ウズベキスタン紀行

ウズベキスタン:ヒワにある「カルタ・ミナル」はイスラムの礼拝告知(アザーン)を知らせるミナレット(塔)。見事なイスラム建築で青い色が鮮やか。

 旅の初めに・・・

 2012年5月、中央アジア5カ国の旅を計画。ハイライトはウズベキスタン。チンギスハンが破壊し、ウズベキスタンの英雄チムールが建設したと言われるウズベキスタン。

 青の都と言われるサマルカンドは、モスクやミナレットが鮮やかな青。そして「聖都」ブハラは茶色の街。更にヒワは「オアシスの街」として街全体が「城壁都市」または「博物館都市」と言われる。

 見どころ満載の都市として、イスラムの建物の鮮やかな色彩感覚には少なからず興味がわく。うたい文句にひかれた、それは「イスラム世界の宝石」とある。期待して出発する。

数字は宿泊日数

     ☆ ウズベキスタンとは

 国境を最低2回超えないと海に達することができない、いわゆる「二重内陸国」の1つである。国土の80パーセントはキジルクム砂漠で覆われており、あとは非常に乾いた荒れ地が多く、まともに耕作できる地域は僅か10%ほどしかない。

 「シルクロードの中心地」「ユネスコ世界文化遺産の宝庫」として、 青の街サマルカンドや茶色の町ブハラヒバシャフリサーブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名。、ソ連からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの観光客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。これを受けて政府による観光客誘致が盛んに行われていることから、タシケントは海外のホテルチェーンの大規模ホテルが多く運営されている。

       ☆国境→タシケント(首都)・・・ウズベキスタン入国1回目

 歴史的なオアシス都市。都市名はテュルク語で「石の町」という意味である。オアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。
 
タシケント地下鉄は、中央アジア初で、ソ連時代にソ連で7番目の地下鉄として1977年に開業した。ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多い。

 独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義の動きも出ている。

                

カザフスタンのタラスからウズベキスタンのタシケント(首都)に入る国境。国境では税関手続き等で2時間を要す


タシケントの看板

バス停

街のロータリー

タシケントのビル街

本日のホテル

ガイドのトルキン

ホテルの庭

ホテルの庭

たたずむウズベキスタンの女性

ガイドの携帯電話、娘さん。NHK特集のガイドも行う日本通

    ☆ ワンポイント情報

 ・国名    ウズベキスタン共和国     ・民族構成    ウズベク人78%、ロシア人5%他
 ・面積    日本の1.2倍           ・宗教       イスラム・スンニ派
 ・人口    2,780万人             ・言語       ウズベグ語、ロシア語
 ・首都    タシケント(人口220万人)    ・産業       綿繊維産業、食品加工、機械製作、金、石油、天然ガス 

     

    ☆タシケント(首都)観光

ナヴォイ劇場

ナヴォイ劇場の花

第二次世界大戦後、ソ連から捕虜としてこの地へ回され、ナヴォイ劇場の建設に強制従事させられた説明の碑

日本人が建てたこの劇場は、地震の時にもびくともしなかったという

アミール・チムール広場

アミール・チムールの銅像

アミール・チムール

 ティムールとは・・・

 ティムール(1336- 1405年)は、中央アジアモンゴル系軍事指導者で、ティムール朝の建設者。
 20代の始め頃には300人の騎馬兵を従える
西チャガタイ・ハン国(西トルキスタン南部)の有力者へとのし上がっていった。

 その後、チンギス・カンの子孫にあたる王女を妃に娶って、「チンギス家の娘婿(キュレゲン)」を称した。1370年に中央アジアにティムール家の権力が確立し、ティムール家による支配が行われたので、これをティムール朝(ティムール帝国)と呼ぶ。

 1382年にはモスクワ大公国へ進撃し戦勝に沸くモスクワをも焼き払った。1386年から始まる3年戦役アフガニスタンアルメニアグルジアなどまで支配下に置いた。1392年から始まる5年戦役でイランへの遠征を再開した。ムザッファル朝を滅ぼしてイラン全域を支配下に入れた。

 1398年インド遠征を決行し、デリー・スルタン朝を破ってデリーを占領した。1399年シリアに入ってダマスカスを占領。

 1402年モンゴル帝国の西半分がほぼティムールの支配下に入り、オスマン朝、マムルーク朝がティムールに名目上服属、ティムールの支配地域は大きく拡張した。

 1404年末、20万の大軍を率いてを破り、の旧領奪還を目指し中国遠征を開始した。しかし、ティムールは1380年代末より患っていた病のため(遠征開始時は既に容態は悪かった)遠征途上の1405年2月18日の夕刻、オトラルで病没した。臨終の言葉は「神の他に神なし」と伝えられている。

人物・逸話

  • チンギス・カン以来の軍律や10進法で編成された騎兵にアジア地域の先進的な技術産業を活かした重装を施し、大砲や各種機械、爆発物、鉄砲を備える歩兵や工兵を付随させる等、軍備にも意を注いだ。
  • 軍事にかけては天才的で、生涯に交えた戦いではほとんど負けたことがなく、また農村や都市の持つ経済的価値をよく理解しており、彼の帝国に於いてはヤサ法典が施行された。また、彼が科学者法学者知識人技術者に対して非常に敬意を払っていた事もよく知られている。
  • 都としたサマルカンドには様々な施設が建設・整備されて繁栄を極め、チンギス・カンと比較して俗に「チンギス・カンは破壊し、ティムールは建設した」(チンギスにとっては言い掛かり以上の何物でもないが)と言われる。しかし敵が抵抗した場合、例えばデリー占領時は捕虜数万人を処刑、バグダードを占領した時も徹底した略奪・破壊を加える等、外征先では冷酷な破壊者でもあった。

 ティムール帝国の版図


      ☆ウズベキスタン郊外

灌漑施設が充実

世界有数の綿花輸出国

日本の1.2倍の国土

コウノトリの巣が延々10kmに及ぶ

この地域は、小川にドジョウなどの餌が豊富

中央アジアの中でもタジキスタンに次いで貧しい国。国道は穴だらけ、バスが40km程度しかスピードを出せない。

      ☆タジキスタン→タシケントへ・・・(ウズベキスタン入国2回目)

五カ国を出たり入ったり

雪の山脈も越えていく

砂漠地帯が多い

機中の親子

母親そっくり

テルメズの空港

ランチ・タイム:スープ

ケバブ

ウインドウ

     

    ☆ヒワ観光の拠点ウルゲンチへ

 
 歴史的都市。人口13.9万人。「草原の港」として経済的に発展した。旧ウルゲンチの商業活動を引き継いで、綿花や絹の対ロシア貿易で成長を続け、ヒヴァ・ハン国でヒヴァを凌ぐ貿易都市となっていった。現在のウルゲンチは完全なソ連式の町となる。

ウルゲンチへ、プロペラ機

ウルゲンチ空港

ウズベキスタン航空

    ☆城壁都市ヒワ

 ここヒワは、町そのものが博物館ともいえる城壁都市で、外敵の侵入を防ぐために2重の城壁で守られ、内城には数多くの遺跡(モスクは20、メドレセ20、ミナレットは6つ)が復元されている。

 その美しさは、サマルカンドやブハラと並んで、「中央アジアの真珠」とうたわれるほどである。この地域は年間300日は雨どころか雲さえ見えないという峻烈、過酷な地である。しかし、今では灌漑がすすめられ、旧ソ連でも有数の綿生産地となっている。

 1990年ユネスコ世界遺産に登録された。「城壁の都市」、「博物館都市」とも揶揄されている。

世界遺産への入口「アタ・ダルバザ」(西門)

綿の木

ジュマ・モスク(213本の柱)

  イスラム・ホジャ・メドレセ

土産物店

土産物店

  イスラム・ホジャ・メドレセ

カルタ・ミナルの塔

カルタ・ミナルの塔

タシュ・ハウリ宮殿

カルタ・ミナルの塔

イスラムの土産物

イスラムの土産物

タシュ・ハウリ宮殿

建物の屋上から見るヒワの建築群

建物の屋上から見るヒワの建築群

         動画・・・ウズベキスタン:ヒワの街並

屋上から

城壁内の婦人達

城壁内の婦人達

213本の木の柱、ジュマ・モスク

ランチ・タイム

今日はチャーハンもどき

バフラバン・マフムド廊 

この地域の国の女性は両方の眉が続いているのが美人の要素

シルクロード図。東は中国から西はローマまで。中央アジアはシルクロードの交差点

夕食(野菜が豊富)

夕食(スープはどこでも美味しい)

夕食(煮込み)


    ☆ヒワ・写真教室(朝焼け)

 同行者で、日本人写真家が数人いて「写真教室」を各々開いてくれる。

 本日は写真家・秋山正太郎の弟子?と言う年配の人が丁寧に、丁寧に構図やらを教えてくれる。朝焼けの影の撮り方レッスンである。師匠のカメラは見るからに高額、私のは安いディジカメ、腕前以前の問題である。1時間後ろについて回る。出来栄えや、いかに・・・


     ☆郊外

この辺の国の電柱は、コンクリートに結ぶ

のどかな農村地帯、機械化など殆ど見当たらない

     ☆(聖都)ブハラ・・・ウズベキスタン3回目入国

 古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコ世界遺産に登録されている。人口は約23万7千人。「ブハラ」とは元来サンスクリット語で「僧院」を意味する。茶色の街と揶揄されている。
 
 産業は
天然ガスを産出するほか、繊維絨毯などの生産でも知られる。旧市街地が世界遺産に登録されて以降は観光産業にも力を入れている。

                

美術館の絵画

美術館の絵画

美術館の絵画

カラーン・ミナレット

カラーン・ミナレット

カラーン・ミナレット

20日間連日、35〜40℃

絨毯制作工場

絨毯制作工場

ウズベキスタンの女性も美人が多い

美人!

美人!

模様はイスラム系

  バザール・タキ(市場)

 バザール・タキ(市場)

 バザール・タキ(市場)

 バザール・タキ(市場)

 バザール・タキ(市場)の刃物店

バザール・タキ(市場)の刃物店

バザール・タキ(市場)の刃物店

バザール・タキ(市場)の刃物店

神学校の天井

バザール・タキ(市場)

バザール・タキ(市場)

 リャビ・ハウズ(オアシスの池)

リャビ・ハウズ(オアシスの池)

ナーディル・ディワン・ベキ神学校

偶像崇拝を否定するイスラムの教義に反する模様 偶像崇拝を否定するイスラムの教義に反する模様

 リャビ・ハウズ(オアシスの池)の広場は市民の憩いの場

        動画・・・ウズベキスタン:リャビ・ハウズのお祭り

リャビ・ハウズ(オアシスの池)の広場

リャビ・ハウズ(オアシスの池)の広場

リャビ・ハウズ(オアシスの池)の広場

ランチ・タイム

ランチ・タイム

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿はハン(領主)の夏の宮殿

宮殿内の売り子

ハンの時代から3代目となる孔雀が多数

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿のハン(領主)

日本からの贈り物と思われる

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿の庭

長い葡萄の粒

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿の池。若い30人の女性を泳がせ、気に入った女性にリンゴを投げて今夜のお相手に・・・

ハンはこの櫓から池の女性を観察

イスマイル・サーマニ廊

チャシュマ・アユーブ廊

チャシュマ・アユーブ廊

ボロハウス・モスクはハン(領主)のモスク

ボロハウス・モスクはハン(領主)のモスク

アルク城

チョル・ミナル

チョル・ミナルは四人の子供の為に建てた

ミル・アラブ神学校(奴隷を売って建設)

ポーズをとる女性

リャビ・ハウスの中庭はレストランとショータイム

夕食

踊り子

バンド

ファッション・ショー(模様が特徴)

ファッション・ショー

ファッション・ショー

    動画・・・ウズベキスタン:リャビ・ハウズのフアッション・ショー

ファッション・ショー

もう飽きた〜

      ☆シャフリサブス(チムールの生まれた街)

 人口約53,000人の町。14世紀トルキスタンを席巻したティムールが誕生した場所として知られる。
町の名前は、
ペルシア語でシャフレ・サブズ(緑の町の意)に由来する。語源については諸説存在するが、街を中心に広がるオアシスが緑にあふれていた様子に由来する説が有力である。

 2000年に、15世紀ティムール朝時代に建築された建物の現存する地区がユネスコ世界遺産に登録された。

ワイン、陶製品が多く生産されている。また、シャフリサブスには刺繍工場も置かれている

       

アクサライ宮殿跡(チムールが残した最大の建物)

アクサライ宮殿跡(崩壊前は50mの高さ)

チムール像

チムール碑

チムールの息子ジハンギル廟

チムールの息子ジハンギル廟

     ☆サマルカンド(青の都・イスラム世界の宝石・東方の真珠)

 ウズベキスタンの古都。人口約38万人ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。

 ティムールの子、ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点としてユネスコ世界遺産(文化遺産)になっている。

             

サマルカンドのホテル

マトリョーシカ

20ドルを両替すると5cmほどの現地通貨


ビビ・ハハヌイム・モスク(中央アジア最大モスク)

ビビ・ハハヌイム・モスク(正面)入口

ビビ・ハハヌイム・モスク(大きくてカメラに入らない)

ビビ・ハハヌイム・モスク

ビビ・ハハヌイム・モスク内を掃除する女性

ビビ・ハハヌイム・モスク向かいのバザール


バザール

バザール

バザール

バザール:ナッツ売場

バザール:スィーツ売り場

バザール:スィーツ売り場

バザール:スィーツ売り場


ウルグベグ

ウルグベグ天文台

ウルグベグ天文台


アフラシャープ博物館

アフラシャープ博物館

アフラシャープ博物館:ソグド人の壁画


       ☆ シャーヒ・ジンダ廊群

  サマルカンド有数の聖地。チムールゆかりの人々の霊廟が並ぶ。

 装飾の多様さ、美しさで、中央アジアでも指折りの名所である。色鮮やかな霊廟のアンサンブル。中央アジアでも指折りの名所と言われる。

入口

丘の上に。中央アジアでも指折りの名所

左の入口から上へ、天国への階段を昇るがごとき美しい

廟と言うよりここは博物館のようだ

皆、口をアングリ

美しさに呆れてしまう

ため息が出るような美しさ

目が奪われる青さ

細かな彫刻

天井

空の青とモスクの青は負けず劣らない

 イスラムの青

 西アジア、中央アジアの陶器やタイルに青が多い理由としては、釉薬の原料となるコバルト酸化物や呈色剤である銅など、青の原料が豊富だったことが一因のようである。また、高い温度で焼くことのできる粘土や高火度焼成に必要な油の多い木材が少ないことから、低い温度で焼ける釉薬を利用。青、黄、緑が多くなったようである。

 イスラーム文化圏の中でも中央アジアは、施釉したレンガの立体装飾や、モザイクタイル、ラスター彩タイルなどで仕上げた建築物が数多くある。
 なかでも、サマルカンド(現・ウズベキスタン)では、イスラームで“聖なる青”といわれる青いタイルを仕上げに多く用いたことから、“青の都”と呼ばれている。
 そして15世紀頃には、サマルカンドを中心にモスクやメドレセ(イスラーム教義を勉強するところ)が建設され、“イスラーム建築の完成期”を迎たといわれている。

天井

細かな描写

天井

天井

天井


           ☆グル・エミール廊(チムール一族が眠る)

グル・エミール廊

青の美しさ

鮮やかな建築と色使い


       ☆レギスタン広場(3つのメドレセ)

 サマルカンドの商業の中心地。主要道路の交差点であり、公共の広場として、謁見式や罪人の処刑なども行っていた。

ウルグベク・メドレセ(左)、ティラカリ・メドレセ(中)、シェルドル・メドレセ(右)  メドレセとは神学校

        動画・・・ウズベキスタン:サマルカンドのレギスタン広場

ウルグベク・メドレセ:学者でもあったウルグベクの遺産 シェルドル・メドレセ:イスラムの教義に背いた偶像崇拝 支配者がイスラムの教えに背き、自分の権力を誇示

ティラカリ・メドレセ:主要礼拝所、3kgの金を使った美しさ

ティラカリ・メドレセ

ティラカリ・メドレセ

睨まれた!

     ☆サマルカンド→首都タシケント(列車旅)

サマルカンド駅

サマルカンド駅

サマルカンド駅

車内と昼食(不味い)

タシケント駅


ウズベキスタン歴史博物館

ウズベキスタン歴史博物館にあるガンダーラ仏

世界最古のコーランがあるジュマ・モスク

  

    ☆スタンの比較

国名

人口(万人)

面積

首都(人口)

言語

民族構成

宗教

産業

特徴

カザフスタン    1,580 日本の7倍 アスタナ(70万) カザフ語、ロシア語 カザフ人63%、ロシア人24%他 イスラム・スンニ派47%、ロシア正教44% 鉱業、農業、冶金・金属加工 旧ソ連では、ウクライナに次ぐ第3位の穀物生産国
キルギス     560 日本の半分 ビシュケク(100万) キルギス語、ロシア語 キルギス人70%、ウズベク人14%、ロシア人9%

イスラム:スンニ派75%、ロシア正教20%

農業(綿花・タバコ)、牧畜、鉱業(水銀 経済の主体は牧畜
タジキスタン    710  日本の4倍 ドゥシャンベ(68万) タジク語、ロシア語 タジク人80%、ウズベク人17%他 イスラム:スンニ派80%、シーア派5% 農業(綿花)、アルミニウム生産、水力発電 国土の殆どが“世界の屋根”といわれるパミール高原

トルクメニスタン

    520 日本の1.3倍 アシガバット(70万) トルクメン語、ロシア語 トルクメン人81%、ウズベク人9%、ロシア人3.5% イスラム:スンニ派89%、
ロシア正教9%
鉱業(天然ガス・石油など)、農業(綿花)、牧畜 天然ガスが経済を支えている
ウズベキスタン    2,780 日本の1.2倍 タシケント(220万) ウズベグ語、ロシア語 ウズベク人78%、ロシア人5%他 イスラム:スンニ派88%、ロシア正教9% 綿繊維産業、食品加工、機械製作、金、石油、天然ガス 世界有数の綿花輸出国
アフガニスタン    3,000 日本の約1.7倍 カブール(250万) ダリー語 パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人等 イスラム:スンニ派84%、シーア派15% 小麦、大麦、ジャガイモ、米、アーモンド、サトウキビ等 長年の戦乱で経済は完全に破綻

     ☆日本人墓地

タシケントの墓

一番奥に日本人捕虜の墓

福島県支部と見える

埋葬者の一覧

     ☆ 略史

年月略史
紀元前4世紀 アレクサンドロス大王により制圧
紀元前250年頃 グレコ・バクトリア王国成立
1〜3世紀 クシャーン朝による支配
6世紀中頃〜 テュルク系遊牧民(突厥)の侵入、次第に住民のテュルク化が始まる
7世紀 ソグド人の活動が最盛期に
8世紀以降 アラブ勢力の侵入、イスラーム教の受容
9世紀後半〜10世紀 サーマーン朝成立(文芸・学問の発展)
13世紀 モンゴル帝国の支配
14世紀後半〜15世紀 ティムール帝国(首都サマルカンド)成立
15世紀末〜16世紀 遊牧ウズベク集団の侵入、シャイバーン朝の成立
18〜19世紀 ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国の支配
1860年〜1970年代 ロシア帝国による中央アジア征服
1867年 ロシア帝国、タシケントにトルキスタン総督府を設置し、植民地統治を開始
1918年 ロシア連邦共和国の一部としてトルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国成立
1920年 ブハラ人民ソヴィエト共和国、ホラズム人民ソヴィエト共和国成立
1924年 中央アジアの民族・共和国境界画定によりウズベク・ソヴィエト社会主義共和国成立
1989年6月 フェルガナ事件(ウズベク人とメスフ人の民族間衝突)
1990年3月 カリモフ大統領就任
1990年6月20日 共和国主権宣言
1991年8月31日 共和国独立宣言、「ウズベキスタン共和国」に国名変更
1992年12月 カリモフ大統領再選
1995年3月 国民投票によってカリモフ大統領の任期延長
2000年1月 カリモフ大統領再選
2005年5月 アンディジャン事件
2007年12月 カリモフ大統領再選

       

         

 旅を終えて・・・

 先ずは見所満載のウズベキスタンであった。アレキサンドリア大王が、チンギスハーンがそしてチムールが、また多くの遊牧民や商人達がシルクロードを通り、駆け抜けていったのであろう、砂漠とオアシス。

 イスラム教と言う宗教はさっぱり理解できないが、モスクやミナレット、メドレスの色鮮やかな美しさには目を見張るものがある。

 キリスト教の大聖堂や教会は、巨大な建物やパイプオルガンの巨大な音と宗教画で圧倒され、ともすると心身ともに取り込まれる様である。一方、イスラム教の青色は心に染み込むような色彩、そしてアザーンの大音響で人々の心を取り込むように思われる。

 いずれにしても、宗教界が人民の心を掴むのは心憎いほど巧みだと言える。賢い人が考えたのであろう。
 だが、そんなイスラムをチンギスハーンが1220年、ブハラに攻め入った時、モスクに集められた群衆を前にしてコーランを蹴散らし、以下の様に豪語したと言う。
  「私は諸君の罪ゆえに、罰として神に遣わされたのだ」と。昔の英雄や豪傑は神も仏も信じず、利用して群衆の心をつかんだ一コマであろう。

 同様にチムールもメドレセ(神学校)の模様に偶像崇拝を否定する顔や動物を描かせて、自分の権力を誇示している。

 何とも宗教と言うのは奥が深い。青で心を奪うイスラム文化、そんな体験をしたウズベキスタンであった。
  


                                                                                             終わり

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