イラン・イスラム共和国 紀行
ペルシア絨毯の歴史は2,500年前から |
旅の初めに・・・ 2013年5月、ようやくイスラム圏でシーア派最大のイラン旅行が実現する。サウジアラビアと同様、アルコールや服装に厳しい国であることと、経済制裁中で治安は?と不安もよぎる。 |
ワンポイント情報 ・国名 イラン・イスラム共和国 ・民族 ペルシャ人、トルコ系、クルド人、アラブ人 |
☆出発
ドバイのエミレーツ航空で、成田〜ドバイ〜イランの首都テヘランへ |
今や世界でトップスリーの人気、日本の映画も20作ほどある |
☆到着
イマーム・ホメイニ国際空港はキレイな空港 |
客を迎えるため、花束の売店 |
これから悩まされるイスラム式トイレ。紙はない、左手を使い、ホースの水で手を洗うようだ。我々はペーパー必須。 |
☆テヘラン(首都)
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テヘランは、西アジア、イランの首都。人口1200万人。イラン高原の北西部の、標高1200 mほどの地点にある。 テヘランはイランの文化的中心でもあり、多数の博物館、美術館、宮殿、文化センター、高等教育機関を擁する。宗教的中心でもあり、モスクのみならず、キリスト教の教会やユダヤ教のシナゴーグも各所にみられる。住民の大多数はシーア派イスラム教徒。20世紀から21世紀にかけて、イラン各地から大量の人口流入があり人口が急増した。 テヘランの住民は、ペルシア人が大多数を占めている。他には少数のアゼルバイジャン人、アルメニア人、ユダヤ人などもいる。住民の98.3%はペルシア語を話す。 現在テヘランで最も深刻な環境問題は大気汚染である。これは、テヘランの成長によって自動車が急増したことに加え、もともと内陸の盆地にあり、北をアルボルズ山脈に遮られたテヘランでは空気が淀みやすいことが原因となっている。 2006年には一日当たり約27人が大気汚染のために死亡しているとの推計もある。 |
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首都はテヘラン |
空港から高速道路でテヘラン市内へ |
高度計は1000mを超えるので、比較的涼しい |
イラン国旗が国の至る所に |
幟が多い |
☆ガラス博物館
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ガラス博物館はイランではアブギネ博物館という名前である。 最初はサルタネ家の私邸として建てられ、エジプト大使館として使われていたこともある建物。 紀元前4000年ころからの陶磁器と紀元前2000年ころからのガラス器が展示されている。 2階には「涙壺」があり神秘的。 |
博物館の看板 |
博物館全景 |
・・・ |
フランス・アールヌーボーの影響を受けた階段 |
正倉院の器と同じアケメネス朝のガラス |
涙壺は、戦地へ赴いた夫の無事を願いつつ、流した涙をこの壺にためた |
中国模様 |
中国模様 |
☆ランチ・タイム
街のレストランへ |
サラダ、イランは野菜が毎日出てくる |
ケバブ料理(肉のミンチ)とライス(美味しい米)黄色はサフラン |
デザート。アルコールは絶対ありません。トホホッ! |
☆考古学博物館
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看板 |
全景 |
入口のドームはイスラムのモスク風 |
チョガー・ザンビールで発見された雄牛の像 |
紀元前の陶器か? |
ペルセポリスの「謁見の間」 国の大臣が王に謁見する場面 |
レリーフ(浮き彫り) |
ペルセポリスの「百柱の間」にあった「牡牛の柱頭」 | ササン朝(AD226〜7世紀)時代の塩抗で発見されたミイラのソルトマン |
☆コーラン
ホテルの部屋にあるコーラン |
全く読めません |
イスラム教の聖典。ムハンマド(マホメット)が天使ガブリエルを通して受けたとされるアッラー(イスラム教における唯一神の名)の啓示を集録したもの。 コーランは黙読するよりも、朗々と声を出して読誦するものである。そこにコーランの魅力の一つがあると言われる。 |
☆テヘランの街並
ホテルからの眺め、山に囲まれた町 |
ホテルの前には新婚さんの車が |
このバスでイラン一周の旅。運転手はスピード違反は決してしない。タコメータも付いているが、国が要所で非常にうるさく取り締まる。しかも運転手は2名だ。 |
イラン最高指導者 左がハメイニ師(二代目)右はホメイニ師(初代) |
紙幣にはホメイニ師 |
☆イランという国
☆コム(シーア派の聖地)
テヘランから南に約120kmの位置にあり、人口はおよそ780,000人。十二イマーム派の第8代イマーム(イスラム教の指導者)であるイマーム・レザー(エマーム・レザー)の妹ファテーマ(ファーテメとも)の廊があり、シーア派の聖地の一つである。 ホメイニーはこの学院で学び、教鞭をとったイスラム法学者で、彼を理論的指導者としたイラン革命はこの町で起きた暴動をきっかけに起こった。 |
イランの道路は殆ど舗装 |
ドライブイン |
イラン人は絨毯をひいて寛ぐことが多い |
美人だね〜 |
高速道路料金所 |
☆ハズラテ・マースーメ廊(第8代エマーム・レザーの妹の廊)
第8代エマーム・レザーの妹で9世紀にゴムで亡くなったファーテメの廊。 サファヴィー朝時代に、アッパーズ1世らによって造られたもの。 玉ねぎ型のドームを持つ本廊は、ファトフ・アリー・シャーによって建てられた。本来は聖地であり、ムスリム以外は入場できず、外から眺めるだけである。 |
通常、ムスリム以外はNOだが、ガイドの顔でOK! |
女性はレンタルの服に身を包めと命令される |
こんな感じ、「おもらいさん」みたい |
中庭、かなりの広さ。モスクの天井の上の三角はラクダの背に合わせている。 |
天井。モスクのデコボコはマホメットが鍾乳石のしずくの所で修業したのでそれを表していると言う |
イスラムの建築物は鮮やかな色彩 |
幽霊もどきが沢山いる |
ミナレットも素晴らしい |
この中にお墓 |
上を見て見惚れていると首が痛くなる |
☆菓子 ☆街の看板
イランの甘いお菓子「ソウハーン」 |
街の至る所にイラン・イラク戦争で亡くなったり、活躍した人の絵が |
☆ディナー・タイム
今日は3種類のカレー |
ナンは何時でもある |
ケバブも何種類か |
ビュッフェ・スタイル |
スイカも食べ放題、ビールなんて要らないヤッ! (負け惜しみ) |
☆カシャーン(オアシス都市)
カシャーンは、イラン中央部の砂漠、キャヴィール砂漠の端を通るコムとケルマンを結ぶ「王の道」沿いにある、オアシス都市である。 カシャーンの都市名はペルシャ語でタイルを意 味するKashiから来ている。 伝統工芸も盛んで、絨毯をはじめ、磁器、タイル、シルク、果物などの産地である。旧市街は日干しレンガの家が多い。 |
☆フィン庭園 (世界遺産)
サファヴィー朝アッバース1世(1587-1629)によって造られた、イランが持つ水の技術を駆使した、芸術性豊かな美しい庭園である。 立派な門をくぐると、正面に大きな池と離宮があり、糸杉の並木が両側に立っている、 周りを小川が巡る典型的なペルシア庭園である。水の輝きが眩しく、せせらぎがホッとさせてくれる。 |
はるか彼方から引いている水 |
世界遺産マーク |
円い天井はモスク風 |
鮮やか |
眩し過ぎる |
タイルには絵が |
入口方面 |
ガージャル朝時代の宰相アミール・キャビールが、王の命令で殺された所 |
写真を撮って! と言われ、手が震える自分が・・・恥ずかしい!! |
こちらは学生の様だ。清楚な美しさもまた・・・ |
イラン美人・・・ イラン美人の共通性は 1.目がキレイ 2.鼻が高い 3.胸が大きい と言われる。 石を投げたら美人に当たると言われるイラン、男性から見るとかぶり物が恨めしい。 チャドルから顔だけ出しているのが、かえってミステリアスな美を感じさせる。イラン女性はアーモンド形の大きく輝く瞳を持つことで有名だ。いわゆる目で物を言うそうだ。確かに「目は口ほどに物を言う」と言われている。他は布で隠しているので、その反動で目は情熱的になるのだろう。 女性たちは戒律が厳しいからといってけっしてお洒落ごころを忘れてはいない。一見すると普通の黒いチャドルに見えたが、生地の中に透かし模様や柄が美しく織り込まれ、光沢があった。 |
☆穀倉地帯を走る
農畜産業も盛んで食糧自給率は70% |
農業はイランで最大の雇用を持つ部門である |
イスファハンの文字が、あと33km |
☆イスファハン(「イランの真珠」と讃えられる古都)
テヘランの南約340kmに位置し、人口は160万人、イランで3番目に大きい都市である。 サファヴィー朝の時代に首都に定められ発展した。有名なイマーム・モスクなどがあるイマーム広場は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。 イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる。 |
4つ星のホテルに連泊 |
早朝、アザーンの音で目が覚める |
☆ディナー・タイム
昨夜の夕餉のメインは魚のから揚げ |
他はビュッフェ・スタイル |
☆アルメニア教会 (キリスト教のヴァーンク教会)
アルメニア人が多く生活しているジョルファー地区には教会がある。13あるアルメニア教会の中で最も有名なのがヴァーンク教会である。 また教会の敷地内には博物館もあり、重さわずか0.7gの世界最小の聖書などが展示されている。 |
入口 |
キリスト像? |
ドームのてっぺんには小さな十字架 |
内部は色彩鮮やかな宗教画でグルリと囲む |
「最後の審判」、「聖人の画」など |
☆アルメニア博物館
アルメニア教会に隣接した博物館 |
髪の毛を金で包装し、ダイアモンドの針で文字を彫る |
重さわずか0.7gの聖書、14ページ |
街角で見かけた美人 |
この町の街路樹はスズカケの樹 |
☆金曜モスク (世界遺産:マスジェデ・ジャーメ:イスラムのモスク)
最初に作られたのは8世紀というイスファハンで最も古いモスクで、イランの寺院建築の集大成。 その結果さまざまな時代の建築様式が織り交ざっている。 |
街のバザールに面して建つ |
イスラム特有の天井 |
小さなドームが連続する天井の礼拝堂 |
赤い絨毯が敷かれ、祈りをささげる人が絶えないと言う |
礼拝堂の天井と柱は不思議な雰囲気 |
精巧なタイル、寺院建築の集大成 |
☆イランの最高指導者
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最後の皇帝 バーレビ国王 |
初代最高指導者 ホメイニ師 |
第2代最高指導者 ハメネイ師 |
モハンマド・レザー・パフラヴィー(バーレビ国王)・・・ パフラヴィー朝(1925年から1979年までイランを統治した、イラン最後の王朝)イランの第2代にして最後の皇帝(在位:1941年 - 1979年)である。亡命前後の日本の報道ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった。 「白色革命」を推進してイランの近代化を進めたが、イラン革命により失脚した。白色革命とは上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる開発独裁体制を確立した。土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を実行してイランの近代化を進めた一方、親欧米路線のもと引き続き欧米諸国の外国資本の導入に努めた。とりわけアメリカ合衆国は革命直前の1970年代に至っても深い関係を続けた。 冷戦下において欧米や日本などの先進国との石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入ると破綻した。それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政治への不満も高まりを見せ、国王の求心力も急激に低下した。 アメリカ合衆国を後ろ盾とする開発独裁体制に対する反体制運動は、ホメイニーをはじめとするイスラム主義者のみならず、ソビエト連邦などが支援したイラン共産党などの左翼なども参加して激化し、国内ではデモやストライキが頻発した。 その後事態は収拾がつかず、皇后や側近とともにエジプトに亡命した後、モロッコ、バハマ、メキシコ、アメリカを転々とした。1980年に亡命先のエジプトのカイロで、サーダート大統領の保護のもと、失意の中死去した。 |
ホメイニ師・・・ ホメイニー(1902年 - 1989年)は、イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。1979年に パフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の 元首である最高指導者(師)として、同国を精神面から指導した。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 十二イマーム派とは、イスラム教シーア派の一派。十二イマームという名前は、歴史上12人のイマーム(シーア派指導者)が現れた ことによる。シーア派指導者であるイマームの地位は、初代アリー (661年没)以降、十二代目までムハンマドの子孫によって継承された。 アリーは後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘 ファーティマを娶った。 ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ホメイニーは、1902年にイラン中部のホメインの町でシーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイド (預言者ムハンマドの直系子孫) の家系に生まれた。 皇帝の政策は、石油のアメリカやイギリス、日本などへの輸出による豊富外貨収入を背景にした工業化と西欧化を中心に据えたもので あるものの、西欧的で世俗的なだけでなく、多分に独裁的な性格が強く、さらにイランの内情や国民の生活を省みない急激な改革を 行ったために貧富の格差が増大した。これらのことに国民は反発して抵抗運動が起きた。ホメイニーはこの運動のシンボル的な存在だった。 ホメイニーはフランスに亡命してからも、一貫して国外からイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けた。1979年ホメイニーが亡命先の フランスから糸を引いた反体制運動の高まりに耐えかね、皇帝とその家族がエジプトに亡命。これを受けて、ホメイニーは2月1日に亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たした。
任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。この一連の動きをイラン革命と呼ぶ。 しかし革命達成後は一転して、世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵(カーフィル)」として弾圧するなど、 事実上の宗教独裁体制を敷いた。 ホメイニーは刑に関しても、著書でその必要性を強く主張していた。例として(ホメイニーは「堕落」と表現している)婚外性交渉を行った ものに対する100回の鞭打ち(未婚者)や石打ちによる死刑(既婚者)、窃盗犯に対する人体切断などをあげている。 1989年6月3日死去。86歳だった。最期の言葉は「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だった。イラン最高指導者の職はハメネイが継承した。 葬儀の際には、棺を移送中に取り扱いの不手際で棺の蓋が開いて遺体が落下、これを見た一部の参会者がショックで卒倒する一方で、多くの 参会者はの衣服や体の一部を「聖遺物」として持ち帰ろうとその遺体に殺到、これが暴徒化して大騒動になった。 |
ハメネイ師・・・ アリー・ハメネイ(1939年生まれ)は、1989年よりホメイニの死後、イラン・イスラム共和国の第2代最高指導者。 イランの政治体制、特に大統領は、聖職者の下で承認を得て立候補・選挙で選ばれる。現大統領は保守強硬路線のアフマディーネジャードで、任期は4年2期までである。 |
☆街並
バザール |
バザール |
バザール |
交通整理のお巡りさん |
プラタナスの並木 |
愛の募金箱 |
愛の募金箱 イラン国内の至る所に、黄色と青の募金箱がある。黄色い手で青い箱を包んでいるデザインである。大きな商店街では20m間隔で設置されている。 市民は余裕のあるお金があると寄付をする。「それは神様が見ているから施しはしなければならない」と云うそうだ。いかにもイスラムらしい行為である。 このお金が恵まれない人達に施されるから、イランの街中で「おもらいさん」は殆ど見当たらないし、観光名所で煩わしく、しつこい物売りも見かけない。 イスラム教の国でも、特にシーア派のイランは、規律が厳格な証拠であると思われる。 |
☆ 40 柱宮殿 (世界遺産)
チェヘル・ソトゥーン庭園博物館は、1647年にアッバース2世によって建てられた華麗な宮殿。チェヘル・ソトゥーン>四十という意味。 正面の池に柱の像が美しく映り、実際は20本の柱が鏡で覆われていたので40本に見え、 当時は客人をもてなす迎賓館としての役目を担う。 ペルシア式庭園として、2011年に世界遺産として登録された。 |
入口 |
チェヘル・ソトゥーン庭園博物館の看板 |
綺麗な眺めです |
5〜6月はイランはバラの開花時期 |
中は博物館 |
天井はイスラム式 |
オスマン軍との戦い絵 |
ハーンをもてなす絵 |
ムガール朝の王子をもてなす絵 |
ガイドのマンスリーさん サイトは www.abtinseyr.com |
数えると20本 |
☆ランチ・タイム
有名レストラン「シャフルザード」へ |
国内外を問わずの人気の店 |
美しい内装にうっとり |
ステンドグラスまである |
サラダとナン |
美味しいスープ |
ノンアルコール・ビールで乾杯する人達 |
イランの家庭料理「ターチン・モルク」炊き込みご飯 |
3階建て、1階は行列 |
☆33アーチ橋(エスファハーンのシンボル)
33アーチ橋、(スィー・オ・セ橋)とは33を意味する。 橋脚(ピア)が 33連のアーチであることから こう呼ばれる。 |
エスファハーンのシンボル |
ニッコリ、イランの人達は日本人が大好きとか |
車はNO |
珍商売発見! 何と体重計を貸してチップを、立派なアルバイト | 川の水も綺麗。イラン人は綺麗好き、国も綺麗にと指導すると言う |
井戸端会議は万国共通。旦那の悪口?それとも彼の噂話? |
笑顔が絶えない黒装束のお姉さま |
☆イマーム広場(世界遺産)
イマーム広場はイランのエスファハーンにある広場。
まわりを青を基調とした精密なアラベスク模様のタイルで覆われた荘厳なモスクや宮殿によって囲まれていることから、かつては「ここには世界の半分がある」とも言われた。 ユネスコの世界遺産に登録されている。 アーリー・カープー宮殿、イマーム・モスク、シェイフ・ロトフォッラー・モスク、バザールがある。 |
バザールはグルリと広場を囲むように |
この広場は南北512m、東西159mという広大な長方形 |
☆アリカプ宮殿
イマーム広場西側にある5階建ての宮殿。ここからイマーム広場全体を眺めることができる。 かつてシャーはここからポロを観戦したそうである。一番上の広場全景写真はここから撮影。 |
看板 |
入口 |
天井の模様 |
階段はきつい |
階段までタイルの模様 |
☆イマームモスク(イラン・イスラム芸術の集大成)
イランでもっとも有名な建築物のひとつ。1638年竣工。広場の軸線がキブラ(メッカの方向)と異なっていたため、モスクの軸線は45度程度ずれている。
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アーチの高さ27.4メートル、ミナレット高さ40メートルの巨大な門。ここをくぐるとイマームモスク |
大ドーム主礼拝室を覆う大ドーム。直径28メートル、高さ50メートル。ドームの色は青ではあるが、イーワーンと比べるとやや緑がかった青色となっている。 |
動画・・・イマームモスク |
アザーンを実演 |
疲れたかな? |
外国人観光客でしょう、本来は赤はNOらしいが? |
☆シェイクルトフォーラーモスク(王家専用のモスク)
イマーム広場東側にある王家専用のモスクで、1602年から17年かけて建設された。 イマームモスクと異なり、ドームの色は珍しい黄色系である。 |
池に映えるモスク |
☆バザール
スパイス、絨毯、金属器、いろいろなものを売っている。 |
歩いていると、「オシーン!」と声をかけられる。オシーン大好きとか |
☆街の絨毯屋
値段はピンキリ、見惚れます |
☆民芸品店
柄が素晴らしい |
日本ではあまり見られないかも |
☆細密画
ペルシア細密画とは、イランの伝統的なスタイルで描かれる絵画の事で、その微細な筆致は西洋において早くからその価値を認められ紹介されてきた。 ペルシア細密画は歴史的に壁画や写本の挿絵として発達してきた。 |
顕微鏡で見ながら、ネコの毛で描く |
出来あがり、拡大してある |
値段は驚くほど高い |
イラン芸術を感じます。猫の毛で描くなんて! |
☆夕餉
市内の有名レストランへ |
豊富な野菜 |
ナン 店主がハーモニカで歓待! |
スープ |
本日はカレー、抜群に美味しい |
イラン人女性は胡坐! |
☆ライトアップ
天井の鍾乳石飾りは、ムハンマドが啓示を得たヒラー山の鍾乳洞洞窟を再現しているとも言われている。タイルはモザイクタイルと絵付けタイルを使い分けている。 |
市民の憩いの場所 |
ハージュ橋のライト・アップ |
☆街並
国を挙げて綺麗に |
花売りワゴン車 |
パトカーも綺麗 |
☆ハージュ橋 (優美な姿)
ハージュ橋はザーヤンデ川に架かる橋で、1666年に完成した。 ハージュ橋の長さは133m、アーチの数は23。 |
景観が良い |
ハージュ橋のたもとには、小さなライオン像がある。 これにまたがると、たちどころに結婚出来る」と云う説があるそうだ。近くにいた若い? 女性達は我先にとまたがっていたが・・・ |
橋の内部 |
橋の上の国旗も映える |
絵になる風景 |
☆ヤズドへ向けて
郊外には高層ビルが |
オアシス地帯 |
砂漠に小さな村が |
☆キャラバンサライ(隊商宿)
キャラバンサライは、ペルシア語で「隊商宿」の意味。 隊商のための取り引きや宿泊施設を指す。バザールやスークに隣接して建てられた。アラビア語では、ハーンとも呼ばれた。 一般的には中庭がある二階建ての建築物で、1階は取引所、倉庫、厩、管理人や使用人の住居にあてられ、2階は客人である隊商の商人たちの宿泊施設となっていた。 アガと呼ばれる責任者や、荷運びの監督、夜警などの役職が常駐していた。現在では宿泊所としては少なく、事務所、倉庫、卸売店舗、レストランとして用いられている。 |
使われていない隊商宿 |
近くの山から引いた水道施設 |
桑の実は緑色、味は日本と同じ |
☆ナイン(世界一大きな、高価な絨毯作成の地)
イラン中央部に位置する小さなオアシス都市ナインは、イスラム初期のモスクや素晴らしいメフラーブ、14世紀のミンバル(説教壇)を有するマスジェデ・ジャーメ(金曜寺院)でも有名な街。 昔は上質なウールの布の産地として有名であったが、機械織り製品の氾濫とともに、ウール産業も衰退し、その工房が絨毯産業へと転換をはかったのが1920年代のこと。 やがて、その品質が西欧で高い評価を受けるようになって、ナインは世界に知られる絨毯産地となった。 |
(参考)
世界一大きな絨毯はオマーン、高価な絨毯はアブダビ、両方を見る機会があったので、そのサイトを紹介。 |
スルタン・カブース・グランド・モスク(オマーン) |
シェイク・ザイード・ビン・スルタン・アル・ナヒヤーン・モスク(アブダビ) 9億円 サイトは → こちら |
☆ランチ・タイム
インの町でランチ |
昔は隊商宿 |
スープ テーブル・クロスのひょうたん見たいのは糸杉 |
ナン 糸杉は天高く伸びるので、イスラムでは天国をイメージする |
豊富な野菜が |
干しブドウ入りごはんと牛肉のトマト煮込み |
メロンは中東が原産地 |
一路、次はヤズドへ。高速道路入口 |
輸送はトラックが主流 |
☆面白いイラン人
・近年増加している日本帰りのイラン人 ・イラン人とお酒 ・つけ ・ネクタイ禁止 |
・礼拝 ・学校のテスト |
・ラマダン ラマダンになると、プールに通う人が多くなる。夜、皆が帰ると ・チャドルの女性の目 |
・厳しい戒律 ・チャドル ・イスラム教徒は豚肉を食べてはいけない |
☆ヤズド(ゾロアスター教の聖地)
ヤズドはイラン中央部、ヤズド州の州都。 イランにおいて古い歴史をもつ都市の一つで、ゾロアスター教文化の中心地である。エスファハーンの南東約280kmに位置する。 人口は2005年の推計で43万人。 世代をこえた砂漠環境への適応のため、ヤズドは建築学的にも独特の表情を持つ都市である。高品質の手工業品、特に絹織物と菓子で知られる。
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☆沈黙の塔(鳥葬の塔)
小高い丘の上に立てられた岩山の塔。自然の原則を重んじるゾロアスター教徒は大地を汚さないために遺体を葬る際、鳥葬(風葬)を行っていた。 ここでは1930年代まで実際に鳥葬が行われていた。 ちなみに現在は衛生上の観点からゾロアスター教もイスラム教徒と同様に土葬になっている。 |
男性用(左)と女性用 |
女性用に登る |
こちらは男性用 |
麓の集落にあるアーブ・アンバール(採風塔) |
女性用の塔にある穴は遺体を投げ込む所 |
奥はヤズドの町 |
☆ゾロアスター教の拝火神殿(アーテシュキャデ)
西暦7世紀にアラビア軍に負けてから、イランはイスラム教に改宗したが、それまでは拝火教あるいはゾロアスター教と呼ばれる宗教を信仰していた。 この遺跡はササン朝ペルシャの時代に創られたゾロアスター教の神殿である。 |
入口 |
いくつもあるゾロアスター寺院のうち最も重要とされた神殿 |
正面上部には「翼ある日輪」で表されたゾロアスター教の善の神→ | アフラ・マズダの像がある。手に持つ小さな輪が神の力を、大きな輪が平和を象徴すると言う。左手の「光輪」を授けられた者が王となる。 |
中で燃えている火は、470年から1,500年以上燃え続けている聖火である。 |
教祖で預言者の名が「ツァラトゥストラ」 |
博物館内部 |
ゾロアスター教と日本・・・ ゾロアスター教は別名「拝火教」とも呼ばれ、儀式の際に火を焚くことを大きな特徴としているが、日本でもお盆の、迎え火や送り火を焚く風習や、密教の「護摩焚き」など、火を使う儀式が数多くあり、これらの多くはゾロアスター教に何らかの影響を受けている可能性が極めて高いと考えられている。 日本の会社名で日産は、ゾロアスター教のネイサンが由来の一つとなっているという。また、マツダランプもブランド名はゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー からの由来と言われている。 殺虫剤のバルサンもゾロアスター教の火からきている。 殺虫剤のバルサンもゾロアスター教の火からヒントを得ているとも言われている。 企業名は意外に宗教と縁のある名前が多い。キャノンは観音菩薩から、情報処理大手のミロク情報サービスは弥勒菩薩から命名されていると言い、結構神頼みの名前が多いのも頷けよう。 |
☆アミール・チャグマーグ広場(シーア派3代目ゆかりの地)
バザールのある複合施設 |
巨大な木造のナフル(お神輿)は高さ8.5mもある |
☆ズール・ハーネ(イラン古式体操)
ヤズドでは、イラン古式体操のズール・ハーネが見られる。 今もイラン人男性の生活に溶け込む古式体操「ズール・ハーネ」 |
入口 イランにはどの街にもある |
ボデイ・ビルの様な感じ |
古式体操そのもの |
☆本日のホテル
隊商宿のような雰囲気のホテル |
二匹のオウムが歓迎 |
花も歓迎 |
何か語ってそうな一輪の花 |
中庭には小川が流れている |
ランプの宿風 |
眉毛が連なっているのは美人の証拠とか |
☆旧市街
ヤズドの見どころは活気のあるバザールと歴史的な街並みが残る旧市街である。 旧市街は金曜モスクを中心に広がっている。 かつての建造物が今なお現役で商店街の用に供されているが、観光地としてではなく現地の人たちの生活に密着している。 また郊外にはゾロアスター教の宗教施設が残り、イスラム国家に住む異教徒の影を垣間見ることができる。 |
旧市街は昔のまま、道も狭い |
風を取り込みやすい工夫の採風塔 |
殆どが日干しレンガの建物 |
一軒のホテルにお邪魔 |
砂漠の中のホテルに、こんなきれいな花が |
屋上の採風塔から涼しい風が入る |
壁は粘土に藁を入れてこねる |
狭くするのは風の通り道を作るのと、敵から守るため | ミナレットが美しく光る |
☆金曜モスク(ヤズドのシンボル的寺院)
マスジェデ・ジャーメ(ジャーメ・モスク)は、金曜モスクの意味。 ヤズドの金曜モスクには、イランで最も高いミナレット(塔)52mがある。 |
ゾロアスター教神殿の跡に建てられたモスク |
52mのミナレット |
模様が美しい |
天井の輝きが眩しい |
ペルシャ絨毯がキレイ |
コーラン |
ステンドグラスは教会の様 |
色彩がイスラムを語る |
☆民芸品店
ガラス細工 |
ガラス細工 |
アーユー美人? |
バザール入口 |
イランのアイスクリーム、旨かった |
☆砂漠・オアシス帯を行く
荒涼とした山とオアシス |
砂漠とオアシス地帯を何処までもバスは行く |
時たま小さな村 |
☆イランのアイスキャンディ ☆アバルクの氷室
ドライブインでアイスキャンディ |
氷室は高さが22m、 壁厚が3mある。地下を掘り込んだタンクに水を溜めて凍らせ夏場に使うという、冬寒く、夏が暑い土 地ならではの工夫である。 |
☆ランチ・タイム
地元ドライバーが利用するレストラン |
ノンアルコールは文句なしにマズイ! |
チキン |
☆パサルガダエ(世界遺産:アケメネス朝最初の都)
シラーズの北東130km、紀元前546年頃にキュロス大王の下建設が始められたアケメネス朝の最初の首都があった場所。 そのキュロス大王の墓や宮殿跡、ゾロアスター教神殿跡などが残っている。 その時、内部には金色のテーブル、ベッド、杯、宝石類とともにやはり金色の棺が見つかったそうだが、現在それらの痕跡は見られない。 |
タル・イ・タフトは何のために建設されたか、不明 |
宮殿跡 |
キュロス2世の墓 |
昔も今も変わらない遺跡の花 |
昔も今も変わらない花 |
昔も今も変わらない花 |
☆ナクシュ・ロスタム (アケメネス朝の歴代王の墓)
岩山にダレイオス1世などアケメネス朝の歴代王の墓が4つ並んでいる。 その横には馬にまたがるシャープール1世の前に、捕虜となったローマ帝国皇帝ヴァレリアヌスが跪く姿を描いた「騎馬戦勝図」と名づけられた3世紀のレリーフも残っている。またゾロアスター教の神殿と思われる建物も見ることが出来る。 |
歴代王の墓が4つ、岩山に見事に作ったものです |
アケメネス朝の歴代王の墓 |
アケメネス朝の歴代王の墓 |
騎馬戦勝図 |
シャープル1世と臣下のレリーフ |
ゾロアスター教の最高神アフラ・マズラと火 |
この火が世界に広がる |
下にいる人間が小さい |
駐車場 |
☆ペルセポリス(世界遺産:ペルシャ最大の見どころ)(中東の3P)
シラーズより北に約60kmのところにあるアケメネス朝時代の大都城址。ダリウス1世(紀元前522-486)によって建設された政治的儀式のための都市。 当時の広さは12万5000平方mにも及ぶ大都市であったが、紀元前331年マケドニアのアレクサンダー大王によって陥落し、廃墟となる。 |
遺跡の樹木 |
遺跡の樹木 |
中東の3P 中東にある3つの遺跡を指して中東の3Pという。ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡、そしてこの地イランのペルセポリス遺跡の頭文字をとって云う。以下に紹介。 |
ヨルダンのペトラ遺跡 |
シリアのパルミラ遺跡 |
入口看板 |
世界遺産マーク |
大階段、左右どちらも111段、段差が10cmと低いのは馬に乗って上り下りを出来るため |
大階段を登り終えると、ペルセポリス宮殿の正門、クセルクセス門が表れる |
高さ10m、西ゲートの牡牛像 |
東ゲートには人面有翼獣神像、頭部は偶像崇拝を嫌うイスラム教徒により破壊された |
「万国の門」の英語表示 |
精巧な作り、紀元前500年代の作品 |
動物(ライオン等)の魔力で魔除け |
何ともたくましい魔力を感じる |
アバダーナ(謁見の間) |
高さ19mの36本の柱があった |
12本が現存 |
天空を刺すようにそびえる |
見惚れる観光客 |
鷲の羽だろうか、精巧そのもの |
両方の柱には人の顔と体は獣 |
左右対称か |
門の全体図 |
遠景 |
双頭鷲像はイラン航空のマークにも使われている |
遺跡の丘の上には「アルタクセルクセス2世王墓」 |
未完成の門 |
謁見図 |
謁見図 |
石を重ねて |
蓮 |
ライオンが牛に噛みついた図 |
見取り図 |
現地ガイド氏は絶好調、日本語でジョークまで飛び出す |
このリアルさ |
痛いっ!何するのさ、ライオンと牛の図 |
アバダーナ 東階段のレリーフ |
23の国々が表示 |
メディア人とペルシア人の高官が交互に並ぶ、糸杉で分類 |
ラクダや羊、牛など |
王に贈り物 |
糸杉は昔から天に昇ると言う縁起の良い樹 |
エジプト、バビロニア、カッパドキア、アルメニア、 | インド、ガンダーラ等の国から王に謁見の図 |
レリーフが続く |
高さ19m、36本の柱が残る |
タチャラはダイオス1世の宮殿 |
タチャラは冬の宮殿 |
各国からの貢物図 |
牛や馬に噛みつく図は、この国の王の強い事をさす |
紀元前500年時代の文字が刻まれtりる |
謁見図 |
ハディシュはクセルクセス1世の宮殿 |
12本の円柱が残る |
円柱の彫刻 |
円柱の彫刻 |
ハーレム(修復中) |
宝物庫 |
丘の上の「アルタクセルクセス2世王墓」 |
丘の上からペルセポリス遺跡全景 |
丘の上からペルセポリス遺跡全景 |
丘の上からペルセポリス遺跡全景 |
遺跡に咲く一輪のアザミ |
丘の上の「アルタクセルクセス1世王墓」 |
百柱の間は100本の柱を有したペルセポリス最大の広間。栄華は今はなく寂しげ |
可愛いね〜、遺跡好き? イエ〜ス |
似ているね |
☆ナクシュ・ラジャブ(ササン朝時代の大きなレリーフ)
岩山にササン朝時代のレリーフが残っている。 レリーフはアルデシル1世、シャープール1世の戴冠の様子やササン朝初期の聖職者が描かれている。 (ササン朝:226年 - 651年、イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国) |
ナクシュ・ラジャブの看板 |
遺跡の花 |
シャープル1世と臣下のレリーフ |
ササン朝初期のゾロアスター教の聖職者カルティール |
アルデシール1世の戴冠 |
王権神授図 |
☆シラーズ (バラと詩の町)
|
☆マスジェデ・ナスィーロル・モスク(ステンドグラスが美しい)
中庭 |
壁の絨毯は素晴らしい |
ここはステンドグラスがキレイ |
天井のタイルが見事 |
絨毯を踏むにも気が引けるほど美しい |
☆エラム庭園(世界遺産:バラが咲き誇るイランのパラダイス)
エラムとはペルシア語で「楽園」を意味する |
ペルシア式庭園は世界遺産 |
入口から奥のエラム宮殿まで歩く |
鳥か? 盆栽も見事 |
ローズ・ガーデン。そう、ここはバラで有名 |
見事なバラ園 |
エラム宮殿の前は池と糸杉が似合う |
オレンジか? |
エラム宮殿 |
宮殿のタイルワークが素晴らしい |
エラム宮殿はカージャール朝(1796〜1925)時代の19世紀に建設され、当時のシラーズ地方の有力者の住まいであった。 |
現在、博物館として一般公開 |
バラは300種 |
イラン国内の8つのペルシャ式庭園とともに、ユーネスコの世界遺産に登録 |
正門。 エラム庭園は現在シラーズ大学の管理下 |
☆アリー・エブネ・ハムゼ聖廊(美しいドーム)
たまねぎ形のドームロシア正教風 |
美しいドームは人目を引く |
墓の上を歩く。歩かれることを望むらしい |
金銀ぎらぎら |
廊の内部は鏡モザイクでギラギラ、天国もこんな所だろうか? |
ひたすらお祈りするムスリムの人達 |
頭を下げて、下に置いたこの石に額をつけるための小石 |
☆ハーフェズ廊(イランの大詩人が眠る)
イランの詩人(1325年 - 1389年)ハーフェズは、シラーズで生まれ育ち、生涯この地を離れることはなかった。 後に編纂された『ハーフェズ詩集』は、東西の文化に影響を与え、ゲーテは晩年、ハーフェズの詩に感銘を受け、『西東詩集』が綴られた。ハーフェズの詩についてゲーテは「ハーフェズの詩を理解するには 魂まで一汗かく必要がある」と語ったという。 |
酒や音楽についての詩が多い |
人の列が絶えない入口、奥が廊 |
ゲーテは敬意を表し、入口からこの廊までの50mを腹ばいで行った |
墓石に触れる人々 |
ゲーテ・・・ ドイツの詩人・作家・自然科学研究家,ヴァイマール公国枢密顧問官・政務長官(1749-1832)。 フランクフルト・アム・マインに生まれる.母はフランクフルト市長の娘.ライプツィヒ,シュトラスブルクで学び,この遊学期にヘルダーと交友.恋愛体験をもとにして叙情詩を発表し,その後1773年に戯曲『ゲッツ』,翌年に『若きヴェルテルの悩み』で文壇の脚光を浴び,疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)期の旗頭となる. その一方で,1775年にヴァイマル公カール・アウグストに招かれてその宮廷に仕え,政務を担当する廷臣となる.また,同時に解剖や地質,とりわけ光学などの研究も行い,顎間骨の発見や色彩論などは著名. 1786年から2年間のイタリア旅行の後,文学活動に専心し,クリスティアーネと結婚.フランス革命に際しては2度の対仏戦争に従軍した. シラーとともに,ドイツ古典主義時代を築いたとされる. 晩年はペルシア詩人ハーフェズの影響により、『西東(せいとう)詩集』(1819)が生まれた。 |
☆イランの異色詩人「ウマル・ハイヤーム」
詩人:ウマル・ハイヤーム |
彼の作品を集めた作品集は『ルバイヤート』(4行詩)として、故地イランのみならず、各国で翻訳され出版されている。 ウマル・ハイヤームの哲学は、公的なイスラム教の教義とはかなりに異なるものであった。ウマルが神の存在を信じていたのかどうか明確でないが、しかし彼は、すべての個別の出来事や現象が神的な介在の結果であるという見解には異議を唱えていた。また、最後の審判の日や、死後の報償や懲罰なども信じていなかった。 ウマルはむしろ、自然の法則が、生命について観察されるすべての現象を説明するという見解を支持していた。 イスラムの宗務当局は、イスラム教に関する彼の異説についての説明を幾たびもウマルに求めた。最終的にウマルは、当局からの追及が激しくなり建前上正統的なイスラーム教徒(ムスリム)を装わざるを得なくなり、マッカへのハッジ(巡礼)を行った。 |
ウマル・ハイヤームの四行詩(抜粋)
身の内に酒がなくては生きておれぬ、 |
禁酒の地、イランの有名詩人が書いたこの詩、 「死んだら湯灌(ゆかん)は酒でしてくれ」 人間性に魅力を感じます。
出来売れば死ぬ前に、一度で良いから酒の風呂に入りたいものだ。
日本の詩人・・・ 日本にも酒をこよなく愛する詩人・俳人がいる。代表的な二人の代表作 山頭火 ・酔うてこほろぎと寝ていたよ 牧水 ・白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり |
☆バザール・ヴァキール
街角の絵 |
バラ |
バザールの混雑 |
女性のカラフルな服 |
絨毯と絵 |
こんな地味?な服、誰が着るのだろうか |
昔の隊商宿を改造したバザール |
バザールの裏には隊商宿がそのまま、誰が住む? |
隊商宿の賊から守るための厚い扉はそのまま |
☆夕餉のひと時
美味しい新鮮なサラダ |
バガリブロ(チャーハンもどきで牛肉入り) |
☆遊牧民の住む町
ダシュテ・アルジャンの町のモスク |
モスク近辺は色々な店 |
広場には遊牧民のテントが |
太鼓をたたいて披露する遊牧民の女性 |
☆奇岩地帯(ザグロス山脈)
ザグロス山脈のタンゲートボルハヤ峠 |
奇岩の山が続く |
☆王の道(アレキサンダー大王の軍隊も通った道)
BC340年頃、アレキサンダー大王の軍隊もここを通る。峠から見る。 |
峠を降りて王の道を行く |
☆イスラム教とは・・・
・イスラムの喜捨とは貧しい人に施死をする事・・・この喜捨を「神に対する貸付」と考えるそうだ。神に貸し付けをすると跡で ・イスラムはやたらに戒律が厳しい、神に従属していて人間の主体性を認めない、女性差別、暴力的な宗教と欧米からは ・四人まで奥さんを持てる。7世紀戦争で死んだ男の妻を助けるために、一夫多妻制を設けたが、経済力のない人は例外。 ・ムスリムは自殺しない。イスラムでは神に絶対的に服従する、自殺をすると神にそむくことになり、天国に行けないからしない。 |
☆ビシャプール
西暦260年、アッシリア地方エデッサ(現シリアとの国境でトルコ領の町シャンルウルファ)において、ローマ皇帝ヴァレリアヌス率いるローマ軍とシャープール1世率いるペルシア軍が会戦、ローマ帝国軍は、皇帝自らが捕虜になるという未曾有の大敗北を喫した。 このとき、ヴァレリアヌス帝とともに数万ともいわれるローマ兵が捕虜としてペルシア本国へ連行された。そして、捕虜となった大量のローマ兵たちは、このビーシャープール(「麗しきシャープール」の都)をはじめ、現在もイラン南部に遺跡が残る灌漑施設や橋などの建設事業に従事させられたという。 捕虜となったローマ兵の中には、技術者や職人もいたようで、この都市は、直線の通りが碁盤目状に交差するギリシア・ローマ的な設計プランによって造られているという。 |
☆ビシャプール遺跡(ササン朝の都市)
ササン朝2代目皇帝シャープール2世(241-272在位)によって建設された都市。 6年間の歳月をかけて作られたこの都市は山を背にし、川を臨む美しい街づくりを目指し、碁盤の目に街路を走らせたギリシャ的な方形プランである。 |
ビシャプールの看板 |
管理事務所 |
広さ200ha、厚さ4m、高さ15mの坊壁 |
隣接する博物館 |
当時の推定図 山を背に街がある |
人物像 |
壺 |
2本の円柱 |
入口か? |
アナヒータ神殿 |
アナヒータの底部には川の水を引いていたと言う跡 |
☆断崖に穿たれたレリーフ
3世紀、ササン朝ペルシアがローマ帝国との戦いで勝利したことを記念するもの。 敵方の皇帝をも捕虜とした歴史的勝利は、レリーフに繰り返し彫られる題材となっている。 |
ササン朝の王様達は磨崖浮彫が大好き |
対外戦勝や王権神授 |
叙任式、帝王謁見等が |
シャープール川の両岸の岩にレリーフが |
レリーフ全景 |
☆ランチ・タイム
ホテルでランチ |
メニューは毎日同じ |
今日のケバブは鶏肉と牛肉のミンチ |
☆油田地帯
ヤギやヒツジの群れを発見 |
石油のパイプライン |
☆ペルシア語が語源の日本語
ペルシア語起源のものが調べるとけっこうある。今回は、そんな言葉たちを一部集めてみた。 ・バザール ・マガジン ・ギブス ・ゴンドラ |
☆アフワズ (イラン有数の産油地帯:イラン・イラク戦争では激戦地)
アフワズはイランの都市の一つ。人口84万人。カールーン川の岸辺にある。カールーン川の右岸は市の産業の中心で、左岸は昔の町並みが残る住宅地である。 サーサーン朝時代は、灌漑設備やダムが作られ、大いに繁栄した。 イラン・イラク戦争では1980年の開戦直後にイラク軍の包囲下に陥ったが、イラン軍守備隊は救援軍の到来まで持久に成功。1981年のサーメノル=アエンメ作戦でイラク軍が敗退すると包囲から解放されている。 イラン最大級の油田がある。イランで重要な工業地帯でもある。 |
アーザーデガーン油田が近くにある油田地帯、経済制裁で燃えるまま、技術不足。 |
イランのサンセット |
油田地帯の向こうにはアフワーズの街の灯が |
☆世界の石油
確認埋蔵量 1.サウジアラビア 19.8% |
生産量 1.ロシア |
輸入量 1.アメリカ 25.1% |
輸出量 1.サウジアラビア 17.4% |
消費量 1.アメリカ |
☆夕食
いつもと同じ |
いつもと同じ、そろそろ・・・ビールが飲みたい |
☆アフワズの町
ホテルの窓から見るカールーン川の岸辺 |
対岸はビル群 |
この町はイラン・イラク戦争の激戦地 |
イラン有数の産油地帯 |
最も重要な工業地帯でもある |
ホテル |
川では釣りを楽しむ人が多い |
イラン・イラク戦争の戦士像 |
イラン・イラク戦争の戦士像が多い |
イラン・イラク戦争(イ・イ戦争)は、イランとイラクが国境をめぐって行った戦争で、1980年9月22日に始まり1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎えた。 この戦争はイスラム教内のシーア派とスンナ派の歴史的対立や、アラブとペルシアの歴史的な対立の構図を現代に復活させたことに於いて、非常に興味深い事件であるといえる。また、イスラム革命に対する周辺国と欧米の干渉戦争と捉えることもできる。 1980年9月22日未明、イラク軍が全面攻撃を仕掛け、イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍がそれを迎撃するという形で戦争は始まった。準備の面で勝るイラク軍は、革命で混乱したイラン軍の指揮系統などの弱点をついた。 イランの軍備は長らく親米政権であったためにほとんどが米国製であった。これらを扱う技術者もアメリカ人であったが、革命の際に全員が国外退去となった為、兵器の整備や部品の調達が難しくなっていた。 イランのイスラム革命に介入しようと、米国や欧州、ソ連などはイラクを積極的に支援した。革命後のイラン国内では反米運動が盛りあがり、またイランのイスラム革命精神の拡大を恐れた事も関係した。アラブ諸国はスンニ派や世俗的な王政・独裁制が多い為、イランの十二イマーム派の革命の輸出を恐れてイラクを支援した。 西諸国共に対イラン制裁処置を発動した為、物資、兵器の補給などが滞り、また革命による混乱も重なって人海戦術などで応じるしかなかったため、大量の犠牲者を出した。兵力は1000人規模で戦死者が共同墓地に埋葬されており、このときからイランと北朝鮮の親密関係が構築された。しかし、全般的には劣勢であり、時にはイラン兵の死体が石垣のように積み重なることもあった。完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなっていた。 その後、アラブ全てを敵に回しているイスラエルがイランに援助を始める。米国製の部品をイスラエルが代わりに調達するなどしてイランを支えた。加えて、イスラーム重視政策を採ったシリアとリビアがイランに味方した。 1985年3月、イランとイラクは相互に都市をミサイルで攻撃しあった。イラクはソ連のスカッドを改良した「アル・フセイン」をイランの都市へ撃ち込んだが、これによってイランはミサイル開発にこだわるようになる。5月にはイラク空軍機がテヘランを空襲。1986年6月にはイラク軍のミサイルがイランの旅客列車に命中した。 1988年2月、イランとイラクは相互都市攻撃を再開、ここにおいて米軍がペルシャ湾に出動、4月14日にイランとの間で交戦となった(プレイング・マンティス作戦)。さらに、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが断交を通告。イランは7月に安保理決議598号の受諾を表明し、8月20日に停戦が発効した。 両国の犠牲者は100万人程度と推定され、経済的な被害も大きい。 |
イランの工事現場 |
肥沃な農村地帯 |
酪農も活発 |
☆スーサ遺跡(紀元前4,000年頃の神殿跡)
現在のイランの西南部に位置し、エラム王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代には、王都として栄えた都市。 スーサの歴史は古く、アクロポリスからは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されている。紀元前30世紀から紀元前7世記に跨がるエラム王国の首都であった。 |
アケメネス朝の城塞があった場所 |
フランス考古学調査隊の城 |
当時の栄華を偲ぶ |
紀元前4000年にまで遡る神殿跡 |
装飾された馬の彫像、損傷が激しい |
黒装束、覆面、サングラス、ディジカメ、バッグの妖しい軍団発見! 宇宙人か? |
☆スーサ博物館
隣接する博物館 |
馬のレリーフ |
動物を退治する人間像 |
アケメネス朝の戦士か? |
刀剣類 |
エラム王国の戦士 |
お宝 |
当時の文字が刻まれている |
目も眩しい金 |
どのくらいの価値が・・・ |
一袋でも欲しい・・・ |
これも金? |
☆ランチ・タイム
レストラン |
何やら沢山 |
ナンに模様が |
ナスのシチュー |
イラン風おこげご飯 |
☆ダニエル廊 (預言者ダニエルの廊)
空高く伸びる白い塔が美しい聖ダニエル廊は預言者ダニエルの廊。1870年建てられた。独特の乳白色の円錐形の塔である。 |
豪華な廊 |
乳白色の円錐形の塔 |
☆ハフト・テペ (世界遺産:紀元前2,000年頃の都市遺跡)
イラン南西部にある古代エラム王国の都市遺跡。 現在のフーゼスターン州の都市シューシュの東郊に位置する。 紀元前2000年頃のものとされ、王族の宮殿や墓、神殿などの遺跡が見つかっており、棺や骨壺などの出土品を展示する博物館がある。 |
説明版 |
世界遺産マーク |
現在も発掘中 |
墓からは2000年頃の多数の頭がい骨が発見される |
☆チョガザンビル (世界遺産:紀元前13世紀の遺跡)
紀元前13世紀の中頃、エラム王国の黄金時代に建設された都市。 保存状態の良い世界最大級のジグラット(遺跡)が残っている。 |
遠景 |
入口 |
世界遺産マーク |
1辺100メートル、高さは28メートル、往時は五階建て50メートルと推定 |
1935年、油田調査中に偶然発火円されたエラム建築の代表作 |
階段状ピラミッドは現在3段目まで現存 |
日干しレンガ |
レンガには楔形文字 |
☆牛の水浴び
連日35度前後のイラン南西部、牛も水浴び |
ひと際大きい牛、牛の王様か? |
☆夕餉
そろそろ飽きてきたイラン料理 |
エビのケバブは美味しかった |
☆再び テヘラン へ
ホテルは綺麗 |
テヘランの街はグルリ4000mクラスの山に囲まれている。高度は1000m以上で涼しい |
☆絨毯博物館
1978年の革命直前にオープンしたテヘラン市内にある絨毯博物館。 古い歴史が詰まった名品のコレクションをじっくり見ることができる。イラン各地の有名産地から集められた100枚以上の美しいアンティーク。 15世紀から今世紀にかけて、それぞれ手作業で織り上げられた世界に誇る芸術品である。 一見、絵画の美術館かなと思ってしまうほど、繊細な絵はすべて手織りである。 デザインの基本となっているのは草花や動物、祈りの意味を幾何学化したものや、昔の王様など多種多様である。 |
絨毯博物館看板 |
全景 |
絨毯のように美しい庭の大木 |
現地ガイド氏も疲れが・・・ |
イラン国内で造られる地名 |
有名産地から100以上のアンティーク絨毯 |
イスラムは偶像崇拝は好まれないが、特別? |
植物や |
人間も |
これは・・・ |
どこかのレリーフ模様? |
まるで絵に描いたよう |
宮廷の王様か |
染料の原料は野生の花が多く、その色はワインレッドやネイビーブルーにアクセントとなるアイボリーなど実に豊富である。織りあがると紅茶で洗い生地を柔軟にするが、この工程でペルシア絨毯特有の風合いが増す。 絨毯の産地毎に模様のパターンやデザインはさまざまである。またガッベーやゲリーム(ペルシャ風キリム)のような絨毯は織り方やノット数にバリエーションがある。 |
これも織物か? |
緻密・・・ |
日本版スゴロクか? |
☆伝統料理「アブ・グーシュト」
羊の肉、野菜が壷の中で煮込まれているもので、食べ方にルールがある。 その食べ方とは、まず、壷からスープのみを別の器に取り、ナン(パン)を手でちぎり入れ、ナンにスープを浸して食べる。 次に壷に残ったものをすりこぎのような棒でよく混ぜてペースト状にして、これをナンに付けて食べる。 |
地元有名店へ |
どこかの王女様? |
店内 |
サラダから |
こうやって食べます、と実演 |
先ず肉やその他の物をここでつぶして |
ナンはちぎってスープに入れ |
よく混ぜる、ハイ、やってみて! |
デザートだって |
イケ面のお兄さんが、こうするんだよ・・・ |
黄色い棒はシュガーでした |
面白そう・・・ |
水タバコはこうするの・・・ |
イラン人は水タバコ、雰囲気がある。 |
☆テヘランの街並
混雑する街中 |
タクシーも多い |
戦争兵士 |
☆中央銀行の宝物館
光の海 |
イラン革命前のパーレビ王朝(イラン最後の王朝)の所有していた宝飾類を展示している。 宝石をちりばめた三つの王冠(最も有名なパフラヴィー・クラウンには3千個のダイヤモンドが使われているそう)。2万6千個の宝石を象眼した「孔雀の玉座」(これはパフラヴィー朝の王が作ったものではなくインドから前政権が持ってきたもの)。 3.6キログラムの純金と5万1366個の宝石を使った「宝石の地球儀」(イランの部分はダイヤモンドで光っている)。宝石で飾った傘や杖。ダイヤや真珠、エメラルドを使ったブローチやネックレスの数々。そして加工されていないままのエメラルド、ルビー、アメジストなどがざらざらとトレーに入れられたまま無造作に置かれていて、それが宝石に見えなくなってくるほどの量である。 このダイヤは「光の海」という名前で知られており、「光の山」というダイヤとセットであったが、「光の山」の方はインドからイギリスに渡っているはずとの事。 |
イラン・メッリー銀行 |
地下にある宝石博物館、厳重な警戒 |
宝石の地球儀 |
孔雀の王座 |
光の海 |
パフラヴィー・クラウン |
☆革命記念塔 (アーザーディ・タワー) ☆ショッピング・センター
ペルシア建国2500年を記念して建てられた |
テヘラン最大?カメラ持ち込みNO |
☆ホメイニ廊
ホメイニ師の後ろ姿の銅像 |
1979年のイラン革命の中心的人物で、革命後は初代の最高指導者となったホメイニ師の廊 |
豪華なモスクが4つも並ぶ。国民の生活は苦しいだろうに、資金が一部の後継者の懐に消えていくのでは・・・疑いたくなる? | ホメイニ師は1989年に亡くなったが、23年以上経過してもまだ未完成。こんな立派な廊をホメイニ師は望んでいるのだろうか。革命前後は質素な生活をしていたと言うのに。 |
☆エマーム・ホメイニー国際空港
新しく作られた国際空港 |
五段目のドバイ行き、間もなく機内でビールが飲める、ワインも! |
☆アルコール解禁そして格安航空機(LCC)の実態
成田空港のホテルでゆっくり泊まり、心行くまで酒風呂に浸かろう。もう、イスラム圏はイヤイヤ! | 予約済のスカイ・マークは何故か欠航、金はその場で1万円返金。さあ〜JALゃANAは片道3万円。ではと、初めてLCCのエア・アジア7,400円の航空券を買う。 | 成田空港のエア・アジア待合室はまるで倉庫、ひどいね〜。 |
椅子もこれでは発展途上国並み |
千歳行きはもうじき |
利用者は若い世代が多い、だが本日はスカイ・マークのキャンセルで高高年も多い。 |
3時間待たされ、やっと乗れた |
超満員、しかし機内放送で機長からエンジントラブルでお待ち下さいとアナウンス。何やら不安が走る。 |
3時間待ってもまだ動かない。お昼ですので機内販売致します |
普通はサービスだろう? しっかり金をふんだくられた。その後やはりエンジンなので、安全を期して欠航しますの案内。3時間も待たすなよ! |
しっかりしすぎるLCC エンジントラブルで欠航したエア・アジアは、次は6時間後のフライトですが、空席はわかりません、とつれない案内。返金は全てインターネットでお申し込み下さいと言う。 今度は早い便をまたまた探すと、最初のスカイ・マーク、今回は正常料金でお高いですと言う。それはないだろう、そもそもあんたの会社が原因なのだから、「・・・・・」もの云わぬ人形相手では勝てない。 結局この日は格安航空機は2度も欠航。帰宅してから仲間にさんざん冷やかされた。「安物買いの銭失い」と。当分、世界放浪の旅は欠航か? |
☆略史
・紀元前3200年から紀元前2700年 原エラム時代 |
旅を終えて・・・ 日本人に似ている国民性で良い国であった。 目に付いたのは遺跡、モスク、食べ物、女性の黒いかぶり物だろうか。 とにかく今は平和なイランであった。イスラム・シーア派は他より厳しい戒律の国である。良くても悪くても この様な時、我が日本は。時の首相が先頭で「死の商人」として原発を売り歩いている。まだ自分の国の |
参考文献 |