道院」 ステンド・グラス、装飾が往時を偲ばせる。

      

ポルトガル最大の詩人「ルイス・デ・カモンイス」の墓

        

                             大統領府                                      市庁舎

動画   ポルトガル首都リスボンの街並み

      

                                   リスボンの街並み                        歩道は昔からの石畳

コルク製品、コルクの背広もある。財布や名刺入れは飛ぶように売れる。

  

20cっもあるピーマン、キャベツの模様が緻密

                  

                    対抗馬の一人                                      現大統領 アニーバル・カヴァコ・シルヴァ    

2001年は大統領の選挙。対抗馬は4人、ポスターが国中に貼られている。しかし、現大統領(右)は1枚もビラは貼らない。金をかけない選挙に国民の支持が当然ある。1期の自信があるのだろう。二期目も当選した。どこかの国の首相とは違う。しかし課題は尽きないポルトガルである。

     ☆ ポルトガル・ワンポイント歴史 

紀元前のポルトガル        ローマの支配とローマ文化
イスラム教徒の支配から独立  アフリカのイスラム文化の支配から、レコンキスタ(キリスト教徒による復権)での文化
大航海時代              エンリケポルトガル王子の登場。新大陸ブラジル他の植民地化。地球規模に広がった帝国から富が集められ、世界征服の野望さえを持つよう  になった。一方、人材の海外流失から地方農村の荒廃を招き、経済的にも海外依存の体質は強まるばかりで国内産業は育たず、ポルトガルの絶頂期は長くは続かなかった。国の力が弱く、植民地を統制するには力が及ばなかったといえよう。
帝国の衰退と王政復古      帝国が衰退し、隣国スペインの支配が60年続く。しかし、ブラジルで金鉱脈が発見されて、植民地依存の繁栄が始まった。しかし、膨大な富は国内産業に投資されず、他のヨーロッパ先進国同様、宮殿建築などに浪費されてしまう。その結果、英国やオランダといった新興国に後れを取り、ポルトガルはヨーロッパの後進国に転落する。次の王様が体制の大改革でとりあえず復興する。
ナポレオン軍の侵入        ナポレオンが来ると、王族はポルトガルを捨てて植民地のブラジルへ逃避する。フランスの支配下で産業は興廃、植民地からの富もとまり、ポルトガル経済はたちまち逼迫。その結果、ポルトガルは当時とは逆に「ブラジルの植民地」と揶揄されるようになる。その後、ブラジルは独立。
独裁時代               王制が倒れたが、財政が慢性赤字、独裁政治で混とんとする。
現代                  無血革命で政府は民主化。しかし、当時の植民地は全て独立、植民地からの70万人からの無一文帰還者問題は今でも尾を引いている。世界の海を制覇した栄光のポルトガルの今後は?

     

動画   リスボンの向かい「クリスト・レイ」の巨大キリスト像と「4月25日橋

 4月25日橋 

 1966年に完成した全長2278mのつり橋。上段は車、下段は鉄道専用。かってはこの橋を建造した独裁者の名にちなみ、サラザール橋呼ばれていたが、クーデターで新政権が誕生したため、ポルトガル人はこの事件を「リスボンの春」と称し、革命を記念して4月25日橋と改名した。

 対岸には新興住宅地が広がり、巨大なキリスト像の「クリスト・レイ」が建つ。

          

「クリスト・レイ」 高さ110の巨大なキリスト像はリスボン全体を見渡せる。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロにあるキリスト像を模して造られた。

  ☆ シントラ 

 かつては王室の夏の離宮も置かれ、王宮とペナ宮殿はユネスコ「シントラの文化的景観」の名前で世界遺産に登録されている。また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬への観光拠点でもある。
 
8世紀ないしは9世紀には、ムーア人(北西アフリカのイスラム教教徒の呼称)が、ムーアの城跡(カステロ・ド・ムーロ)を建設したとされる。

      

     ぺーナ宮殿の看板               向かいの山には当時のムーアの城郭が残る。現在は廃墟            険しい山にあるので、バスを乗り換える

  

標高500mに建つ王宮。1850年に完成。イスラム、ゴシック、ルネッサンス、マヌエル各様式の寄せ集めだが豪華絢爛。

 

ポルトガルの学生?

 

   

                     王宮のガイドさん                      リスボンのガイドは河内さん。ブラジル生まれの日系三世。ポルトガルに20年在住。

  

                        これも魔除け                                     ポルトガル国旗がひるがえる

     

                    リスボンの水道橋                              「リスボンの夜」の最後のディナーはこのレストラン

   ポルトガル風タコのリゾット 

   「パシュテイシュ・デ・バカリャウ」 干しダラのコロッケが前菜   「アローシュ・デ・ポルヴォ」 タコのリゾットが名物       デザートはアイスクリーム

    

               コルクの木、皮をはがして利用する。                はがされたコルクの皮、これから加工する。

 コルクとは 

コルクは本来はコルクガシの樹皮である。採集する際に形成層などの生きた組織を痛めないように、樹皮のみをはいで製造する。コルクガシを植樹後、数年を経た段階で、第1回の剥ぎ取りを行う。このときに得られた樹皮(バージンコルク)は表面が亀裂や凹凸に富み、加工製品の素材としては適さない。そのため、洋ランのような熱帯性の着生植物を着生状態で栽培するときの植え付け材として利用される。
 その後は数年ごとに再度厚く成長した樹皮を剥ぎ取っていく。この2回目以降に得られた樹皮は表面が平滑な均質性の高い材質であるので、打ち抜いてワインなどの瓶の栓を製造する。
 剥ぎ取られた樹皮はまず高温蒸気処理を受ける。これによって樹皮は弾力を増やし、丸みがとれて平らになり、打ち抜きやすくなる。打ち抜かれて残った樹皮は粉砕された後に接着剤と共に圧縮され、圧搾コルクとして利用される。

 主な生産地はポルトガルであり、全世界の生産量の約52%を占める。ほかに、スペイン(29.5%)、イタリア(5.5%)、アルジェリア(5.5%)、モロッコ(3.7%)、チュニジア(2.5%)、フランス(1.1%)などで生産される。

 代表的な利用としてはワインや、野球硬式球の芯、バドミントンのシャトルなどに使われている。

 コルク栓を打ち抜いたあとの端材は、粉砕して成型加工され、フローリング用床材や断熱材など、さまざまな用途に供される。

 ルアーフライフィッシング用の釣竿のグリップ部分にもよく利用される。滑りにくく竿の感度がダイレクトに手に伝わり、水濡れに殆ど影響されず、なにより風合いがよいため多くのルアー、フライ愛好家に好まれている。

 ポルトガルの土産物品として、財布、名刺入れ、帽子、バック、背広まであった。

 ポルトガルを旅しての感想

 ポルトガル人と接して、そして聞いてのポルトガル人の気質は非常に日本人に似ている。鉄砲伝来の時に、気質まで伝来したのかとさえ思われる。
代表的な点は次の通り。

 ・ポルトガル人は謙虚で穏やかである。同じラテン系の国だが、スペインやフランス、イタリアの陽気と無責任さは感じられない。
 ・ポルトガル人はドイツ人、日本人と同じく真面目。
 ・日本人と同じく機械に強い。
 ・米が主食の一つである。
 ・身長も日本人とほぼ同じで、髪と目の色素が濃く、黒い。
 ・海に面していることからも、魚料理を好み、濃すぎない味付けである。
 ・女性は刺繍をたしなみ、魚料理も得意。
 ・街が奇麗で、きれい好き。

ポルトガルはよくポーランドと間違われるそうだ。語呂が似ているからだろうか?
ポルトガルは治安もよく、日本人に似ているせいか、どこに行っても外国にいると言う違和感があまり感じられない安心感がある。

 昭和の文豪、壇一雄が、氏の姓と同じ発音のポルトガル・ダンワインを愛飲していたことでも知られている。氏はポルトガルに1年4ヶ月間滞在し「火宅の人」を執筆したが、その間「赤、白のダンワインを何百本抜いたことか」と随筆に記述するなど、ダンワインへの特別な思い入れがあったことが伺われる。
多分、ポルトガルの住み心地が良かったのだろう。

西ヨーロッパの景色は素晴らしかった。ジンジャは甘すぎて不味かった。                                        終わり

参考文献
 ・ポルトガル日本交流史   彩流社
 ・地球の歩き方        ダイヤモンド社
 ・ウイキペデイア

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