スリランカ紀行

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マチュピチュ「スリランカ版」、伝説の岩山シーギリア(世界遺産)

 旅の初めに・・・

 2013年2月、スリランカの旅を計画。スリランカに対しては昔の名前であるセイロンと云う方が自分には馴染みがある。
 セイロン紅茶で名前は世界に知れ渡っている。しかし、それ以外の知識は残念ながら持ち合わせていなかった。だが、直前の1月にミャンマーを訪れ、小乗仏教なる知識を得ていたため比較対象が出来る事を楽しみに旅路につける。

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 ワンポイント情報

 ・国名     スリランカ民主社会主義共和国    ・民族     シンハラ人(72.9%),
 ・面積     北海道の0.8倍              ・言語     シンハラ語,タミル語,連結語(英語)
 ・人口     2,000万人                 ・宗教     仏教徒(70.0%),ヒンドゥ教徒(10.0%),
 ・首都     コッテ (最大都市 コロンボ)      ・産業      農業(紅茶,ゴム,ココナツ,米作)
 ・識字率    94.2%

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     ☆出発進行

新千歳〜バンコク〜コロンボ  タイ航空

随分タイ航空にも乗りました

タイ航空はアルコールのサービスが良いので人気

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     ☆待ち時間

タイのスワンナプーム国際空港

巨大な龍? 伝説の民話か?

待ち時間6時間はちと辛い

お馴染みの居酒屋マル金へ

ビールで乾杯!

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    ☆到着

 人口は約12万人で、スリランカで5番目に大きな都市である。スリランカ最大の都市コロンボから北に約37kmの地点に位置するスリランカの主要な商業のハブの一つである。

 ニゴンボは古代から続く漁業と美しいビーチで知られている。スリランカの中でも特に西欧風のライフスタイルが浸透している都市である。
 国際空港コロンボから30分でニゴンボに到着。

気温は連日30度以上、北海道はマイナス10度

インド洋

深夜に到着、ホテルでゆっくり朝食

現地ガイドは顔に似合わず親切丁寧

先ずは両替、岩山シギリヤロックが描かれている

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      ☆コロンボ   

植民地時代の街並を残すエキゾチックな港町コロンボ

 コロンボはスリランカのかつての首都。同国の最大都市であるとともに、経済的な中心都市である。
名称の由来は
シンハラ語で「マンゴーの樹の茂る海岸」を意味する「Kola-amba-thota」がポルトガル語でのクリストファー・コロンブスの名であるコロンボに置換えられたもの。

 2011年の人口は752000人。コロンボは現代的な生活と植民地風の建築物、それに旧跡が入り混じった、忙しく活気のある都市である。スリランカの大企業の大半はその本部をコロンボに置く。

 コロンボは2000年前からローマアラブ中国と交易を持っていた。ムスリム商人は8世紀には使節を置き、シンハラ諸王国と外部の交易の大半を支配下に置いた。16世紀にポルトガル人が到来し、香辛料交易のために砦を築いたが、17世紀にはオランダに占領された。1802年イギリスのセイロン植民地の首都となった。

 1948年にはセイロン(1972年にスリランカと改称)が独立し、引き続き首都としての地位を占める。

街は小奇麗

仏教施設も多い

民族衣装オサリア姿が多い

スリーウィーラー(三輪車)はタクシー

ロータリー

市場

映画館は娯楽人気NO1

南国の赤い花が街中に

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      ☆ガンガラメヤ寺院

 ベイラ湖の湖畔に建っており、コロンボ市内で最も大きな寺院である。2月(ナワン月)のポヤ・デーには盛大な式典が開催される。

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仏教徒の信者は白い衣装

月曜日でも大変な人数

警察も警備する混み様

正面入り口

両サイドに仏像

敷地に入るには靴を脱いで

小乗仏教施設は必ず裸足か靴下で

金ぴかの仏像が並ぶ

大きく綺麗

お祈りする人が絶えない

去りがたいのか後方で座り込んでいる

寺の境内には老若男女が

赤い衣装のお坊さん

境内の提灯

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     ☆ランチ・タイム

シーフードパレス

スリランカ料理はまん中にチャーハン

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      ☆ゴール・フェイス・グリーン

 コロンボにある芝生緑地。海岸沿いに面しており日没を眺めることもできる。

 イギリス統治下であった1859年に当時のセイロン総督が発案して作られた。当時は競馬場あるいはゴルフ場として使用された。

インド洋からの風が心地よい

スリーウィーラー(三輪車)タクシーがズラリ

ヤシの木と赤い花は南国に似合う

1864年建造の英国植民地時代のホテル

ゴール・フェイス・ホテル(1864年建造)の中庭

ゴール・フェイス・ホテル

ゴール・フェイス・ホテル

インド洋の荒波

ゴール・フェイス・ホテルのプールサイト

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    ☆セイロン茶

街のスーパーへ

庶民に一番の人気紅茶

スリランカで一番の茶畑「ヌワラエリア」で製造

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   ☆街並

日本大使館

6階建ての仏教施設

仏像が多い

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      首都コーッテ

 スリランカ西部に位置する旧首都コロンボの中心部から東に約15キロの地点に位置している。
 
1985年コロンボから遷都されたが、2007年現在、国会議事堂、森林局など一部を除き、首都機能の大半はコロンボから移転していない。

      ☆独立記念広場

 1951年、サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席。「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して日本に対する賠償請求を放棄する演説を行い、日本が国際社会に復帰する道筋を作った。

 1978年、初代大統領になった。

初代大統領「ジャヤワルダナ」の像

ジャヤワルダナは親日家

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      ☆国会議事堂

湖に建てられた議事堂

現代スリランカの象徴

三井建設が建造

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     ☆夕食

スリランカ風中華料理

空芯采

チャーハン

ミートボール

豚肉

野菜

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    ☆ペラヘラ祭り

  エサラ・ペラヘラ祭は、スリランカ中部州キャンディで行われる祭り

 ペラヘラは行列を意味する言葉で、祭り自体はスリランカ国内各地で行なわれているが、キャンディのエサラの月の新月から満月にかけての2週間で行なわれるエサラ・ペラヘラ祭は、中でも最大の規模である。

 仏歯を納めた舎利容器を背に乗せた、装飾したゾウを先頭に、音楽やダンスなどの群が街中を歩いてパレードするのがペラヘラの由来となっている。

 現在では仏歯に対する祭祀であるが、祭りに仏歯が加わったのは1775年からで、以前はキャンディのヒンドゥー教の守護神であるナータヴィシュヌカタラガマパッティニの神々を祀る祭祀であった。

道路の両脇に特設会場(有料)が作られる

最初は太鼓の音で先導

楽器が続く

踊りも

坊さんが続く

座家代表や日本の竹馬の様な一団、色々の仮装が続き、像が何頭も続く

動画・・・像の行進(ペラヘラ祭り)

像まで音楽に合わせて踊りだす

悪魔?の様な変装

輪を持って踊る

電光花火をつけて

釈迦像も像にのせて

満月の世に開催

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   コロンボ→ダンブッダ(石窟寺院の街)

スリランカのホテルは停電用に部屋にローソク

スリランカの一般住宅

女性の民族衣装

村の商店

主産業は農業

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         ☆ダンブッラの黄金寺院(世界遺産)

 スリランカにおいて、最も保存状態がよい石窟寺院として知られている。黄金寺院の周辺には、確認されているだけで80以上の洞窟がある。

 黄金寺院において重要な寺院は5つであり、そのそれぞれに聖像や絵画がある。これらの聖像や絵画は、釈迦とその生涯に関連したものである。153の釈迦像、3つのスリランカ王の像、4つのヒンドゥー教の神像が祀られている。壁画の面積は2,100平方メートルに達し、絵画には、釈迦が最初に説教を行ったマーラへの説教も含まれている。

世界遺産マーク

サルが多い

巨大な大仏

岩山の麓にある黄金の大仏

後ろの黒いのが洞窟

管理事務所

ここから中へ入る

第1窟入口

「神々の王の寺」、最古の石窟。14mの涅槃仏

足の裏は真っ赤

壁一面に壁画

5体の仏像も

第2窟入口

「偉大な王の寺」最大の洞窟。幅52m、奥行き25m、高さ6m。

仏陀の生涯が描かれている

天井から聖水が落ちてくる不思議な水

56体の仏像

第3窟入口

全長9mの寝仏

57体の仏像

天井、壁には無数の壁画

第4窟

「3人の王の寺」

かなり狭くなってくる

第5窟

最も新しい洞窟。第1窟から奥へ第2〜5と続く

一番奥なので狭い

壁画

 ミャンマーの上座部仏教(小乗仏教)とは・・・

 仏教を二つに大別すると、スリランカタイミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教と、中国チベット日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。

 釈迦の没後100年ほど後、十事の非法・大天の五事などの「」(規則)の解釈で意見が対立し、教団は保守的な上座部と進歩的な大衆部(大乗仏教)とに根本分裂した

 「乗」とは教えの事で、乗り物にたとえられ、小乗とは小さな乗り物。なぜなら、出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけがさとりを開き救われる。したがって、修行をしたわずかな人が救われ、一般の人々は救われない。釈迦の没後の、長い間この思想が定着した。
 小乗仏教では修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われない。しかし、釈迦はすべての人々を救いたかったはずである、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教。大きな乗り物ですべての人々を救う事を目的とする。日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしている。

 上座部仏教は、苦に満ちた煩悩の生を解脱することをめざすことを重んじる仏教の立場。現在でもあつい信仰と僧侶への崇拝が多くの地域で見られる。

 上座部仏教(小乗仏教)はインドからスリランカへ伝わり、その後ミャンマー、タイに伝来して行った。

出口で休憩する、スリランカの若い人間仏像?

池の蓮の花

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         ☆アヌラーダプラ(世界遺産)

 スリランカにある古都である。1982年に、世界文化遺産として登録された。

 アヌラーダプラは、2500年前にあったスリランカ最古の都
 紀元前500年頃 ウィジャヤ王子が統治
 紀元前380年頃 パンドゥカーバヤ王 がこの地を首都とする
 紀元前260〜210年 
デーワーナンピヤ・ティッサ王の時代に、インドのアショーカ王の息子マヒンダ によってスリランカに初めて仏教が伝えられた。
 紀元前161〜137年 
ドゥッタガーマニー王 は侵略してきたタミル軍を阻止した英雄。
 その跡を継いだ ワラガムバーフ王はタミル軍の侵攻を許し王位を剥奪されタミル人の支配下となる。
 紀元276〜303年 マハーセーナ王 がアヌラーダプラ奪回
 紀元303〜332年 シリー・メーガワン王の時にインドから
釈迦の左の犬歯が運ばれ王権の象徴となる。
 10世紀 シンハラ王朝はタミル軍の侵略に耐えきれず首都アヌラーダプラを放棄。

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     ☆イスルムニア精舎

 アヌラーダプラに位置する精舎

 紀元前3世紀ごろ、当時の王デーワーナンピヤ・ティッサ仏教の保護を目的にこの地に建設した。

 現在は当時の僧院の一部残ったものを修復し現在公開されている。本堂には横たわった巨大な仏像がおり、その色鮮やかな色は本の浅草寺による援助でいろの塗り替えを行っている。

 近くの岩肌には御堂が造られている他、数多くの神々をモチーフにした仏教彫刻を見ることができる。また本堂の脇には寺院の北にある王宮庭園から発見された像が展示されている。

看板

恋人の像が納められている

本堂内に横たわる仏像

岩肌に掘られた仏像

通称ロックテンプルの内部

恋人の像、カーストの違いを乗り越えて

寺院外では何かの催しが

蓮の花が良く似合う

寺院に供えられた花

ひたすらお参りする女性

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      スリー・マハー菩提樹

 アヌラーダプラに位置する菩提樹

 紀元前3世紀に当時インドで栄えていたマウリヤ朝アショーカ王の王妃、サンガミッタゴータマ・ブッダの菩提樹の苗木を運び、デーワナンピヤ・テイツサ王が当時の首都であったこのアヌラーダプラに植樹した。

 紀元前288年に植樹されたもので、人間の手により植樹された樹木では最古のものである。

紀元前3世紀の菩提樹

内部の仏像

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       ☆ルワンウェリ・サーヤ大塔    

高さ55mの大塔

アヌラーダプラのシンボル

お祭りの最中、ぐるぐる回る

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ポロンナルワのホテル

昔の王都にホテルが建つ

貯水池のほとりに建つホテル

巨大な人口の貯水池

夕方、国道沿いに現れた野生の像

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     ☆ポロンナルワ遺跡(世界遺産)

 1017年に、古代シンハラ王朝は、南インドのチョーラ王朝に、崩壊させられる。
 チョーラ軍は、ポロンナルワを首都とする。

 1055年に、南部に逃れていたヴィジャヤ・バーフ1世が、チョーラ軍を撃退し、1070年には完全に追い出し、1073年に、ポロンナルワを王都とする。

 ヴィジャヤ・バーフ1世の孫パラークラマ・バーフ1世は、初めてスリランカ全島を統一する。
 パラークラマ・バーフ1世は、、灌漑設備など国力増強に努め、仏教にも力を入れる。
 やがて、ビルマやタイからも仏教僧達が訪れる大仏教都市となっていった。


      ☆クワドラングル

 クワドラングルは四囲を城壁に囲まれた方形の地で仏歯を保管する仏歯寺が建造され、当時の仏教の中心となった。
 そのなかで一際目を引くのが円形のワタターゲ。ガードストーンに彫られた像に挟まれた奥に仏像が見える。

サトゥマハル・プラサーダ、7階建ての塔。上座部(小乗)仏教の聖地

ガルポタ、石の本とも言う。長さ9mの碑文

ワタダーケ、円形の仏塔

奥に鎮座する仏像

ムーンストーン

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     ☆ランカティカラ

 ランカティラカは13世紀にパラークラマ・バーフ3世によって建てられた寺院。

 この寺院の特徴は巨大さ。
 寺院の奥には巨大な仏像がある。頭は取れているにも関わらず、高さ13mという巨大さ。

 巨大な仏像を収める寺院は高さ17.5m、幅18m、奥行きは52mという巨大さ。

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       ☆キリ・ヴィハーラ

 真っ白い大きなダーガバ。700年以上もほとんどオリジナルの塗りのまま発見された。

 キリとはミルクを意味する。

左から座像、立像、涅槃像

座像は瞑想

精神集中

立像

立像は、人生の辛さを哀れむ、悟りを開いた仏陀の姿

涅槃像

涅槃に入ろうとしており、ふくよかで優しい表情

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    ☆土産物店

何百もの仏像

表情がそれぞれ

高さ2m程度、船便で20万円程とか、床の間に如何?

買わないが見ていると面白い

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    ☆シギリヤ(世界遺産)

 スリランカ中部州マータレーにある遺跡。 

 シギリヤの遺跡は、5世紀にかっサバ1世(在位477495年)によって建造された、要塞化した岩上の王宮跡と、それを取り囲む水路、庭園、貯蔵施設などの都市遺構からなる。

 岩山の中腹には『シギリヤ・レディ』として知られるフレスコの女性像が描かれている。

 当初は500体ともいわれたが、風化が進み現在は18体だけが残る。

 シギリヤロックは火道内のマグマが硬化して出来た岩顎で、形状は楕円柱、標高約370m、岩頸そのものの高さは約195m、全方位が切り立った崖になっている。

 骨肉の王位争いの砦 

 シンハラ王朝の5世紀、ダートゥセー王の息子カッサパ1世は、王の甥であり軍指令官でもあったミガラの支援を得てクーデターを起こし、477年には父親から王権を奪取する。

 しかし平民出身の母親を持つカッサパ王は、王族出身の母を持つ弟モッガラーナに王位を奪還される事を恐れ、長らく首都であったアヌラーダプラを離れ、より安全なシギリヤへと遷都した。

 カッサパが在位にあった477年から495年の間、シギリヤは複雑な市街と防衛機能を併せ持つ都として発展し、即位から7年後にはシギリヤロックの頂上に王宮が完成する。

 一方、兄カッサパからの難を逃れていたモッガラーナは、亡命先の南インドから軍隊を引き連れ兄に戦いを仕掛ける。

 当初はカッサパ王が優勢であったものの後に劣勢に転じ、観念した王は喉を掻き切り自害、495年、シギリヤは陥落する。

 王位についたモッガラーナはシギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移した。シギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続するが、徐々に衰退。その後は16世紀から17世紀キャンディ王国がこの地を分営として利用するまでの間、記録は残されておらず、また同王国の衰退の後にも再び放棄された。

 建設から1400年の後、イギリス統治下の1875年に、イギリス人によって岩山に描かれたフレスコ画である"シギリヤ・レディ"が発見された。

観光バスが到着すると、「遺跡ヘルパー」なる集団が駆け付ける

総勢20人程度、これは世界に類を見ない珍商売

「遺跡ヘルパー」のライセンスとかを見せる。

右端の男がヘルパーの1人。この池には昔からワニが住む

 遺跡ヘルパー

 頂上まで登るのに手を貸して往復1人2000円。仕事が少ないのか、しつこく付きまとう。何度も断るが「後でね!」と云ってはまた腰や背中に手をかけて、「頑張ろうね!」 と云う。 「必要ないから来るな!」と云っても断られ慣れしているのか、めげない連中。

 こいつらはストーカーだ、とぼやく他の日本人。女性など恐ろしくなって半べそ状態。1/3位の所であきらめて引き返したようだ。

 ガイドブックに書かれていたが、何度断っても付きまとわれ、二人に隔離状態、最後に二人分の料金を請求されたが、頼んでいないと言うと木陰に連れて行かれ強引に払わされたと言う女性談。

 何度もしつこく付きまとうので、薄気味悪いスリランカのヘルパーであった。ライセンスを発行するまではもっとひどいそうであったが・・・

下には複数の貯水池

奇妙なシギリヤ・ロック

狂気の王が築いた幻の王宮

水路からは噴水が

茶色の部分がシギリヤレディのフレスコ画がある洞窟

絶壁の階段を登る

頂上左側

頂上右側

遺跡入口からシギリヤ・ロックの登り口までやや10分

まだしつこく付いてくる遺跡ヘルパー

後でね、後でねとしつこい遺跡ヘルパーを振り切るが・・・

やや半分の、「シギリヤレディのフレスコ画」頃でヘルパー?犬はいなくなる

フレスコ画がある入口

登り口からはかなり歩く。大汗をかく

駐車場がかなり下に。はるか彼方の白いのは大仏像

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     ☆シギリヤレディ(フレスコ画)

フレスコ画入口

5世紀の作品とは信じがたい

壁画の作り方。粘土で塗り固める、石灰と砂を混ぜた粘土で中塗、蜂蜜粘土で上塗り。野菜や花、葉、木の汁で赤・黄・緑の顔料で描く

何故作ったか? 妖精たちに守られ頂上で住むためとか。肉感的

かっては500人も描かれていた

現在は18人のみ

風・雨で浸食されつつある

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妖精たちに励まされ、更に上へ

中間の貯水池、登り口はもう見えない

中間地点よりやや上の広場には、ライオンの爪の形をした宮殿の入口がある。現在は前足の一部しか無い

巨大なライオンの爪

元はこんな形らしい

ライオンの爪から更に頂上を目指す

標高差180m、手すりが頼り

ようやく頂上。王宮跡、ここで王は敵の攻撃におびえていたのであろう。上まで30分程度

実際は370m

頂上は標高370m、シギリヤ・ロックの高さは190m

王のプール

登り口の民芸品店

像に乗る日本人女子大生、卒業旅行で来ましたと屈託のない笑顔

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    ☆スパイスガーデン

薬草、香辛料等の木など沢山栽培

色とりどりの花

じょれも薬草か?

正露丸の原料の木

日本に輸出する正露丸の原料

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      ☆ポロンナルワの街並

ヒンズー教の寺

商店

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        ☆ヌワラエリア

 スリランカにヨーロッパ人のリゾート地としてイギリス人に開発された地域がある。それがヌワラエリアだ。


 紅茶の栽培がはじまる前は人が定住しない未開発の地だったが、イギリス人が紅茶を持ち込んでから、英国様式の建物が次々と造られ、避暑地として発展した。

 現在でもヌワラエリアは、「リトルイングランド」としてヨーロッパの人々に親しまれている。

 リゾート地として開拓された理由には、気候のよさがある。
 ヌワラエリアは標高1800メートルの場所にあり、スリランカの紅茶産地の中でももっとも高いところに位置するハイ・グロウンだ。
 日中の気温は20〜25℃、朝夕は5〜14℃と過ごしやすい。昼と夜の温度差が激しい気候は、ハイ・グロウン特有のもので、気温の違いが紅茶の栽培にも大きく関係する。

 温度差が大きいと茶葉に含まれる渋み成分のタンニンが増え、強い個性を持つ茶葉になる。濃厚な渋みが出るので、紅茶の香りを生かすために、発酵を強くしたり、仕上げの茶葉の大きさをBOPではなく、OPタイプにしたりとさまざまな工夫をしている。


 渋みだけでなく、香りも特徴的だ。草のような香りのなかに、甘みのあるフラワリーさとフルーティーさを持つ。これもハイ・グロウンならではの持ち味だ。ブラックティーで独特な香りを堪能したい。
 小さめの茶葉や少し高度の低い地域でつくられたBOPFやFは水色がしっかりしているので、ミルクティーでもおいしい。
 ハイ・グロウン特有の気候が織り成す渋みとコクがヌワラエリアにはある。

標高1800m近い、イギリス植民地時代の避暑地

はるか下に街並が

ホテルは山の上

豪華なホテルに今回は泊まる

フロント

プールも

民族衣装のボーイ

高級避暑地が並ぶ

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      ☆セイロン紅茶畑    

ジャカランタの花も満開

高度を上げて行くと紅茶の段々畑

ホテルでは紅茶のサービス

紅茶の葉の摘み取り

工場見学、乾燥室

紅茶製造過程の一覧

スリランカの文字が

出来あがり

工場の近くの販売店

紅茶サービス

ケーキまでついてきた

さあ〜買った、買った

段々畑、紅茶畑の景観が良い

延々と続く

 紅茶の生産国

 6大生産国は、インド、ケニヤ、インドネシア、マラウィ、ルワンダ、スリランカ。

 紅茶の消費国

 1位:アラブ首長国連邦    6位:イギリス       17位:日本
 2位:モロッコ         7位:クウェート
 3位:アイルランド       8位:カタール              
 3位:モーリタニア       9位:カザフスタン
 5位:トルコ          10位:シリア  

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       ☆キャンディ(世界遺産)

 キャンディスリランカ中部州の州都。

 人口約12万人。
シンハラ人キャンディ王国(1469年~1815年)の最後の都であり、現在でもスリランカ中部における中心的な都市である。

  キャンディとはシンハラ語で山を意味する「カンダ」が転じた呼称である。

 セイロン島の中央に位置するキャンディは、スリランカの仏教聖地であり、またシンハラ人による最後の王朝の都である。その歴史的な重要性から、ユネスコ世界遺産にも登録されている。

 キャンディには、仏陀犬歯があるとされる仏歯寺(ダラダー・マーリガーワ寺院)がある。

紅茶の会社名?

英国の残した街並

標高は1800mを超える

今やリゾート地としてヨーロッパから多数の避暑客が

ケーキ

ゴルフ場も多数

キャンディの街

スリランカの新聞、字が丸っこいのが特徴

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    ☆ランチ・タイム

ビュッフェ・スタイル  チャーハン

肉類

野菜

煮込み料理

スリランカ料理は辛いが美味しい

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標高が高いので滝も随所に

湖も多い

道路沿いにある、ジャックフルーツの木と実

果物の王様ドリアンと同様、味は抜群に旨い

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     ☆仏歯寺( ダラダー・マーリガーワ寺院 )

 ダラダー・マーリガーワ寺院または佛歯寺は、仏教聖地であるスリランカキャンディに位置する寺。

 釈迦(仏陀)の犬歯(仏歯)が納められているとされる。 年代記の『チューラワンサ(小史)』によれば、仏歯は4世紀にインドカリンガ国からもたらされたとされ、アヌラーダプラのダンマチャッカ(法輪堂)におさめられて祀られ、王権の権威を保証する証となった。当時の様相は法顕の『仏国記』に描かれている。

 これ以後、王都が移動するたびごとに仏歯も移動して、現在はキャンディの仏歯寺に納められている。仏歯は仏陀の聖遺物の仏舎利として崇拝されると共に、強い力を持つものとして神のように祀られた。

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入口から寺までは遠い

立派な寺だ

国中から押し寄せる

有り難いのか座り込んで、ひたすら拝む人々

仏歯は5重の入れ物とか

金色の仏像

絵で示す仏歯

子供達もお参り

蓮の花を買ってお供え

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    ☆キャンディ・ダンス

キャンディ王朝時代の伝統舞踊

10種の踊り

ファイヤーダンス 顔や体に火をつけた松明をつける

火のついた炭の上を平気で歩く

松明を口の中にまで入れる

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      ☆ペーラーデニヤ植物園

 

 ペーラーデニヤ植物園はスリランカ中部州キャンデに位置する植物園

 14世紀パラークラマ・バーフ1世が王妃のために作った庭園が元に、イギリス占領下の1821年に現在の植物園として開園された。

 園内には四千種類以上の植物があり、著名人による植樹としてエドワード7世(イギリス王室)などによるものがある。

世界で最も巨大な竹。高さ36m、直径28cm

高木がズラリ

「この木何の木、気になる木」そう、日立の木「モンキーポッド」は枯れてしまい、分け木したのが、一年でこんなに大きくなったと言う

まるでナヨナヨと、よろめきの木と名づけました

火焔樹は街路樹

火焔樹。ジャカランダホウオウボクとあわせ世界三大花木と称される。

街の至る所に

イエロートランペット

イエロートランペットも街路樹

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    一路 コロンボへ

スリランカは日本の中古車ばかり、部品屋が多い

大木に何やら無数にぶら下がっている

コウモリでした

国道沿いでバナナや高原野菜、果物が売られている

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        ☆ピンナワラ

 ピンナワラのゾウの孤児園はスリランカにある親を亡くしたり、はぐれてしまった子ゾウを保護している施設。

 2008年現在、84頭ほどのゾウが保護されている。

 生育したゾウはその後寺院やゾウ使いの元へと引き取られていく仕組みになっている。

 1975年にスリランカ政府の野生生物保護局によってランブッカナマハオヤ川沿いにある10ヘクタールほどのココナッツプランテーションに設立されたのが始まりである。

        ☆小象の孤児院

       入口                飼育員からミルクを飲む像

 キャンディーから西に小一時間、象の孤児院と呼ばれる施設がある。

 毎日2回、小象への授乳と象の水浴びを観光客に見せている。

 水浴びはこの広大な川の浅瀬で繰り広げられる。

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川沿いにレストランが立ち並び、食事をしながら像の水浴びを見る

スリランカ料理

レストランから見える」浅瀬の川に、像が水浴びに来る

小学生の見学

国中の観光名所

小象の孤児院

お金を払いミルク飲ませ体験

体験者は女性ばかり、女性とミルクは連立方程式?

屋外運動場、集団でやって来た

迫力

大迫力、思わず後ずさり

動画・・・像の孤児院

数十頭の像が水浴び、中には寝ころんで遊ぶ像も

動画・・・像の水浴び

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    サヨナラスリランカ

最終日はコロンボの日本食レストラン

日本で働いて、ノウハウを学んでこの地で開業とか

雰囲気作りは日本

お酒も売るほどある?

寿司からすき焼きまで

さて味は・・・

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      ☆略史

年月略史
紀元前483年ヴィジャヤ王子(シンハラ族の祖といわれる)スリランカ上陸。シンハラ王朝建設
紀元前250年仏教伝来
紀元1505年ポルトガル人来航(海岸地帯を植民地化)
1658年オランダ人来航(海岸地帯を植民地化)
1802年アミアン条約によりスリランカは英国植民地となる
1815年キャンディー王朝が滅亡し,全島が英国の植民地化
1948年英連邦内の自治領として独立
1956年バンダラナイケ首相就任。シンハラ語のみを公用語とする公用語法成立。
1972年国名をスリランカ共和国に改称(英連邦内自治領セイロンから完全独立)
1978年2月ジャヤワルダナ大統領就任(実権のある大統領制の発足)
1978年9月国名をスリランカ民主社会主義共和国に改称
1983年7月


大騒擾事件,LTTEとの内戦本格化
(仏教徒とヒンズー教徒の争い)

1987年7月スリランカ,インド和平合意成立,インド平和維持軍(IPKF)がスリランカへ進駐
1987年11月憲法改正(シンハラ語及びタミル語を公用語と規定。州評議会制度を導入)
1989年1月プレマダーサ大統領就任
1990年3月IPKF完全撤退
1991年5月ラジブ・ガンディー印元首相暗殺
1993年5月プレマダーサ大統領暗殺,ウィジェートゥンガ大統領就任
1994年11月大統領選挙,クマーラトゥンガ大統領就任
1999年12月大統領選挙,クマーラトゥンガ大統領再選
2001年12月総選挙で野党統一国民党(UNP)が大勝,ウィクラマシンハ首相就任
2002年2月政府とLTTEとの停戦合意成立
2002年9月政府とLTTEとの和平交渉開始
2003年4月LTTEによる和平交渉の一時中断の表明
2003年6月スリランカ復興開発に関する東京会議
2004年4月総選挙で野党統一人民自由連合(UPFA)が勝利。ラージャパクサ首相就任。
2004年12月スマトラ沖大地震及びインド洋津波により,スリランカ北西部を除く全ての沿岸が被災し,3万人以上が犠牲。
2005年8月ガディルガマール外務大臣暗殺事件
2005年11月ラージャパクサ大統領就任
2006年2月政府とLTTEとの「停戦合意の実施に関する直接協議」
2006年7月東部水門閉鎖問題を契機に戦闘激化
2006年10月政府・LTTEによる直接協議
2007年7月政府,東部をLTTEより解放
2008年1月停戦合意失効
2009年5月政府軍,北部LTTE支配地域を全て奪取。内戦終結
2010年1月大統領選挙,ラージャパクサ大統領再選。
2010年4月総選挙で与党統一人民自由連合(UPFA)が圧勝。
2011年12月過去の教訓・和解委員会(LLRC)の最終報告書公表。
2012年7月LLRC行動計画公表

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 宗教戦争・・・

 スリランカは国民の70%がシンハラ人(仏教徒)、国民の12%がタミル人(ヒンズー教徒)で、英国の植民地時代はタミル人が英国と共同歩調で安定していたが、独立後は仏教徒のシンハラ人の影響が強くなっていく。1983年から内戦終結の2009年まで26年間、この二つの民族が大規模な民族対立を継続した。

 二つの宗教対立と、人種対立。イギリスとインドが支援するタミル人側と、シンハラ人を支援する中国の構図である。
いつの時代も世界のどこの国でもこの構図はぬぐえない。先進国の利益と資源確保で対立はやまない。

 人を救うはずの宗教が対立と争いに導く。いっそ宗教などない方が平和と言えるかもしれない。百歩譲り、宗教そのものは慈悲があるかも知れぬが、そこに介在する聖職者や国のリーダーが利用しているにすぎないと言えよう。

 スリランカでも聞いた。最近の若者の宗教観は?と聞くと、関心が無い若者が増えつつあると・・・これは喜ばしい事か、憂う事であろうか。

 100カ国を放浪する毎に聞いてみるが、若者の宗教離れが多いようだ。無理も無い。携帯電話が蔓延し、パソコンが出回り常識と良識が芽生える時代、お伽話や神話の様な宗教が、若者に疑われるのは無理も無い。

 キリストも釈迦も紀元前の人物、2000年以上も前の人物で、果たして存在したかどうかさえ定かではない、と云う学説が多い。
しかも、釈迦が菩提樹の下で6年間の断食苦行後に悟りを開いた。また腰から生まれた、生まれて7日目に歩いたとか・・・そのような話を信じる時代ではない。

 ある若者が投稿した文章→ 仏陀は断食をしたそうですが、そんなに我慢して何か悟りを開けたんですか?
「腹がへっては戦はできぬ」と言うように、お腹がすいたら頭がクラクラして思考能力が落ちるんじゃないですか? 
 素朴な疑問である。

 イスラム教も、殉教して天国へ行くと旨い物が食べられる、72人の処女と結ばれる等、無能の若者しか信じないだろう。

 いずれ宗教そのものが岐路に立つ時代が来るやもしれない。

  旅を終えて・・・

 スリランカは小さな国だが車で回ると何日も要する。観光地は殆どが仏教寺院や仏教遺跡である。
 昔も今も、国民はレジャーはそういう所に行くしかないのである。金ぴかで巨大な仏像や涅槃を見ては感動する。そして信じる。それしかないのだ。
 日本の様なテーマパークや、ディズニー・ランドがあると国としては困るのかもしれないと意地悪に考えたくなる。

 ミャンマーやスリランカの小乗仏教は、良い加減な日本の仏教よりは厳しいが、施設に入る時、必ず靴を脱がされたり、靴下さえ脱がされる。砂利道や道路さえもそうである。これには困る。寺や洞窟に行かなければ行くところが無いから始末に負えない。釈迦に変更してもらわねば・・・

 広大な紅茶畑は見所がある。その昔、イギリスが統治していたので紅茶畑になったのであろう。これがフランスやイタリアならばブドウ畑でワインの名産地になっていたのであろう。どちらも環境は似ている。

 野生の像を見た時は少し感動した。像の孤児院の小象は可愛い。

 一心不乱に寺や洞窟で手を合わせる人々を見ると、宗教観に乏しいこちらとしては複雑であった。
残念なのは、ミャンマーで見た托鉢が全くない事と、女性の坊さんも見当たらなかった事である。所変われば、かなり違うのである。

 自然が素晴らしいスリランカであった。                          終わり

      

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