セルビア紀行

ベオグラードの街を流れるドナウ川とサヴァ川の合流地点。この地がバルカン半島の戦略上の基点ゆえ、140回もの戦いが行われ、その度に破壊されてきた。

 旅の初めに・・・

 2012年4月、バルカン半島旅行の折、セルビア旅行も計画した。

 セルビアと聞けばコソボ紛争、終結してからまだ10年少々。NATOから空爆を受けてビルの廃墟が生々しい映像が記憶にある。欧州の、ヨーロッパの火薬庫と言われて久しいが、その後の復興は?

 宗教対立、民族対立、領土対立と紛争が絶えなかったバルカン半島をじっくり観察してみたい。


          ☆ ワンポイント情報

 ・国名     セルビア共和国          ・民族   セルビア人83%、アルバニア人、ハンガリー人
 ・面積     北海道と同じ            ・宗教   セルビア正教
 ・人口     735万人              ・言語   セルビア語
 ・首都     ベオグラード(人口175万人)  ・産業   サービス業(58%)、工業(29%)、農業(13%)


          ☆セルビアとは

 かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。

 首都ベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで、一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日モンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。

 第2次世界大戦後にスロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6共和国で誕生したユーゴスラビア連邦は完全に解体した.

 セルビアはコソボを自国の不可分の領土であるとして、コソボの独立を認めていない。セルビアの同意のないまま、国際的監視下にあるコソボが一方的に独立することに対する国際法上の懸念などにより、コソボの独立に明確に反対の意思を表明する国も多く、コソボの独立を承認している国連加盟国は2008年末の時点では80カ国程度に留まっている。


       ・ズラティボール・・・高原保養地

ボスニアとの国境近く、セルビアの高原保養地

標高1000mを超えるため、夏は涼しい

夏はハイキング、冬はスキー



      ドルベングラード

 2004年に制作されたセルビア映画「ライフ・イズ・ミラクル」の舞台建設の場所。

 1992年、国境近くのボスニアの村で暮らすルカは、鉄道建設のために働くセルビア人技師。
 ある日、息子のミロシュが兵役へ行くことになり、妻は、ミロシュの壮行会で出会ったミュージシャンと駆け落ちしてしまう。

 10年ぶりに一人暮らしを楽しむルカに、やがて、ミロシュが敵の捕虜になった知らせが届く。気が気でないルカに、村の悪戯者トモがムスリム人看護婦サハーバを連れてきて、ミロシュとの人質交換に使うよう仕向けるが…。

映画村入口

監督が気に入り、この村を買い取ってしまった

映画用の車

教会も作った

ユニークな教会の造り

村の家もセットそのまま

造った映画はこちらで見られる

ボスニア戦争中の愛の賛歌だが、何を訴えたか。

野の花

野の花

ホテルのユニークな建物

ランチ・タイム

ポーク・ステーキ

セルビアも緑が多い



      ☆シロゴイノ村

 セルビア西部の村。ズラティボル山地の高原地帯に位置する。
 郷土の伝統的な集落を復元した野外博物館があり、観光地として知られる。40を超す建物がある。

入口看板

山村の復元

観光客に馴れているワンちゃん、遊び過ぎて一休み

伝統家屋に住むお婆ちゃんが案内

昔のかまど

ジャガイモ・サービス

隣は家族の寝室

鍛冶屋、チーズパン屋、カフェなど40の建物

ミルヘンチックな景観

伝統手編みセーター、5,000円也

日本人は皆さん買われるようです


       ☆ベオグラード(首都)

 セルビア共和国の首都であり、ドナウ川サヴァ川の合流地点に広がっている。
かつては
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都であり、旧ユーゴスラビア地域で最大の都市である。

 ヨーロッパでも最古の都市の一つであり、考古学的な調査では、同地における人の居住は紀元前6千年紀にまでさかのぼる。ヨーロッパ最大の前史文明の発祥の地である

 ベオグラードは戦略的拠点として、町は古代より現代までの間に140回にわたって戦いの場となった。
ベオグラードはオスマン帝国と
ハプスブルク君主国に交互に支配され、セルビアの首都としての地位を回復するのは1841年のことであった。

サヴァ川に架かる橋

右がドナウ川、ひだりはサヴァ川。前方がベオグラードの街

バルカン半島の交通の要所故、近隣諸国や大国から、有史以来140回の破壊を受けてきた。まさに欧州の火薬庫!

動画・・・ドナウ川とサヴァ川

コソボ紛争で、NATO軍から空爆を受けたビル

この通りの名前は「空爆通り」

戦争の記憶を無くさないために、破壊されたビルは保存

 NATO軍のユーゴ空爆は何故起きたのか?

 NATO とは北大西洋条約機構に基づき、アメリカ合衆国を中心とした北アメリカ(=アメリカ合衆国とカナダ)およびヨーロッパ諸国(イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・スペイン他)によって結成された軍事同盟。結成当初は、ソビエト連邦を中心とする共産圏(東側諸国)に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であった。

 コソボにはアルバニア系(アルバニアはコソボの南西の隣国)の人々が多く(200万人の9割)住んでいたが、1998年〜1999年、セルビア共和国はこれを弾圧し排除しようとした。このいわゆる「民族浄化」をやめさせるために、アメリカやヨーロッパ諸国を中心としたNATO軍がユーゴを攻撃し、その結果、セルビアは和平を受け入れる事で終結したが、多くの死傷者が出た。

 そもそも、ユーゴスラビア(その後セルビア)とコソボの紛争は、バルカン半島が文明の十字路という現象から発生した。
 
 この半島に含まれる国は、ギリシア、ブルガリア、アルバニア、旧ユーゴスラビア(故チトー大統領が率いていたユーゴスラビア社会主義連邦共和国=
マケドニアセルビアボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアスロベニアモンテネグロの6つの国家からなる連邦国家)、それにルーマニアの一部とトルコの一部である。

 古今東西、この地は領土拡大や植民地化で、セルビアのベオグラードは140回以上の戦いの場となってその度に破壊されてきた歴史がある。

 更に今回は宗教上の対立が絡んでいた。マケドニア人、セルビア人とモンテネグロ人は、東方正教会に続している。ところがクロアチア人とスロベニア人はカトリック教徒
アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナはイスラム教と3つの宗教で対立の構図である。

 オスマン・トルコやヒットラーのドイツなど、バルカン半島に共通の敵が存在する場合には、この地域はなんとかまとまっていた。
 チトーの社会主義時代も、戦後すぐにスターリンのソ連と決別したので、いわば東西両陣営ともに敵だったのである。

 しかし、その共通の敵が倒れると、もともと民族も宗教も違うため、細かくバラバラになってしまう事になる。

 今回は、ユーゴスラビアの正教会であるセルビア人勢力がイスラム教アルバニア人の多いコソボを攻撃した。コソボはセルビア人にとって対オスマン戦争の戦場となった一種の「聖地」。一方のアルバニア人は、セルビア人より早くバルカン半島に住みついたのは自分たちと考えている。

 そして、セルビアの大統領で独裁者とみられたミロシェヴィッチは大きく舵を切りコソボ攻撃を行った。
今日、セルビア人の間ではミロシェヴィッチを評価する声は少ない。理由としてはミロシェヴィッチ政権下ではセルビアが国際的に孤立し経済制裁によって市民生活が困窮したことや、周辺諸国の紛争に介入し、すべての戦争で“敗北”したことでセルビア人の利益を損なってしまったという事からだ。

 1999年にコソボ紛争が激化し、NATOによる空爆が始まると、街は大きな打撃を受けた。セルビア国営放送の建物が攻撃を受け、国営放送本社への攻撃では16人の技術家が死亡した。このほか、ベオグラードでは各省庁の庁舎や複数の病院、ユーゴスラビア・ホテル、ウシュチェ・タワー、テレビ塔、中国大使館も攻撃を受けた。

 NATOによるセルビア空爆は、1999年3月24日から6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、アドリア海などに展開された。巡航ミサイルトマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加した。

 しかし、NATOの協力で結果的に独立したコソボも、未だ国家承認されていない。
 2012年3月下旬現在、国連加盟193国の内、コソボはアメリカ合衆国イギリスドイツフランス日本など89ヶ国から承認を受けているが、セルビア、ロシア中国に加え、国内に独立問題を抱えるスペインキプロス
は承認を拒否している。そのため、将来的に国際社会から一致した承認を得られるかどうかは未だ不透明な状況である。

聖サヴァ教会。東方正教会としては世界最大の規模

セルビヤの大主教聖サワ

      ☆カレメグダン要塞

軍事博物館

軍事博物館

軍事博物館

公園でオセロを楽しむお爺さん・・・平和です

公園で楽しむカップル・・・平和です

セルビア正教大聖堂

セルビア正教大聖堂

大聖堂前の公園では、子供たちが伝統の、卵に絵描き大会

優勝者

表彰する牧師さん

日本から平和友好の為に贈られたバス100台

サヴァ川に建つ水上レストランでランチ・タイム

シー・フード・スープ

ここで獲れるナマズ料理

ベオグラードのマンションはユニーク。後方が高い作り

郊外にはコソボ難民の家が並ぶ

  


          ☆チトー元大統領

 チトー元大統領とは・・・

 第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり、大統領ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者である。

 「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字」と呼ばれ、俗に「そして一人のチトー」と言われた。

 ユーゴスラビアという国は、オーストリア=ハンガリー帝国が解体したため、ぽっかり空いた地域が一つの国になったわけである。このばらばらな国家を一つにまとめていたという点で、確かにチトーという人物は大したものである。しかも、ソ連と堂々と喧嘩をしたのだから。

  1980年にチトーが亡くなると、「欧州の火薬庫」と言われ続けた地域であった。

チトー:花の家博物館

ありし日のチトー

チトーのお墓

博物館:セルビア衣装

博物館:セルビア衣装

博物館:セルビア衣装

セルビアの野の花

セルビアの野の花

日本から贈られた桜が満開(チトー元大統領の花の家)

ディナーはミックス・グリル

ショー・タイム

動画・・・セルビアのショー・タイム

国会議事堂:大統領のミロシェヴィッチの不正怒った国民が抗議行動をし退陣に追い込んだ

共和国広場と、近代セルビア随一の名君ミハイロ公像、後方は国立博物館


年月略史
6〜7世紀セルビア人等スラブ系民族がバルカン半島に定住。
11世紀セルビア王国建国、14世紀のドゥシャン王の時代に大いに栄える。
1389年オスマン・トルコに敗北し、その支配下となる。
1878年ベルリン条約によりセルビア王国の独立承認。
1918年第一次世界大戦後、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(後、ユーゴスラビア王国)建国。
1941年第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる占領。ユーゴスラビア王国消滅。
1944年「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」(6共和国で構成)の1共和国となる。
1992年ユーゴ解体の中で、モンテネグロとともに「ユーゴスラビア連邦共和国」を建国。
1999年コソボ紛争により、NATO空爆を受ける。コソボが国連の暫定行政下となる。
2003年「セルビア・モンテネグロ」に国名変更。
2006年モンテネグロの独立(6月)により、「セルビア共和国」となる。
2008年コソボがセルビアからの独立を宣言(2月)。


 旅を終えて・・・

 日本・広島の原爆ドーム、ボスニア・ヘルツェゴビナ・モスタルの破壊されたビル群、そしてセルビアのNATOによる空爆ビル等は、戦争の悲惨さを後世に伝えるための悲惨な遺物として、あまりにも目を覆うばかりである。

 バルカン半島の国、またヨーロッパの国もあらかた見てきたが、歴史上争いが絶えない原因は民族問題と宗教問題、そして植民地化の利害対立が殆どであろうか。

 セルビアは歴史的にいろんな民族が 行き来した、民族の十字路と言われている。ドナウ川とサヴァ川が交差し、経済活動はもとより、格好の戦場ともなったのだろう。
 
 緑多い国土で、一歩足を延ばして郊外に出るとセルビアの国は非常に美しい。対立から平和は生まれない。 自覚させられた旅であった。

                                                       おわり


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