ルーマニア紀行

ルーマニアはドラキュラの国


   ◎ 位置とルート図

  

 旅のポイント

2,011年6月、ルーマニアを旅した。
以前はヨーロッパの火薬庫と云われたバルカン半島に近いが、今は平和が続いている。しかし、独裁者チャウシェスク大統領の恐怖政治は記憶に新しい。

ルーマニアと云えばチャウシェスク、そしてドラキュア、コマネチしか頭に浮かばない。 民主化されたルーマニアとワインで有名なルーマニアを見るのが楽しみである。


   ◎ 国境を越えて入国

ブルガリアからドナウ川にある国境の橋を通過してルーマニアへ
上の看板「Romania」、左はEUの国旗、右がルーマニア国旗

ドナウ川
ドナウ川はドイツが水源地、ヨーロッパの17カ国を通過し、長さ2860km(日本列島は2,000m)でその内、30%近くをルーマニアの国土を通過、最後は黒海へ。

  動画   ドナウ河のさざ波    http://www.worldfolksong.com/songbook/classical03/waves_of_danube.htm


 ルーマニア・ワンポイント情報

 ・面積    日本の本州と同じ        ・人口   2,150万人           ・首都   ブカレスト (人口195万人)
 ・民族    ルーマニア人89%、ハンガリー人7%、ドイツ人、ロマ(ジプシー)人他   ・宗教   ルーマニア正教87%
 ・言語    ルーマニア語           ・EU    2007年加盟(通貨はまだ)
 ・主要産業 金属(鉄鋼、アルミ)、工業(機械機器、繊維)、鉱業(石油)、農業(小麦、トウモロコシ)


国境を超えるとロマ(ジプシー)が車のライトを勝手にサッと拭いて金をせびる。たくましい、体も。

国境事務所の近くには簡易プレハブの通貨両替所が。
担当者はポケットから無造作に金を出す。大丈夫か?

道路は羊や山羊の群れ、のどか。


     ◎首都 ブカレストへ

先ずは腹ごしらえ。

ビール

旧ソ連の統治国の名残か、重厚長大の器

ブカレスト市内

ソ連共産党の指示で歴史建造物や教会は壊された

民主化され20年、平和が戻ったようだ

独裁者チャウシェスク大統領の記憶は遠のいた

首都から近い「アズガ村」はルーマニア・ワインで有名

試飲、飲み放題

シナイア地方は王侯貴族の別荘地、絵になる建造物


   ◎ ブラン城 (吸血鬼ドラキュラのモデルの城)

お城の入口の看板

ブラン城の案内看板

入口、右は民芸品店

城は高い丘の上、かなり昇る

最後の登り

王の居室

最上階に行く秘密の通路?

王妃の愛用ピアノ

屋上から中庭を見る

敵が攻めて来た時の見張り窓

ドラキュラ王は2m10cmの大男

串刺し公とも云われる。この刀で串刺しに

夜はこの黒マントをはおり吸血鬼に?

見張り窓。実はオスマン・トルコとの戦いに活躍した

殆ど要塞、見張りの城であった

 ドラキュアとは・・・

ドラキュアのモデル、ワラキア公ヴラド3世

15世紀ルーマニアのワラキアの領主。諸侯の権力が強かったワラキアにあって中央集権化を推し進め、オスマン帝国と対立した。アイルランドのブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』のモデルとなった。「ドラキュラ」のニックネームから分かる通り、吸血鬼ドラキュラのモデルとして知られる。しかし現在は、ルーマニア独立のために戦った英雄として再評価されている。

 串刺し公の由来
トルコ軍のみならず自国の
貴族や民も数多く串刺しにして処刑したと伝えられる事から命名された。このことからトルコ軍の兵士は恐れて戦闘意欲をなくしたと言われる。  

近くの民芸品店はドラキュラ一色

怖そう〜

木彫りまで


    ◎ ルーマニア通貨

ルーマニア通貨はまだユーロは使えない。国の財政が劣るためユーロ導入がEUから許可されない。国の通貨 1レイ=日本円30円 5レイは20世紀の傑出した音楽家でヴァイオリン演奏家の「ジョルジェ・エネスク」が表面に、裏面は音楽の音符が。愉快な国です。


   ドラキュラのレストラン

ルーマニア人が観光客に必ずすすめる街シギショアラ

レストランもドラキュラの店、ドラキュラがお迎え

ドラキュラの手下も歓迎

宮廷料理か? 器は立派だが・・・

スープから

本日はチキン


    ◎ シギショアラ(中世の街並み:観光客にすすめる街)

14世紀、商工ギルドによって建てられた時計塔

14世紀、山上教会に行くための階段、ルーテル派の壁画

階段を登った教会入口

時計塔から見るシギショアラの城塞都市

1191年(日本では平家時代)ハンガリーが作った街

山上教会が上に見える。石畳みの奥の黒い階段を登って行く

15のギルド(職人組合)を持つ城塞都市


    ◎ ブラショフ (美しい古都)

サスキズ要塞教会はオスマン帝国との戦いに備えて造られた。    世界遺産ドイツ商人が建設、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族によって発展してきた町

珍しい自動通貨両替機

    ◎民族音楽とフォークロア・デイナー・ショー(ブラショフ)

歓迎のホルン演奏

料理もフルディナー、先ずは前菜

音楽を奏でる両サイドにテーブル席

    動画・・・・民族演奏 http://www.youtube.com/watch?v=W1OvISDWtgE

ガイドのアンドレイ君がルーマニア・ワインのソムリエ役

小雪そっくりのお姉さん

ワイン担当の彼

テーブルには5つのワイン・グラスで飲み比べ

次はスープ、その後はワインで酔って写真取れず

民族衣装の綺麗ドコロが続々と登場

最後は客も一緒に国際色豊か。ワインに酔い、踊りに酔う、翌日朝はベッドにいました。


スファルトゥルイ広場の果物屋

ルーマニア正教の「聖ニコラエ教会」1760年建造

「黒の教会」 高さ65m、14世紀建立、ハプスブルグ軍の攻撃で黒こげ


  ◎ シナイア (王侯貴族の別荘地)

奇岩怪石、標高800mの避暑地

シナイア僧院はこの反対側

シナイア僧院のフレスコ画

ルーマニア正教では年に数回、死者に備えるため食べ物を持ちより、お参りの後は通りがかりの人に振舞う習慣。

牧師さん


   ◎ 夏の離宮 ペレシュ城

果物売り

若者達

こちらは、もっと若者

ペレシュ城はルーマニア王室の夏の離宮。ルーマニアで最も壮麗な城。部屋数は160

ルーマニアは中欧で唯一のラテン系、だからガイドのアンドレイ君もラフ、態度は一見生意気、こわもて、しかし魅惑的

王室の王様カロル1世とお妃

すぐ近くにあるペリショール城は、カロル1世の狩猟用の城

独裁者チャウシェスク大統領の別荘

城見学のお姉ちゃま

こちらはもっと美人?

   ◎ブルガリア名物料理 「トウキトゥーラ」

前菜だけでおなか一杯

鹿の角、別荘地故山の中、熊も鹿もいる

ビール・カップ

トウキトゥーラは豚肉料理

風車

民芸品売りのお姉ちゃま


    ◎ ルーマニアの新聞

東北大震災のニュース写真。 右下が津波のすぐ後、上がかたずいた写真、驚異的な日本の復興と紹介


   ◎ 首都 ブカレスト

凱旋門、第一次世界大戦の勝利を記念して1919年建つ

1989年民主革命の銃撃戦の舞台、革命広場の向こうは旧共産党本部

革命広場の旧共産党本部テラスでチャウシェスク大統領は最後の演説をしたが、群衆のブーイングに負け、屋上からヘリで逃亡、その後処刑された。

 動画・・・・凱旋門  http://www.youtube.com/watch?v=X5cteEmr8sc

独裁者チャウシェスク大統領の暴挙で64,000人が銃殺、追悼のボードには全員の名前が掲載されている。革命広場を囲むように、右側に旧秘密警察ビルが地下で共産党本部などとつながる。

今も広場には犠牲者に花束が添えられている。


    ◎「国民の館」 (実は大統領の私利私欲の建物)

負の遺産:国民の館。 日本円で当時1,500億円を投じられた故チャウシェスク大統領の巨大な宮殿。私欲の象徴。

 動画・・・国民の館 http://www.youtube.com/watch?v=eb6lRhG4vbA

国民の館を囲むように共産党のビルが立ち並ぶ

今は民主化で平和、花嫁さんが記念写真

笑顔がこぼれる花嫁。20年前には想像出来なかった。


ホテルの隣には、世界各地にスーパーマーケットチェーン を展開する、売上世界2位のフランス企業カルフール

カルフールの中には日本の「ダイソー」もある。


 ◎ 歴史概略

時代

出来事

時代

出来事

紀元前8世紀ダキア人(現のルーマニア地区)が最初の国家1914年第一次大戦、英、仏、露側に付き勝利
106年ローマ帝国とダキア人が合体しルーマニアの原形となる1930年第二次大戦、ドイツ側に付き敗戦
3世紀西ゴート人が支配1945年〜1989年(44年間)ソ連の統治下で共産党政権
14世紀ドラキュアのモデルとなるハンガリー宗主国と反ハンガリー派公国が誕生するがオスマン朝の支配下となる1945年独裁、恐怖政治のチャウシェスク政権が続く
18世紀ロシアの介入、しかしオスマンに敗れる1989年全国に抗議行動、チャウシェスクは処刑。民主化で西側に接近
18世紀後半両公国統一される2004年NATO加盟
1878年オスマン朝から完全独立2007年EU加盟


    ◎ ルーマニアの有名人

女子体操の金メダリスト・コマネチ、左は米国ライス元国務長官

悪名高いチャウシェスク元大統領と妻の元副大統領

ドラキュラ


 独裁者チャウシェスク元大統領夫妻・・・・・

本名ニコラエ・チャウシェスク

大統領任期は 1965322 ? 19891222日

共産党時代のルーマニアを象徴する独裁者として有名である。

ルーマニア革命によって政権は倒され、裁判を経て最期は妻・エレナとともに1989年12月25日公開処刑銃殺刑)された。死刑執行人の1人は、後に以下のように述べている。「あれは裁判ではなく、革命の最中の政治的暗殺であった」

チャウシェスク夫妻の処刑の様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。日本でも各テレビ局が一斉に放送した。中でもフジテレビは深夜時間帯に報道特別番組「チャウシェスク処刑」を組み、数時間にわたるビデオの映像に日本語の字幕をつけて全て放送した。

しかし、199912月、革命10周年に当たってルーマニア国内で行なわれた世論調査によると、6割を超える国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化したことなどから国民の不満が高まり、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発した。現在もチャウシェスクの負の遺産として残されている国民の館は観光地化され、世界中から多くの人々が訪れている。

エレナ・チャウシェスク

勉強が大の苦手で、小学校4年生の時に14科目中9科目で落第を取ったことを期に学校を中退し、後にブカレストの工場で勤務。その後チャウシェスク大統領と結婚

1960年代になると博士号を取得、科学研究所所長となったが、エレナ自身は学校を中退しているため、この博士号は不正な取得によるものとされる(水素の元素記号すら知らなかったという)。

1965に夫が党の中央書記長になると、ルーマニアの政治的な偶像として注目を集めるようになる。1971中華人民共和国への外遊で毛沢東夫人の江青が政治的に影響力を持っていることを知ると、自分も同じような役割を担うことを望み(この時、江青から「指導者の妻はもっと政治に関わるべきだ」とのアドバイスを受けたとされる)、1973に政治執行委員会の一員となった。1980には第一副首相の地位にまで登りつめた。さらにこの時期には、夫と共に個人崇拝を強め、科学者としての権威を高めようとした。他人に書かせた100以上の論文を発表し、名誉博士号の収集に熱中した。また、国庫金を利用してルーマニア各地に別荘を作り、一般国民とはかけ離れた大宮殿に住む優雅な生活をしていたという。

俗に言う、夫である大統領を尻に敷いて政治を狂わせた一人とも言われている。


    ◎ 帰 国

中継地、ドイツ・ミュンヘン国際空港

ルフトハンザ・ドイツ航空で往復、帰国の途に。

 感想・・・

 ルーマニアは民主化され約20年経過、平和になりつつあるが経済が及ばないようだ。ヨーロッパでも有数の、貧しさに耐えている国の一つのようだ。しかしEUに加盟して4年、今後念願の通貨統合がされると道は開けるのだろう。なにぶん国民の平均年収が日本円で50万円程度、通貨が違うとはいえ、比較にならない。ちなみにスーパーでビールは500ccが70円だ。物価は日本の4分の1程度とはいえ大変であろう。

 リビアや北朝鮮の現在を思う時、ルーマニアも同じ状態であったと思うと心が痛む。

 ルーマニアの歴史は常に支配される側。
ローマ帝国、西ゴート人、ハンガリー、ハプスブルグ家、オスマン・トルコ、そしてロシアの共産党による44年の統治、更に最も悲惨な独裁者チャウシェスクによる恐怖政治と続き、国民は2,000年にわたって忍耐を強いられてきた。

 ガイドのアンドレイ君は現在30代、父親が当時外交官で日本勤務、幼い時を日本で過ごしたので日本語は堪能。父親はチャウシェスクの政府勤務であったが、日本勤務なので難を逃れたのであろう。彼は今は日本語ガイドをしているが儲からないのでやめると言う。

 現在、IT関連の企業を立ち上げ、将来に夢をつないでいるようだ。IT ならば、世界中の国を相手に商圏拡大できるし、何処の国に住んでも構わない。今や1つの国に縛られる時代ではないとしっかりした考えを持っている。

意地悪な質問をしてみた。
1. 独裁者チャウシェスクをどのように見ますか?   「あまりにも自分が見えなくなり、舞い上がったのでは・・・」

2.宗教をどう見ますか?                言葉はなく、鼻にしわを寄せ大きく首を振っていた。

 どの国へ行っても、若者が今後国をささえて行くだろう。ささせてもらわねばならない。
以前とは違い、どの国も教育が充実し、インターネットで情報が得られ、良識が常識を抑えて平衡感覚が養われる。常識はその時代の周りの考え方だけで決して正しいとは思われない。科学が理性を超越する時代とはいえ、正しい理性は常に持ちたいものだと歴史を見て深く考えさせられた旅であった。

                                                                                                 ルーマニア編 終わり


                                                                            参考文献                                                                                                                                                                     

                                                                                   ・ルーマニア政府観光局
                                                                                  ・地球の歩き方 ダイアモンド社
                                                                                  ・Wikipedia 百科事典

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