ヨルダン(正式名:ヨルダン・ハシミテ王国)紀行

ヨルダンの観光目玉ペトラ遺跡 「エル・ハズネ」

  

 ヨルダン観光の見所は大変多い。2010年12月師走の誰もが忙しい時期に、「毎日が日曜日」の私は誰はばかることなく出かけることにした。

 若者に人気の世界7不思議のひとつ死海、数々の遺跡、そして最大の目玉は宗教に絡んだ場所がこの地には多い。と言うことだ。

 一つには、ユダヤ教の預言者モーゼ終焉の地 「ネボ山」 である。「あれが約束の地カナンだ」と告げパレスチナに行くように促し、ここでモーゼは息を引き取ったと言う。エジプトを追われ、40年間の流浪の旅で120歳であったと言う。 更にモーゼが岩を杖で叩くと、水が湧き出たと言う話の舞台アイン・ムーサ「モーゼの泉」もこの地である。

 二つ目は、洗礼者ヨハネがイエス・キリストに洗礼を授けたのが死海に近い、この地ヨルダン川である。

 三つ目はイスラム教開祖者ムハンマドは、このアラビア半島に生まれ、25才までシリアへの隊商交易(シルクロード)に参加していた場所もここである。

伝説や言い伝えも含めて、何しろ1万年もの歴史あるヨルダンである。映画「アラビアのロレンス」、「十戒」、「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台にもなったヨルダン旅行は、寝る暇もないほど盛りだくさんである。

 

   ☆ 歴 史

年 代

出来事

年 代 

出来事

50万年前、石器時代ヨルダン川流域で遊牧生活の人類14世紀オスマン・トルコ帝国となる。シリア、ヨルダン、パレスティナが支配される。
紀元前1万年前ヨルダン渓谷で人類最古の農業1915年メッカの太守「アル・シャリーフ・フセイン」がトルコの支配に反旗。
紀元前1000年頃数々の王国1916年(第一次世界大戦中)トルコが大戦で敗れ、イギリスはヨルダンを、フランスはシリアを統治。
紀元前4世紀〜2世紀ペトラのナバタイ王国がローマ軍に滅ばされる。1946年(イギリスから独立)トランス・ヨルダン王国となる。
3〜4世紀ローマ帝国のアレキサンダー大王が支配。1949年ヨルダン・ハシミテ王国と改称。
3世紀〜7世紀(400年間)キリスト教の支配。1951年初代国王アブドゥッラーが暗殺される。
7世紀(以後イスラム教)イスラム教のウマイヤ王朝となる。

1999年(アブドゥッラー2世、第4代国王となる)

イスラム教開祖ムハンマドの血筋を引くハーシム家の出身。
11世紀十字軍の侵入。イスラム軍と十字軍の戦いは100年続く。

    ☆ ヨルダン・インフォメーション

 ・人口   634万人 ・産業     1.リン鉱石  2.農業(果実、畜産業)  3.観光
 ・首都   アンマン(人口120万人) ・宗教     イスラム教スンニ派92%、キリスト教6%
 ・公用語  アラビア語 ・民族構成  アラブ人(98%) 特にパレスチナからの避難民(7割)
 ・面積   日本の 1/4          国民の半数は、中東戦争でパレスチナから難民として
 ・国土   80%が砂漠地帯          流入した人々とその子孫である。

    ☆ パレスチナとは?

 パレスチナとは、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンヨルダンパレスチナ自冶区、イスラエルを含む西アジア中東に位置する地域をいう。

 ユダヤ教の聖典旧約聖書では、パレスチナの地は神がイスラエルの民に与えた約束の地であると説かれ、このためヘブライ語では「イスラエルの地 とも呼ばれるようになる。のちにユダヤ教から分かれてキリスト教が興ると、その聖地として世界中の信徒から重要視されるようになる。さらに、ユダヤ教・キリスト教の影響を受けてアラビア半島に興ったイスラム教エルサレムを聖地としたため、諸宗教の聖地としてエルサレムを擁するパレスチナは宗教的に特別な争奪の場となっている。

     ☆ アラブ人とは?

 アラブ人とは?

 アラブ人は、おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々をいう。その人口は約4億人。

 代表的な人物 
 ・ムハンマド(イスラム教開祖者)  ・サダム・フセイン(イラク元大統領)    ・アラファト((PLO元議長)
 ・アサド(元シリア大統領)      ・カダフィ大佐(リビア元首)          ・カルロス・ゴーン(日産CEO)
 ・オサマ・ビーンラディン(テロリスト)

 一方、パレスチナ人とはパレスチナ地方に居住するアラブ人を指していう。

           ☆ アラブ人が多く住む世界の地域 

   ☆ 観光ルート

                            今回のルートは、ジェラッシュのローマ劇場、死海、ペトラ遺跡、そして首都アンマンである。

     

   ☆ ジェラッシュ遺跡

      

  6500年以上にもわたって人が住み続けている歴史ある都がジェラッシュ。現在も民家の地下に未発掘の遺跡がある。 ローマ皇帝ハドリアヌスが129年に建設の凱旋門。

      

          競馬の騎手。余興で行われる。                先ずは腹ごしらえ。遺跡内のレストラン。           ナンが主食。ビュッフエ・スタイル。

      

       菓子のようだが美味                               ライス                     野菜、ビーフ、チキンなどすべて旨い。

     

                       凱旋門  当時の人口は二万五千人。

 

ここは石で造られた都市。多くは住民の寄付で柱が建てられたので、よって住民の名前が刻まれている。

   

             3000人を収容する、2000年以上も前に建設されたローマ式劇場。     小さな穴から叫ぶと、対面の方にまで聞こえ音響効果抜群。

                                         動画  ヨルダンのローマ遺跡  

円形広場は遺跡の中心。列柱は古代ギリシャの建築方式。修復に鉄筋を使用したので世界遺産にならないと言う。

列柱通り。392年、キリスト教になり神殿は教会になっていたが、8世紀大地震で多くが破壊。

         

競馬場跡。古代の五頭立て競馬。

    ☆ 死 海

 年間降水量は50mmから100mmと極端に少なく、気温は夏が32度Cから39度C、冬でも20度Cから23度Cと非常に高いため、湖水の蒸発が水分供給を上回る状態で、高い塩分濃度が生まれたという。訪れたのは12月、しかし寒さは感じない。水も温水のようだ。

 海水の塩分濃度が約3%であるのに対し、死海の湖水は約30%の濃度を有する。1リットルあたりの塩分量は230gから270gで、湖底では428gである。この濃い塩分濃度のため、湖水の比重が大きくなり、結果、浮力も大きいので、人が死海に入って沈むことは極めて困難である。また当然ながら、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1ヶ所を除き、魚類の生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにある。

      

時計の標高がマイナスだ〜。

 遺跡の町ジェラシュは標高1200m程度、ここから約1時間で死海に到着する。 30分後は山用時計の標高はマイナスになった。15年使用している時計だが、初めてマイナスになり、何故か感動してしまった。更に10分後マイナス100m、20分後に−265m、そしてホテル前到着で−350mである。興奮した。地中海の水が押し寄せてくるとここは海の中、深さ350mになってしまう。溺れるではないか。死海は昔、地中海に属していたが、海底の隆起で死海が出来たと言うではないか。ゆっくり寝られないかも・・・。

 しかし、標高が低いとよく寝られました。低い分だけ癒されて寝られるらしい。ヒマラヤの4000m〜5000mでは酸素が少なくよく寝られないが、その反対なのです。

ホテルの中庭の向こうが死海、遊泳場所。前方かすかに白く見えるのがイスラエルの山々。
死海の右側はヨルダン川の水が流れ込む場所。イエス・キリストが洗礼を受けた場所である。

       

          わざわざ新聞やら、雑誌を持ってきて見ている。バランスを崩すと逆さまになり新聞はあわれ。  上向くと自然に足と手が上になるから不思議。

    

海底の泥が美容に良いと、はるばる日本から女性が訪れる。   何! 背中に泥を塗ってってか? 任せなさい!!! ウシシッ。

動画  死海ではおぼれない

砂金採りではありません。塩が固まり指輪の様に。無料のお土産です。   しょっぱいどころか、非常に苦い。

ポーズッ!  そこのオジサン、邪魔ですよ。

  

              泥をどうぞ、とサービス。ペットポトルにお土産の人もいたな〜。           はい、奇麗になりましよう。背中流してやろうか?

     

   ホテルの湯沸かしは早い。たった2分で沸いた。酸素が多いんだ〜。    ホテルのロビーには王様の写真、真中が現王様、右は息子でいずれ・・・18歳らしい。

  ☆ヨルダンの王様

  

 アブドゥッラ1世(初代)

 タラール1世(2代)

 

 フセイン1世(3代)

 アブドゥッラー2世(4代)

1921年4月11日 - 1946年5月25日

メッカの大首長であるフサイン・イブン・アリーの次男としてメッカで誕生した。現実主義な政治家であったというが、1951年エルサレムで暗殺された。

1951年7月20日 - 1952年8月11日

父王アブドゥッラー1世が1951年にエルサレムで暗殺されたため、第2代国王に即位した。しかし極端なまでのイギリス嫌いであり、精神状態が悪いという理由で議会により国王退位を余儀なくされた。

1952年8月11日 - 1999年2月7日

在位中に物議を醸すことを多く行ったが、その成果はヨルダン人に認められた。第三次中東戦争では王位に踏みとどまり、ヨルダン経済を成長させ、1956年から1963年に年間の支出を倍増させた。

1999年2月7日 - 在位中

イスラム教開祖ムハンマドの血筋を引くハーシム家の出身。国王として積極的に外交に携わり、国家の安定に貢献している。一般人(タクシー運転手、新聞記者、老人など)に変装して、国民の生の声を聞かんと努力している。豊かといえない国家の王であるが国民からの敬愛心は強い。

   ☆ イスラム教徒の分布図

   

ホテル前の花

いよいよ死海から、モーゼ終焉の地ネボ山へ向かう。前方は死海、そしてその先がイスラエル。

動画  死海をバスが行く

    ☆ マダバ、ネボ山

 死海の東へ車で30分、荒涼たる砂漠地帯が続く。時折羊が群れで現れる。

 この砂漠をモーゼがエジプト王の迫害を逃れて、古代ヘブライ人を率いて出エジプトを敢行したのであろうか。草木殆ど無い、水もない砂漠である。モーゼとその一行は、シナイ山で十戒を授かった後、このネボ山に到達している。

 ネボ山でモーゼは、率いてきた民に、あの有名な「あれが約束の地カナンだ」という言葉でパレスチナに向かうよう促し、自身は山上からそれを見守ったと言う。実にエジプトを出てから40年、モーゼ120才であったと言う。
 なぜ40年もの年月を要したのかと言うと、神からモーゼに与えられた杖で、民が水がほしいと言うと岩をたたく、そうすると水がいつも湧き出たと言うが、ある時水が出なかったので二度たたいたと言う。そうすると神は疑ったと怒り、40年の罰が与えられたと言う。

  

              砂漠が果てしなく続く。

       

                         看板には前方が死海と表示                         モーゼの顔がかすかに見える。

動画   モーゼ終焉の地

   

ネボ山の教会と記念碑、博物館

    

  悪魔の化身であるヘビを、モーゼが雷鳴を呼ぶ杖で打ち破った故事を表現したモニュメント。               モザイクセンター(お土産売場)

(中写真)  ガイド(左)とツアーポリス(右)

 ヨルダンは国の産業として観光に力を入れている。ツアーのバスや観光バスには「ツアー・ポリス」なる警官が必ず添乗してくる。これはよからぬ賊に襲われたわけではなく、警官が乗車していると言うセキュリティをアピールしていると言う。いわゆる事前予防なのだ。少し治安に不安が残る発展途上国では同じケースに会う。

 今回のお巡りさんは28才、独身であるそうな。結構イケ面だ。
最初は指定席の一番前列、運転手のすぐ後ろの席でガイドと並んで座っている。どこの国のバスも前列4席は衝突事故などのために客は乗せない。
 最初の1日はおとなしく座っているか、居眠りをしていた。2日目から点検のふりをして、バスの車内をうろうろし出した。そして一番可愛いと思しき女の子の席の隣にちょこんと座っている。3日目からは積極的になりだした。女の子が食べる菓子も一緒に食べ、片言の英語で会話をする。愛は言葉の不自由さを超越して彼女の胸に届くだろうか? 
 他の乗客は退屈しのぎに注目、毎日彼女に反応を聞いてみる。彼女は素直で何でもあっけらかんと応える。昨日は給料の話をしてました。ヨルダンの警官の給料は4万円、貴方はと聞かれたので40万円と応えたら、目を白黒させてびっくりしてました〜(彼女は25才、大手銀行の社員)。可哀想なお巡りさん!

 身の上話、身上書や履歴書のような細かい話で迫る彼、適当に合わせる彼女、他の若い女の子達も加わり大層賑やか。この観光バスの主役は完全にこのお巡りさん。最終日には彼女からメールアドレスを聞き出して悲しそうに見送っていた。乗客の誰かが後方から、寝てばかりいないでしっかり仕事をしろよ、と叱咤激励?

    

                                 モザイクの実演                                      民芸品売場、ラクダ。

  

                             装飾品                                  飾り物もラクダ

   

               この棚は女性向け、死海の泥で作ったクリームばかり。            中東の女性がつけるベール、体験コーナー。

      

聖ジョージ教会はギリシャ正教の教会。

  床に6世紀のパレスチナの当時の地図がモザイクで描かれている。真ん中右側の、クネクネしたヨルダン川を下った魚が、余りにもしょっぱいのであわてて死海から逃げ出すと言うユニークな絵である。タイルは200万ピース以上使われている。

動画    死海から逃げる魚!

    ☆ 砂漠を越えて、一路南のペトラ遺跡へ

        

                砂漠の風で盛り上がり、小高い山となる。                      時折現れる集落には羊の群れ、のどか。

     

日が暮れてくる。砂漠の彼方に太陽が沈んでいく。

  

刻一刻と変わる砂漠の夕焼け景色。ドラマチック!

  

     ガイドはホテルに着くと、アザーンの音に合わせるようにお祈り。お巡りさんは?           ホテルのお土産売り場

        

冷蔵庫に貼るマグネットの土産品

あたしはヨルダン美人よ、とポーズ。

    

  ホテルもロビーでは小瓶に砂を入れてラクダを作る実演。 今夜は十五夜。  ペトラ・バイナイト(夜のペトラ)ビジターセンターへ、20時集合。  現地案内人

     

                   ろうそく行灯の明かりを頼りに静かに歩く。私語厳禁、撮影厳禁。                  最終地点で全員座り、イベントを待つ。

 動画    ペトラ・バイナイト!

 ☆ペトラ・バイナイト

 ペトラ遺跡に夜歩くツアー。往復2時間半、暗闇に所々ろうそくの明かりを紙で覆っている。今日は満月なので周囲はよく見えるが、そうでない時は怖いくらい暗いだろう。出発前に案内人からの注意事項を聞かされる。ここはアラブのベドウイン(アラブ砂漠の住民で遊牧民族)の町で、今日はその儀式に向かう。

 厳粛な儀式なので、30分の歩行中は一切無言、精神を統一して心を落ち着かせ臨んで下さい。最終地点には多数の人々がいて、ベドウインの現地人が民族楽器と歌を聞かせてくれます。非常に厳粛です。最後はその人が皆さんに有難いメッセージがありますのでくれぐれも静かにお願いします。

 ぞろぞろと歩きだした。静かに! 静かに! 夜の暗闇に涼しい風が顔をくすぐるのがわかる。その位皆が足音を忍ばせながら歩いていた。と、前列遥か彼方の一団が大変騒々しい。追いつくと、アメリカ人の中高年集団だ。ペチヤクチャ話が止まない。 写真撮影は雰囲気を壊すので厳禁! と言われていたのにフラッシュで取り放題。余りにもひどいので、日本人の若い女の子が切れたのか、「 No ! Flash 」 と大声で注意。

 その点、日本人と思しき集団は云われたとおり、黙々と静か。統制も取れている。 やはり真面目さと言うか几帳面さは、ドイツ人の如くゲルマン民族と似ている。 第2次大戦でドイツ、日本が敗れた要因の一つには、仲間にノー天気のラテン系イタリアがいたからだ、とドイツの老人が語っていた。その後が続く、今度やる時はドイツと日本だけでやろうな! 唖然・・・。

 会場ではおごそかにマンドリンのようなもの、横笛、アコーディオンのようなものの3つの民族楽器で交代に演奏が続く。(上記の動画参照)
最後は古老が出てきてメッセージ。多分、世界平和に努めよう、と言う意味でしたでしょう。

 この間、アメリカ人(多分、ラテン系でしょう)はわき目もふらず、黙々とお喋り、フラッシュ焚きに精を出している。さすが、戦勝国は違うな〜。

ここはエル・ハズネ。崖を削り掘り抜いた神殿風正面を持つ霊廟で、幅30m、高さ43m、紀元前1世紀建築の場所であった。無数のロウソク行灯の光でかすかに見えていた。翌日昼間に再度行く機会があった。

   

    ☆ペトラ遺跡

      

          ビジターセンター前にも王様の写真          女性は寸暇を惜しんで、わき目もふらずお買物          チケットを買い、ゲートに入る。

 ペトラ遺跡とは?

 この場所は近年、ヨルダン観光には最も欠かせない重要なスポットとなっている。
ペトラは2000年以上も前から、アラビア半島からやって来た遊牧民のナバタイ人や、ベドウイン(アラブの遊牧民族)によって栄えた中継都市。かってシルクロードの隊商が、インドからアラビア半島を横断して地中海に至るルート上であった。これらの隊商から得る通行税で栄えたと言う。

 遺跡に入ると、岩をくりぬいて造った多くの建物群のスケールに度肝を抜かれる。その岩肌はさまざまな色をしており、特に早朝と夕方は幻想的な赤色に染まる。ペトラ遺跡の中でも最も有名な「エル・ハズネ」(古代の霊廟)は微妙な光の違いによって、1日に50色ものバラ色を見せるとも云われている。

案内板。右端の緑色「START]がビジターセンター、真中下がエルハズネ、30分。左上の赤色「FINISH]が博物館とレストラン30分。更に急坂を登ると30分で左上のエド・ディル(修道院)、更に更に「ビュー・ポイント」までが15分、360度の眺め。 ゆっくりでも2時間強。

    

   ツーリスト・ポリス。かなりのお巡りさんが安全を期している。                        無料だが3ドルのチップ

    

        ワンダラー、ワンダラーと懸命。                    馬は左、人は右                     エル・ハズネ(30分)まで往復30ドル。

 

崖の高さは60〜100m

 ペトラとは、ギリシャ語でを意味する。1985年ユネスコ世界遺産(文化遺産)へ登録。2007年新・世界七不思議に選出。

 完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水システムを作り上げたことが分かっている。

 2000年の調査段階でも、未だ遺跡の1% 程度しか完了していないと推定されている。 岩質は「砂岩」が殆んどで、他に礫、石灰及び泥岩の堆積層。
堆積したものが地殻変動で隆起して出来たもので、その後の大地震でこういう割裂、亀裂が入り、また雨水の浸食作用により形成されたと考えられている。

  

見上げて歩いていると、首が回らなくなりそう。発見された時は右の写真左側の中間が白くなっており、ここまで堆積で埋もれていたそうである。

動画     ペトラ遺跡

  

水道管を通して給水システムを作り上げたことが判明している(左側のくぼみ)

  

30分程度歩くと、暗闇に近い岩間の奥が明るくなる。「エル・ハズネ」だ。」、「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台になり、主人公が馬でこの狭間を駆け抜けたところだ。

          

                     広場にはラクダが待機                            青い空、赤いエル・ハズネ、全容が見えてきた。

高さ30m、幅43m。圧倒的な迫力。これが岩を繰り抜いたとは信じられない。

動画   エル・ハズネ

    

   宝物殿。一番高い所にある壺には宝物があると信じられていた。        三体の聖人か。                 6本の柱の1本が、発見時折れていた。

      

                  すごいニャン!                  俺には興味がないワン!                 俺は興味があるぞ!

   

        ラクダは楽だ! 何ちゃって・・・。           お巡りさんは行く。      この広場は10m位砂礫で埋まっていた。この建物はまだ二層、もう一層がこの下に。

  

        水道管は今度は上部(上の窪み)を走る。              高貴な方の墓群                        天国への階段か?

        

                  30分歩いても、遺跡は続く。                    お巡りさんの警戒は随所に。ヨルダン観光に力を入れる国の姿勢がわかる。

砂漠の色々の砂で、小瓶に砂を流し込み、細い棒1本でラクダや鳥を作る、芸術品。中で5ドル。

動画    ラクダを作る

    

                今日は暇ですね〜。日本人はケチだから乗らないね。              ケチにしないで買ってよ〜、ワンダラ〜。

 

自然が作った模様。この狭い柱の間に遺体を安置、土葬。

ローマ円形劇場、5000人収容。

    

       王家の墓が続く。ビザンチン時代は教会として使われていた。      土産物屋                         遺跡と、孤独を味わう馬

 動画    ペトラ遺跡:宮殿の墓

    

    

ナバタイやベドウイン人の子孫? はミーティング。もっとかせがにゃ〜、

  

       歩道はしっかり石組                                  真ん中の上部はラクダ、自然が造った作品。

唯一、石を組んで造ったお城はお姫様の館。

    

                 FINISH地点の博物館に隣接しているレストラン。ビュフェ・スタイルの味も一流。特にカレーの味は抜群と評判。

    

さあ〜、ここからは急坂30分〜1時間。しっかり汗を絞られる。「エド・ディル」へ。

    

      「山や」 はごぼう抜き、20分で到達。           頑張れよ! と、エールを贈られた。      頂上。右が「エド・ディル」。前方右の小高い所がビュー・ポイント。

エド・ディルは修道院跡。高さ45m、幅50m。1世紀中ごろに建てられたナバタイ人の神殿。

動画  エド・ディル  

右奥から登ってくる。

右後方はペトラの街

動画   エド・ディルの丘

  

博物館も岩をくり抜いてある。   閲覧簿

祭壇の空間には土産物屋が場所借り。

   ☆アイン・ムーサ(モーゼの泉)

      

       宿泊したホテル、キングスウェイペトラの向かいが、有名な「モーゼの泉」がある。白い3つのドーム。     「Mousa’s Spring」 と看板。

   

 モーゼの泉

 モーゼは、神からの教示を受け、エジプトで奴隷として働く古代ヘブライ人を連れて、パレスチナを目指す。その数5000年〜6000人であったらしいが、シナイ半島を40年間もさまよい、人々は疲れ果てていた。こんな事ならエジプトで奴隷をしている方が楽であったと言う人も出てきた。ある時食料も水も底をついて困り果てた時、モーゼが神から授かった杖で、少年が持っていた5つのパンを杖で叩くと、6000人分のパンが出現、傍にあった岩をたたくと、泉のごとく水が湧き出て人々を安心させたと言う。

 その岩がここ、「モーゼの泉」の岩、今もこんこんと水が湧き出ており、地域の住民の生活水として利用されている。シナイ半島には何か所かの「モーゼの泉」があると言う。

 神がモーゼに教示をしてパレスチナへ、と言ったのはモーゼが80歳の時、聖書によると神は、若ければ神の言うことを聞かないから優秀で高齢のモーゼを選んだと言う。しかし120才の時、パレスチナを目の前にして神に召されたと言う。

   ☆デザート・ハイウエイ

     

                      並行に走る鉄道                          トルコの援助で、アカバからアンマンまでの水道管工事が続いている。

動画   砂漠を走る  

 ペトラ遺跡からヨルダンの首都へは260km、車で4時間。「デザート・ハイウエイ」と言う名前の美味しそうなハイウエイだ。ヨルダンを南北に走る。殆どを砂漠の中の一直線である。
ヨルダンにはもう一本並行して死海側に「キングス・ハイウエイ」があるが、込み合っていてスピードが出ない。

 このハイウエイはヨルダンの南、サウジアラビアに近い町「アカバ」から首都アンマンまで続いている。並行して昔は鉄道も走っていたが今は利用されていないそうだ。

 有名な映画 「アラビアのロレンス」で、オスマン・トルコの軍隊が乗った汽車を爆破して阻止するシーンがこのラインである。
実在の
イギリス陸軍将校トマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からのアラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画であり、戦争映画である。

 アラブ反乱に関してイギリスの二枚舌外交と呼ばれる二つの協定。一連の矛盾外交によって生じたパレスチナ問題が現在も解決されていない。

 当時、ヨーロッパの先進国が植民地競争をするさなか、そのあおりがさまざまな国で今も尾を引いている。
そして、その後は東西冷戦でアメリカとソビエトに振り回され、今は急激に勢力を伸ばして来ている中国の、発展途上国への経済援助と言う名の取り込みである。今後、中国とアメリカの動きが世界の動向を左右することになるだろうと言われている。

 二枚舌外交とは?

 第一次世界大戦でイギリスに協力してくれたら、パレスチナの地にユダヤ人の国家を作るとユダヤ人に約束する一方、同時にパレスチナ在住のアラブ人にも独立を認めて、パレスチナに国をつくると約束。

 イギリスの目的は、オスマントルコ内のアラブ人を内紛で混乱させて、有利に戦争に勝利することであった。
一方、資金豊富なユダヤ人から戦争資金を調達する目的でパレスチナの地を約束した。

 自分たちの国ができると当時オスマントルコの支配下にあったユダヤ人、パレスチナ=アラブ人は全面協力し、結果イギリスは勝利したために、両方への約束を守る羽目になる。
しかしそれは不可能であり、結果強引に国を作ったイスラエル=ユダヤ人と、パレスチナ=アラブ人は100年経ってもごたごたしている。
イスラエルにはアメリカが肩入れし、パレスチナには同じアラブ人であるエジプト、イラン、イラク、サウジなどが応援。

  

ハイウエイの売店にある民芸品

     

ラクダオンリー

見事な油絵(民芸品店)

   ☆ アンマン

  

ヨルダンの首都アンマンは、7 つの丘の上に広がる住宅地によって形成されている。

動画  アンマンの街並み

 アンマンの雰囲気 

アンマンの歴史は古く、9000年前に造られている。その後さまざまな変遷を強いられる。
エジプトのアレキサンダー大王による統治、ローマ時代は多数のキリスト教の教会が建てられ、7世紀からはイスラムのウマイヤ朝の統治、19世紀になるとオスマン・トルコ領となる。

 1929年ヨルダンの独立後は、イスラエルに追われたパレスチナ人が大量に流入してくる。その後も、レバノン内戦、湾岸戦争、イラク戦争の避難民が押し寄せ、今や国民の半数が避難民で占められているという。

 だが、パレスチナ人得意の経済活動でヨルダンの国は繁栄し、街の雰囲気も明るい。何より、平和な現在が、国を明るく成長させるようだ。

  

         ローマ劇場。ローマ皇帝によって138〜161年に造られた。33列6000人収容できるヨルダン国内最大の劇場。今でも音楽祭に使われている。

動画   アンマン・ローマ劇場   

    

     ローマ劇場の最高段でヨルダン美人。                                ヨルダン博物館

  

                   お巡りさん、ワンポイントが明るい。                           アンマン城の要塞

           

 

        アンマン城入口                  丘の上にあるアンマン城からは、ローマ劇場、丘の上に建つ街並みが一望。何しろアンマンは人口200万人。

動画  ヨルダン、アンマン城の要塞から市内を見る 

  

         ヨルダン国旗             死海近辺から出土した「死海文書」は人類初めての羊の紙の文書。     イスラムの女性は皆がスカーフ。

 

イスラムでは男性に髪の毛を見せないという決まり。

  

アンマン市内の人気レストラン。肉料理が主体で抜群にうまい。

   

                ナンを丸くふくらましたような。中は空洞。                     女性にもてもてのレストランのイケ面スタッフ。

  ☆宗 教

  世界の主要三大宗教が出来る過程を図式化してみた。神の下に主要な預言者が続く。ノア、アブラハム、ユダヤ教のモーセ、キリスト教のキリスト、
  イスラム教のムハンマドが五代預言者として知られている。   

 ヤハウエ

旧約聖書中の、神を表す

      アダムトイヴ

アダムとイヴは、旧約聖書創世記』に最初の人間と記される人物である。
     預言者;ノア
神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500〜600歳)に告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。そして他の人々はすべて滅んだ。よって人間の祖先はノアとなる。
    預言者:アブラハム

アブラハム は、ユダヤ教キリスト教イスラムを信じるいわゆる聖典の民の始祖。ノアの洪水後、による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者。「信仰の父」とも呼ばれる。

     預言者:モーゼ     預言者:キリスト  預言者:ムハンマド
ユダヤ教徒共同体から使わされた使徒として登場する。       キリスト教の開祖    イスラーム教の開祖

 ☆ 預言者とは・・・預言者(よげんしゃ)は、神と直接接触・交流・対話し、直に聞いた(とされる)神の言葉を人々に伝え広める者のこと    

☆ 世界の宗教と信者数と特徴    

多神教の世界

一神教の世界

   ヒンドゥ教         8  億人キリスト教20億人(カトリック11億人、プロテスタント3.5億人、正教会2.2億人、その他
   中国民間宗教      3.8億人イスラム教13億人(スンニ派12億人、シーア派1億人)
   仏教            3.7億人ユダヤ教1500万人

                         世界の人口:65億人

カトリックの特徴   ・・・ 聖ペトロの後継者であるローマ教皇を中心として形成される信者の集まり。
プロテスタントの特徴・・・
 地上の教会は人間の作った組織と考え、民主主義的な特徴をもった組織によって運用。

スンニ派・・・多数の法学者が集まり、話し合って共同体の合意として決定。
シーア派・・・開祖者ムハンマドの子孫だけを後継者とする。

☆ 主要三大宗教の相違点

 ユダヤ教では→  罪人。

罪を犯す

 キリスト教では→  悔い改めれば赦される。
 イスラム教では→  六信五行を実践すれば赦される。

  イスラム教の六信五行とは   

 六信・・・アツラー(神)、天使、啓典(モーセ五書、詩編、福音書、コーラン)、預言者(アダム、ノア、アブラハム、モーセ、ダビ デ、イエス等)、来世、予定(6つ)
 五行・・・信仰告白、礼拝=1日5回、断食(9月、30日間、日の出から日没まで)、喜捨(1年間で得た財産の一部を困窮者に寄付)  巡礼(一生に一度行う)

☆ 日本の宗教

     神道〜1億700万人    仏教〜9,800万人  キリスト教〜300万人  その他1,000万人(内、イスラム教7万人)    合計2億7,900万人
     日本の人口が1億人であるが、日本人は複数の神仏を信仰しているため、2倍強となる。

     (例)  クリスマスをキリスト教で祝った1週間後、お寺で仏教の除夜の鐘を聞き、その数時間後には神道の神社に初詣、結婚式はキリスト教の教会、葬      式は仏教、子供が生まれると神社へお宮参り。  誰もが気にしないで行う、その日本人が、あなたの宗教はと聞かれると、・・・ん〜ン、無宗教か    な、と応える。

      一神教の外国人が見ると、「日本人は、なんていい加減な民族なんだ」とあきれるでしょう。

☆ イスラム教の研究

 

 旅行前、旅行中、旅行後にイスラム教の本を乱読した。旅行中はガイドやその他の人に質問をした。聞いても理解できないことも多かったが、私が理解していたイスラム教とはかなり相違点があった。

1.イスラム教はどうして豚肉を食べないのか?  イスラム圏には昔から豚がいなく、情報として豚は雑食なので、不潔と判断したのだそうだ。
2.酒を飲むな! 飲むと理性を失うから飲まない方が良い、とある。 イスラム圏の飛行機は、昔お酒は出なかったし断られたが、今回は自由。
3.イスラム教の信者は死ぬと必ず来世に行くと信じている。来世は天国か地獄しかない。

4.イスラムの信者はテロに何故走るのか? 昔、ヨーロッパの植民地政策やアメリカがイスラムに余りにもひどい仕打ちをしたので、ムスリムの一    部の過激派が暴徒化したと言う。たとえばイギリスの第1次大戦時の二枚舌外交で、未だにパレスチナ問題が解決しないでイスラムは苦しんでい  る。
5.何故、断食をするのか?  断食をする事により、貧しい人々の苦しみを味わいなさい、と言う体験で自覚しなさいと言う教え。
6.喜捨。貧しい人を助けなさいと言う教え。しかし、恵んで貰った人はお礼は云わないと言う。恵んだ人も恵まれた人も神の指示だからという考え。

7.喜捨、もう一つ。お金を施しする事は、神への「貸付」と考える。神に貸し付けをすると褒美がもらえる。それは来世で天国に行けると言う考え。
8.イスラムが危険であると言う言い回しは、アメリカが利害を持って今まで吹聴しているからだと言う。詳しくは専門書で。ページが足りません。
9.欧米から見るイスラムの景色とその回答。
  ○やたらに戒律が厳しい〜厳しいが神様はちゃんと人間の弱さを知っていて、無理強いはしません。欧米社会はそれを知らないのです。
  ○神に従属していて、人間の主体性が無い〜だって、人が作ったルールは、人は破るじゃないか。神様が作ったルールを破ると天国に行けな       いから守るのです。
  ○女性差別〜4人まで奥さんと結婚してよい話、一夫多妻。何故か?イスラムが出来た7世紀頃、戦争で夫を失う奥さんと子供が多かった。
   それを救うために、重婚を認めたと言う。だが今ではあまり見当たらないそうである。欧米社会の方が不倫やら多いではないかと反論された。
  ○暴力的な宗教〜怖いイメージは欧米のメディアが作った。それは利害関係が原因。これも各自が専門書で、ページが足りない。

10.イスラムは自殺しない。イスラムは神に絶対的に服従している。ゆだねているから、悪く言うと丸投げ、責任はない。責任は神様に行ってしまう。
  だから深刻に悩んで自殺なんかしない。 日本人は経済もよく、技術も進んだ先進国なのに年間3万人以上が自殺するのは何故か?

     

       旅を終えて・・・・・

    

 結び

 世界の国50カ国を巡ると、必ずその国の宗教を意識させられる。教会やモスク、立派な建物ばかりで、日本のコンビニの様に数も多い。そして殆どの国民が盲目的と言っても過言ではなく信じている。

 アインシュタインは宗教について「子供じみた迷信」と否定的な考えを示したと言う。また「神と言う言葉は、私には人間の弱さの産物という以上の意味はない」とも言っている。

  次にダライ・ラマで有名なチベット仏教。昨年チベットを訪れた時、命がけで五体投地を繰り返している信者に唖然とした。ある文献によると、チベットの初代王が宗教を利用した国家建築なるを読んだ。
 「政治的な制度を構築するだけではなく、民衆を治めるには、精神的な支柱も必要だと感じ、インドから仏教を取り入れた」と言う。
王様に寄せる不満などをそらすための方策でもあったのである。それが、中国共産党の指示で仏閣は破壊されて今日に至っている。ソビエトも同様だ。 信じる者は救われると言うのは歴史上完璧ではないのだろう。

 アインシュタインの言う事が妙に納得する。しかし困った時は神だのみするのが人情。だが、誰も神や仏に会った話は古今東西聞かない。
 あるキリスト教の国のガイドが自信を持って言っていた。教会の立派な宗教画や、カラフルなステンド・ガラス、そして100mもある大きな建物はなぜ造るか、その費用は信者に強制的に出させ、信者の心をひきつけるためである、と。

 これからも世界中の国の、いろいろな宗教に触れることがあるが、信者の真剣な眼差しを見る度に、この人は今幸せなのだと感じさせられる。そう、神は自分の心の中にいるのだから。

                                                                              ヨルダン編  終わり

参考文献
                                      中東の考え方            酒井啓子       講談社現代新書
                                    イスラムの真実と世界平和     内藤正典     マガジンハウス
                                       世界の宗教        21世紀思想研究会編       河出書房新社
                              マリアのウインク           視覚デザイン研究所編
  Wikipedia 
                        地球の歩き方       ダイアモンド・ビッグ社

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